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准后道興『廻国雑記』 武蔵国の山伏

フェイクだった日高市女影の『三十三間堂跡』


1.駒形山堂記 の日高市不動尊の記録

(1)駒形山堂記『日高の鎌倉街道史話 横田八郎著 昭和62年

以下、駒形山堂記(一)(『日高の鎌倉街道史話』24頁)より引用。
江都の西、高麗郡高萩村駒形山は優婆塞(うばそく)修験の道場なり、山堂あり不動明王の像をおく、
伝えて曰く、役小角、一たび此地を過ぎ、其地霊を知る。
因みて法験を以て祈って真形を見る。
其貌(かお)を模刻し、萩草を用いて一宇を結んて之をおく、
而(しこう)して四百有余年を歴して退転に因(ちな)みて山僧高岳、高弁両師之を中興し、弥勒寺又は高萩院萩原堂と号す。其肇(はじめ)より今に到る千有余年、幸に之(これ)をあおぎみれば、即ち幽厳然真に在るが如き
・活眠(かつがん):両眼を見開き
・隆鼻(び):鼻は高く
・火口(かこう):力を入れて開いた口、歯ぐきが赤く火山の火口のごとく
・銃牙(がんが):左右の歯は鋭く飛び出している
火えん烈々、剣光爛々、怖るべく畏(かしこ)むべし、
嘗て天平勝宝中、釈良弁、小角刻む所の像を以て之を崇め、帖中の秘となす。
別に自ら一謳を刻んで之を帖前に置く、亦厳然真(げんぜんしん)に在るか如し。又堂の南三百歩を行けば、竹樹うつそう中に神宮あり
 

(2)国立博物館不動明王像(下図):日高市不動尊の記述似の像


「高萩不動尊」が役小角および天平勝宝年間となれば、「弘法大師空海説」はあやしくなってくる。日本最古級の不動明王かどうかの問題だが、実物の存在の有無に関係なく、この記述は、実物を見ないでは書けない内容である。第一級の価値ある記述である考えられる。

(3) 弘法大師以降の不動明王像:日高市不動尊の記述と異なる像


弘法大師以降の真言密教系の不動明王の像容;(国立博物館提供写真)
弘法大師以降の真言密教系の不動明王の像容は、背の低い、ちょっと太めの童子型の造形が多く、怒りの表情をしている。
・目は天地眼(てんちげん):右目を天に向けて左目を地に向けている。
・口は牙上下出:右の牙を上に出して左の牙を下に出している。


(4) さいたま文庫・37 「高麗聖天院」(*)(高麗山聖天院パンフレット)

・日高市聖天院の不動明王坐像の顔の特徴(高麗山聖天院パンフレット、11頁)

高麗山聖天院パンフレット
上の写真は高麗山聖天院の不動明王
弘法大師以降の真言密教系の不動明王で比較的新しいものである。
・目は天地眼(てんちげん):右目は天に、左目は地に向く。
・口は牙上下出:右の牙を上に出して左の牙を下に出している。 

 ①     貞和(北朝暦)年間(1345~1350)、南北朝時代:中興第一世秀海上人による中興開山、真言宗。北朝暦であるから足利尊氏による寄進である。南朝方の痕跡が微塵もないということが重要である。
 ② 天正11年(1584):第二十五世圓眞上人、不動明王に改められたとの記述。天正11年は小田原北条氏の治世である。銘札には天正8年(1580)4月に法眼大蔵長盛が造立と明記。聖天院の不動明王像は小田原北条氏の寄進によるものであることがわかる。 
(*)高麗山聖天院勝楽寺世代(書き)の矛盾?
『高麗山聖天院勝楽寺世代(書き)』は何か怪しいと直感したが、やはり印象操作の域をでないシロモノでした。要するに、後世、特に明治以降のビジネスツールに過ぎなかった。歴史の真実は、南北朝時代の足利尊氏による中興開山と戦国時代末の小田原北条氏の寄進により隆盛の歴史が明かになったのである。
①中興開山:貞和年間(1345年~1350年)
 この時代は北朝の足利将軍の実行支配の時代、後醍醐天皇は亡くなっている。一方、尊氏の方は必要に迫られ天龍寺など寺社仏閣の寄進と支配に心血を注いでいる時期である。位相は一致。
②本尊不動明王寄進:天正八年(1580年)
小田原北条氏による善政の時代で市と共に寺社仏閣への多額の寄進が際立つ時代である。小田原北条氏の寄進による寺社仏閣が多く残っている関東平野、武蔵国、特に日高市。
徳川幕府は、小田原北条氏の善政は煙たかったでしょう。因みに、台の岡上家は三代め辺りで弾圧された。
②     明治からの受難の歴史:
足利尊氏の足跡はことごとく封印された。こうした意図的な歴史改竄の上に無理やり高麗氏なんちゃらカンチャラ、おチャラケ史が登場したわけです。



2. 駒形山堂記『日高の鎌倉街道史話』 

(1)【駒形山堂記』(『日高の鎌倉街道史話』P24~P26)

江都の西、高麗郡高萩村駒形山は優婆塞(うばそく)修験の道場なり、山堂あり不動明王の像をおく、伝えて曰く、役小角、一たび此地を過ぎ、其地霊を知る。因みて法験を以て祈って真形を見る。其貌(かお)を模刻し、萩草を用いて一宇を結んて之をおく、而(しこう)して四百有余年を歴して退転に因(ちな)みて山僧高岳、高弁両師之を中興し、弥勒寺又は高萩院萩と号す。
其肇(はじめ)より今に到る千有余年、幸に之(これ)をあおぎみれば、
即ち幽厳然真に在るが如き
・活眠(かつがん):両眼を見開き
・隆鼻(び):鼻は高く
・火口(かこう):力を入れて開いた口、歯ぐきが赤く見えて火山の火口のごとく
・銃牙(がんが):左右の歯は鋭く飛び出している
火えん烈々、剣光爛々、怖るべく畏(かしこ)むべし、
嘗て天平勝宝中、釈良弁、小角刻む所の像を以て之を崇め、帖中の秘となす。別に自ら一謳を刻んで之を帖前に置く、亦厳然真(げんぜんしん)に在るか如し。又堂の南三百歩を行けば、竹樹うつそう中に神宮あり。
神祇社と称す。天神地祇と日本武尊を合祀す、伝えて曰く、古、尊東征してこの地を過ぎ、山に登って一祠を立て功を神祇に祈ると。物換り星移り、欽明の御世丙寅(ひのえとら)の歳に至り、郷民、尊を崇めて合祀す、然るに元弘年中に至り、源中将義貞兵を東方に挙げ、勝利を此神に祈り日ならずして強敵を亡ぼす、後又永享年中、源将軍義教、敵を討って勝を此神に祈り、亦日ならずし凱歌を奏す。当に斯れ間をあくる戦の餘り、郷党民屋、神廟仏奇尽く兵火の難にかかって、ひとり灰燼の害を免るるは、将軍勝を祈るの功に因るなり、ここに於てか、其の宝鑑を伝えてその祭典に供うると云う。且つ夫々本宮六社之を駒形山高萩いた権現と統称す、すべて山中経る処奇多し。
小角験を見(あらわ)せし跡なり、千手堂は行基霊を止し処なり、松々天婦の美あり、名流脱苦の恵あり、嶺秀で、水清く、草木暢茂(ちょうも)するを称して、逸してすむべく、龍わだかまって潜むべし、意(おも)うに衝人山を買い、隠士高臥(いんしこうふ)するは、豈独り艶嶺東山のみならんや。
明王閣に題す
明王皇閣翠微の中焙気雲に接して
半空に横たわる影流に溯ってこう没す
悌声飛姻71して鳳らんむらがる
松問遥かに捲く採級の握111上高くかかる
素月の弓暫らく誠心に住って寂渓に舛す
妥に脱両をうかぺて深宮に下る
右記文一篇井詩一律
    弐西隠客勝徹明子環謹述且題
 

(2)箱根山御領属高萩駒形之宮二所之檀那之事 『日高の鎌倉街道史話』 (P27)


右彼柏那等豊川阿閣梨可有引導候、請用物三分二者堂島造之時計、三分一者高萩駒形之宮之時計、又細々之所禱之事道先達土用極月祈禱等之事者、豊前阿閣梨に申定候専越候、此檀那者いつかたに候共行満坊はからいたるへ<候、仍譲渡状如件、
文安元年甲子十二月十三日
山本大坊 法印栄円 (花押)
この文書は、文安元年(1444)越生の山本坊栄円が高萩の駒形之宮二所の旦那引所蔵(祭祀職)を行満坊豊前阿闊梨に譲渡すると云う内容である。駒形之宮ニケ所とは、駒形山は優姿塞修験の道場なりとある如く、また、竹樹うつそう中に神宮あり、神祇社と称すると記にあるがあるいはそれをさすものか。
 

 

3. 清水嘉作氏の『三十三間堂』の歴史改竄 

(1)棟札:長寛二年(1164)の棟札(*)

「皇統七十八世二條院御宇長寛二甲申(1164)年卜本堂棟札等ニ記有之」

『日高の鎌倉街道史話』(P28~P30)

(2)(*)【長寛二年(1164)の主な出来事】

・8月:崇徳法皇没(46)
9月:清盛以下平氏一門、法華経を書写し、厳島神社に奉納(平家納経)
12月:平清盛、御白河上皇の命により蓮華王院を造営し、その功により、子重盛、正三位に叙される。

(3)【蓮華王院(三十三間堂)HPより引用】

『久寿2年(1155)、第77代天皇として即位した後白河天皇は、わずか3年で二条天皇に位を譲って以後、上皇として「院政」をおこないました。
三十三間堂は、その御所に長寛2年(1164)造営されましたが、80年後に焼失し、まもなく後嵯峨上皇によって再建されました。
その後も手厚く護持され、室町期・足利第六代将軍義教により本格的な修復がおこなわれました。彼は仏門に入って、比叡山・天台座主を勤め、京洛の禅寺に修理の寄付勧進を命じて、屋根瓦の葺き替えをはじめ、中尊・千体仏など内外両面の整備をおこないました。』

(4)新編武蔵野風土記稿 「高萩院」の項

駒形山彌勒寺萩之坊と号す。本山派修験、聖護院の末寺なり、本尊不動神變菩薩(行基)の作、木の立像長七寸(21cm)、法流開祖大僧正行尊なり、寺記に曰、當山者、宗祖神變菩薩修行の足跡にて、本尊不動明王は神變菩薩の作りし長七寸のぞうなりと、又言い伝えでは、
人皇(神武天皇以後の天皇のこと)74代鳥羽院御宇、永久年中(1113~1118)、
前(さきの)大僧正行尊(1055~1135)が諸国遊歴の時、こゝに高安と云うものあり、
行尊に従い法を学び名を行安と改む。行安又法を高岳に授く。
 
人皇78世二条院御宇、長寛年中(1163~1165)、高岳一宇を建立して、
駒形山弥勒寺高萩院と號し、祖師の遺跡を新たにせりと、因って高岳僧都を開山と稱す。
 
又、法流元祖者、大僧正行尊導師なり、行尊は京都聖護院宮第二祖にて、諸国名山霊地修行し給いしとなり、行尊師は諫義(諫言)大夫源基平(1026~1064)の子にて、仏法を信じ、發心(はっしん)出家して頭陀(ずだ)を好みたまいしこと読書に顯然(けんぜん)たりしなり。



 
 

(5)武州高麗郡高萩郷駒形山 『由緒・世代書き』

【由緒】  武州高麗郡高萩郷駒形山者傳云往古高祖役小角諸国霊山修行ノ砌(みぎり)此地ノ霊十八ヲ知召錫ヲ留メテ 以法験不動明王ノ真形ヲ祈現シ 其貌ヲ模刻シ 結一宇安置シ玉ヒ 其後歴四百有余年退轉ス 此地者高祖修行ノ霊地ナル故 行尊當山ヲ修行玉シ 爰(ここ)ニ高安卜云者有リ 常ニ佛乖ヲ信仰シ 行尊順国ヲ幸トメ 帰依随身シ 法学名ヲ改テ行安卜号ス當山ヨリ二町程南 行安山ト云有 當寺中興開山高岳 行安ニ随身シテ法ヲ学ヒ新ニ結一宇号弥勒寺干時 

【世代書き】
開山 高岳 寿水元壬寅年(1182)正月廿八日人滅 (後白河上皇)
二世 高絣 貞永元壬辰年(1232)正月十五日人滅 (後白河・後鳥羽上皇)
三世 高原 文永三丙寅年(1266)十月七日歸寂 (後嵯峨上皇)
四世 高尊 嘉元二甲辰年(1304)四月五日示寂 (亀山上皇)
五世 高和 延元元庚辰年(1336)三月六日示寂 (延元は南朝年号?)(北朝は建武3年)
六世 高寛 貞治四乙己年(1365)七月十九日寂 (北朝年号)
七世 高盛 應氷十八辛卯年(1411)七月廿日寂 (足利義持将軍)
八世 良泉 文安三丙寅年(1446)五月六日寂 (足利義持・義重・義教)
九世 良以 長禄元丁丑年(1457)八月廿九日寂  (足利義勝・義成・義政)
十世 高長 文明十七乙已年(1485)八月廿九日寂 (足利義尚・応仁の乱・享徳の乱)
十一世 良輝 永正七庚已年(1510)年正月十八日寂 (足利義高)
十二世 良顕 弘治二丙辰年(1556)四月二日寂 (足利義輝・義昭)
十三世 良嘉 天正五丁丑年(1577)十一月十六日寂(足利義昭・)
十四世 良慶 元和四戊午年(1618)十一月一日寂 (後陽成天皇)⇒(徳川家康・秀忠)奥川ヲ徳川卜改姓シケル人太鼓打方ヲ止ニ行
十五世 良源 慶安二已丑年(1649)六月廿日寂  
(家光) ‥‥‥‥‥新田の系図を徳川文庫から‥‥‥‥
十六世 良海 宝永五戊子年(1708)六月十五日寂 (綱吉)
十七世 良榮 宝暦二壬甲年(1752)二月十五日寂 (家重)
十八世 良快 明和四丁亥年(1767)正月十六日寂 (家治)
十九世 良寛 隠居在世廿世 教寛 當在右當寺 由来幷世代記録改 相違無御座候以上天明七丁未年(1787)三月  (家治・家斉)天明3年浅間山噴火、 駒形山 高萩院 

『日高の鎌倉街道史話』(P28~P30)  
 

4.永久二年(1116)の行尊大僧正


行尊の活躍した時代の相関図

行尊大僧正論 (上) : 生涯と作品 近藤潤一 著 ・ 1973年

https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/34303/4/10_P67-133.pdf

行尊大僧正論 (下) : 生涯と作品 近藤潤一 著 ・ 1976年
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/34319/1/13_PR13-77.pdf

『行尊大僧正論 (下) : 生涯と作品 近藤潤一 著 ・ 1976年』
永久二年~永久四年を抜粋


永久 二年(1114)~三年【六十・六十一歳】
この問、行尊の動静を示す史料はほとんど発見できない。
ただ、 二年十一月五日、新御顧寺法勝寺落慶供養に参仕したことが見えるだけである。
かれの周辺では、二年七月廿一日、仁和寺大教院が焼亡した。
一品宮聰子内親王が、父後三条院追善のため建立(永保三年)してから、もう三十一年も経ている。
先朝遺愛の皇女輔仁親王母儀の堀河院中宮篤子内親王も、年来の病悩がつのって、十月一日に世を辞した。
中宮は祖母陽明門院の庇護を得て准后に遇せられ、堀河朝には名目的な中宮の栄称を得たが、
嘉承二(1106)年九月には落飾して、病を養っていた。
五十五歳、わずかの救いは、二年十月廿八日、輔仁親王第一子有仁王が、白河院猶子となって参院、元服の慶事が催されたことがあった。
前駆の一員には、当時五十歳の前右兵衛佐行宗朝臣も加わり、行事万般にわたって奉仕に努めた。
行宗は、鳥羽朝初年に、行海(天仁二年生誕) 任覚(天永元年生誕)の、後の東寺長者たる両男子を儲けていたが、
本人自身はまだ散位のままに沈淪している。
地下にて侍りし頃 
雲井にはまだ聞えぬか沢に住む頭の髪も白田鶴の声

かれは、斎院時代から令子内親王に奉仕していた。
その内親王も、かつての郁芳門院にかわる父院の愛を受けて、今は鳥羽付帝准母儀の皇后宮であった。
その斎院時代、堀河帝に国信、基綱、師頼らの源家公達歌人と華やかな宴遊、和歌を楽しんだ記憶も、すでに懐旧の彼方に去った。
そのかみの歌友俊頼もまた、ようやく衰老に向かおうとして、なお地下に沈んでいる。
そう言えば俊頼との間には、かれとの親密さを語る挿話も残された。

肥後君と修理大夫行宗と言ひ語らふ中にて、常に歌詠み交わすと聞きけるに、
津の国に塩浴みに籠りて、かの国より 彼大夫の許に (肥後)
草枕笹垣薄き芦の屋はところせきまで袖ぞ露けき
と詠みて送りたりけるを見て 、此歌の心にては、
ただの語らひにてあらざりけりと見えければ、詠みて遣しける
 笹垣の薄き芦戸の露けさに萎れにけりと見えもするかな
肥後の君
芦の屋に萎れも臥さずかりにても露に心を何に置くらむ 

〈ところせきまで〉涙が置く、と詠み送った肥後の消息を、俊頼に披露する程の心安さだったのである。
もっともこれは、『続詞花集』 詞書では国信への消息としている。
『内肥後集」では単に「人のがり」と詞書する。
俊頼の所伝の方が信じられるだろう。その俊頼も都を離れる。 
白川にで、俊頼朝臣伊勢へ下りし餞(はなむけ)に
たのむべき我身なりせば幾度か帰り来む日を君に問はまし 

俊頼の伊勢下向は 永久二年頃と推定されている。

永久 四年(1116)【六十二歳】
 正月十九日、寺門を代表する長吏法務大僧正増誉が、白河院の敬信篤く、寵賞盛んな験徳の人で、
行円の資としても、また修験無双の修行歴においても、行尊の大先であった。
白河、堀河両帝の護持憎を歴任、寛治四年白河院熊野行幸の先達を勤仕して、
始めて熊野三山検校識に補されたのもかれであった。
僧界最高め栄位栄職を究め、十三箇寺の別当職を一身に兼ねた。
圓城寺におけるその後継者は、今や行尊なのであった。
かれはただちに圓城寺金山の長吏に選ばれる。

五月廿三日には玉体護持の労によって権僧正に任ぜられると同時に、長吏の事が発令された。
寺門附属の熊野三山検校職をも兼任する。
 かれはもともと事相の入、修験力行によって高徳を得た加持祈祷の人であって、
爛熟期秘密修法を代表する儀軌(ぎき)の人ではない。
その方ならば、たとえ、ば白河院皇子中御室覚行法親王や、
東密の寵僧寛助僧正らに委ねてよかったのである。
たとえば、慶和年聞に覚行法親王の営んだ諸種修法は、各種連壇修法はもちろん、
その他にも孔雀経法 愛染王法、理趣三味法・六字法等を網羅して、
白河院貪欲なまでの調伏、敬愛、延命等の要求を満たすべく、
新法別尊法の隆昌化を積極的に体現しつつあった。

 圓城寺の修法でも、東蜜中心の愛染明王法に対して、
金剛童子法や尊星王法の独自の新修法を分化させることが指摘されているけれども、
行尊の本領はそれとも趣を異にしていて、利他の誓願によって両界秘法を修し、
超人的修行階梯を攀じ切って界会の諸仏諸尊に同化する神秘的霊験能力に集中している。
そのかれが、今、三井一山を双肩を担う代表僧として、
 天台座主仁豪を越えて権僧正に任ぜられたのであった。 

この年四月四日、行宗が白河院鳥羽殿北面歌合に参加、
〈よそ目には 言を出詠している 末の松山越す浪に見えまがひつつ咲ける卯の花〉
をはじめ五首を出詠している。
しかし「永久百首」 の作者には加えられていない。

七月十七日 行尊が加持している。 

永久 二年(1114)~三年【六十・六十一歳】
この問、行尊の動静を示す史料はほとんど発見できない。
ただ、 二年十一月五日、新御顧寺法勝寺落慶供養に参仕したことが見えるだけである。
かれの周辺では、二年七月廿一日、仁和寺大教院が焼亡した。一品宮聰子内親王が、父後条院追善のため建立(永保三年)してから、もう三十一年も経ている。先朝遺愛の皇女輔仁親王母儀の堀河院中宮篤子内親王も、年来の病悩がつのって、十月一日に世を辞した。中宮は祖母陽明門院の庇護を得て准后に遇せられ、堀河朝には名目的な中宮の栄称を得たが、嘉承二(1106)年九月には落飾して、病を養っていた。五十五歳、わずかの救いは、二年十月廿八日、輔仁親王第一子有仁王が、白河院猶子となって参院、元服の慶事が催されたことがあった。前駆の一員には、当時五十歳の前右兵衛佐行宗朝臣も加わり、行事万般にわたって奉仕に努めた。行宗は、鳥羽朝初年に、行海(天仁二年生誕) 任覚(天永元年生誕)の、後の東寺長者たる両男子を儲けていたが、本人自身はまだ散位のままに沈淪している。
地下にて侍りし頃
雲井にはまだ聞えぬか沢に住む頭の髪も白田鶴の声
 
かれは、斎院時代から令子内親王に奉仕していた。その内親王も、かつての郁芳門院にかわる父院の愛を受けて、今は鳥羽付帝准母儀の皇后宮であった。その斎院時代、堀河帝に国信、基綱、師頼らの源家公達歌人と華やかな宴遊、和歌を楽しんだ記憶も、すでに懐旧の彼方に去った。そのかみの歌友俊頼もまた、ようやく衰老に向かおうとして、なお地下に沈んでいる。そう言えば俊頼との間には、かれとの親密さを語る挿話も残された。
肥後君と修理大夫行宗と言ひ語らふ中にて、常に歌詠み交わすと聞きけるに、津の国に塩浴みに籠りて、かの国より 彼大夫の許に (肥後)
草枕笹垣薄き芦の屋はところせきまで袖ぞ露けき
と詠みて送りたりけるを見て 、此歌の心にては、ただの語らひにてあらざりけりと見えければ、詠みて遣しける
笹垣の薄き芦戸の露けさに萎れにけりと見えもするかな
肥後の君
芦の屋に萎れも臥さずかりにても露に心を何に置くらむ
 
〈ところせきまで〉涙が置く、と詠み送った肥後の消息を、俊頼に披露する程の心安さだったのである。もっともこれは、『続詞花集』 詞書では国信への消息としている。『内肥後集」では単に「人のがり」と詞書する。俊頼の所伝の方が信じられるだろう。その俊頼も都を離れる。
白川にで、俊頼朝臣伊勢へ下りし餞(はなむけ)に
たのむべき我身なりせば幾度か帰り来む日を君に問はまし
 
俊頼の伊勢下向は 永久二年頃と推定されている
 
永久 四年(1116)【六十二歳】
正月十九日、寺門を代表する長吏法務大僧正増誉が、白河院の敬信篤く、寵賞盛んな験徳の人で、行円の資としても、また修験無双の修行歴においても、行尊の大先であった。白河、堀河両帝の護持憎を歴任、寛治四年白河院熊野行幸の先達を勤仕して、始めて熊野三山検校識に補されたのもかれであった。僧界最高め栄位栄職を究め、十三箇寺の別当職を一身に兼ねた。
圓城寺におけるその後継者は、今や行尊なのであった。かれはただちに圓城寺金山の長吏に選ばれる。
五月廿三日には玉体護持の労によって権僧正に任ぜられると同時に、長吏の事が発令された。寺門附属の熊野三山検校職をも兼任する。
 かれはもともと事相の入、修験力行によって高徳を得た加持祈祷の人であって、爛熟期秘密修法を代表する儀軌(ぎき)の人ではない。
その方ならば、たとえ、ば白河院皇子中御室覚行法親王や、東密の寵僧寛助僧正らに委ねてよかったのである。たとえば、慶和年聞に覚行法親王の営んだ諸種修法は、各種連壇修法はもちろん、その他にも孔雀経法 愛染王法、理趣三味法・六字法等を網羅して、白河院の貪欲なまでの調伏、敬愛、延命等の要求を満たすべく、新法別尊法の隆昌化を積極的に体現しつつあった。
圓城寺の修法でも、東蜜中心の愛染明王法に対して、金剛童子法や尊星王法の独自の新修法を分化させることが指摘されているけれども、行尊の本領はそれとも趣を異にしていて、利他の誓願によって両界秘法を修し、超人的修行階梯を攀じ切って界会の諸仏諸尊に同化する神秘的霊験能力に集中している。そのかれが、今、三井一山を双肩に担う代表僧として、 天台座主仁豪を越えて権僧正に任ぜられたのであった。
この年四月四日、行宗が白河院鳥羽殿北面歌合に参加、
〈よそ目には 言を出詠している 末の松山越す浪に見えまがひつつ咲ける卯の花〉をはじめ五首を出詠している。しかし「永久百首」 の作者には加えられていない。
七月十七日 行尊が加持している。
 

5.准后道興『廻国雑記』

【常門跡譜云聖護院道興准后後知足院関白房嗣公息】


文明十八年六月上旬の頃、北征東行のあらましにて、公武に暇のこと申し入れ侍りき。各々御対面あり。東山殿(八代足利義政)ならびに室町殿(九代足利義尚)において数献これあり。祝着満足これに過ぐべからず。翌日東山殿へ二首の瓦礫をたてまつる。

 文明十八年六月上旬の頃、北征東行のあらましにて、公武に暇のこと申し入れ侍りき。各々御対面あり。東山殿(八代足利義政)ならびに室町殿(九代足利義尚)において数献これあり。祝着満足これに過ぐべからず。翌日東山殿へ二首の瓦礫をたてまつる。

  千さとまで思ひへだつな。富士の嶺の煙の末に立ち別るとも

  旅衣たつよりしぼる、武蔵野の露や涙を、はじめなるらむ御返し、

  思ひたつ富士の煙の末までも、へだてぬ心、たぐへてぞやる

  立ちかへる程をぞたのむ武蔵野の露分け衣、はるかなりとも


室町殿、此の御贈答を聞し召し及び侍りて、下れける、

  思ひやれ。はじめてかはす言のはの富士の煙にたぐふ物とは

御使をまたせて、とりあへず、

  富士の嶺の雪もおよばず、仰ぎみる君が言ばの花にたぐへて

 禅閤(近衛房嗣、道興の実父)ことしは八十五にてましましけり。此の度の行末様々とどめさせ給ひけれども、我が身すでに耳したがふ齢に及び侍れば、行歩もいよいよかなひがたし。かくていたづらに明し暮さむ事もそらおそろしく侍れば、厳命に応じ侍らぬことのみ心苦しく侍れども、すでにあひ定め侍るうへは力及ばす。さる程に馬のはなむけとて、骨肉皆々来り集り給ふ。禅閤より使を賜りて、老屈のしぎにて合期しがたく侍れども、余りになごりもせちに侍れば、是まかでみなみなの跡を慕ひ侍るよし承りて、盃酌の席に出で給ふ。ややありて盃のひまによみてたまひける歌、

  身は老いぬ。また相見むも難ければ、今日や限りの別れなるらむ

あはれさ肝に銘じて、満座の老少感涙にたヘず。返歌すべきよし侍りしかば、かの在中将(在原業平)が老母、長岡にてのぶること、ふと心に浮び侍れば、

  君がため千世もと祈るしるしあらば、さらぬ別れを神も憐め

同十六日早朝に、なか谷の蓬畢#をたち出でて、大原越に赴きけり。とし月馴れし柴の庵、しばしばかりの名残さへ、立ち別るるは心細きを、あだしよの習ひといひ、身既に老後の事なれば、立ちかへり住居すべしともたのまれず。池の辺にたたずみて、

  住みなれしこの山水の哀れ、わが誘はれ出づる行衛しらずも

大原まで皆々うち送りに来侍る。中に乗々院法印経親、神明の拝殿にて、わりごなど携へ侍りて、数刻興を催し侍りき。此の社頭は伊勢にて渡らせ給ひけるとなむ。西山の大原を思ひ出でて、神殿に法楽し奉りける、

  大原の神は、天てるかげながら、たのむ春日も、おなじ光りを

◆近江国
葛川を一見してよめる、
  白露の玉まくくずの、かつら川。くる秋にしも我はかへらむ
今宵は朽木に泊りて、いつしか故郷も遠ざかりて、われ人心細く侍れば、【朽木村】
  浮世をばわたりすてても、山川や、朽木の橋に行きかかりつつ

 

若狭国
これより若狭国小浜にいたる。曹源院といへる禅院に宿す。兼ねてより武田大膳大夫入道申しつけられしとなり。かの寺は先年順礼の時も立ち寄りけるよし申す人あり。よくも覚え侍らす。爰に老僧侍り。聊か文才などあるよし見えければ、筆にまかせて、 【小浜市】

  遠来城門成客来
  嵓房何処擁蘿苔
  曾遊此地都如夢
  老衲相迎攀小台

 翌日未明に出で侍るあひだ、和韻を見るに及ばす、紫念の至りなり。行印法印といへる法師侍り。恵順法眼が同朋なり。古へ連歌の席にて度々逢ひ侍りき。朽木より供し侍るが、善光寺参詣ののぞみ有りとなむ。小浜に暫く休みて、波をながめて、かの法印に申しかけける、

  かげ涼し立ちよる波の浜びさき
   まさご露けき夏のむらさめ      行印法印

同じ国三方といへる所にて、渺々たる海路をながめやりて、

  蜑小舟渡なかの浪に漕ぎいでて三方の海を四方にみるかな

かくて、こひの松原打ち過ぎて、浦見坂といへる所にて思ひつづけける、【三方町】

  問はばやな。誰が世に誰をうらみ坂。つれなく残る恋の松原

此の所々を打ち過ぎて、はたおりの池といへる所にやすみて、

  蝉のはの衣に夏は残れども、秋の名にたつ、はたおりの池

◆越前国
越前国敦賀につきけるに、浦のけしき面白く侍れば、しばしながめ侍りて、【敦賀市】

  はるはまた立ちぞかへらむ。梓弓つるがの浦の沖つ白浪

しらきどの橋椅といへる所にて、里人に尋ね侍れども、答ふるものも侍らずして、 【敦賀市白木】

  里の名もいさしらきどの橋柱、立ちより問へば波ぞこたふる

またおなじならひに、たかきの里といへる所に、柳の侍りけるかげに、われ人すずみて物がたりし侍りける間に、 【武生市、福井市?】

  里の名を名のるたかぎの柳蔭、秋かぜしのぶ夕すずみかな

◆加賀国
加賀国にいたり、たちばなといへる所に宿をかり侍りて、 【加賀市橘町】

  旅立つも、さつきの後の身なりけり。我に宿かせ。橘の里

すはま川といひて、其の姿さながら庭などに造りたるすはまに少しも違ひ侍らず。そのまはり四五町にも余りぬらむか。奇妙なる姿なり。里人の申し侍りしは、相馬の将門作りたりなど語り侍りき。信用にたらず。 【      】

  すはま川。誰すみすてし遣水の跡とか見まし、庭のおもかげ

これよりしき地、いみなみうち過ぎて、いぶり橋とて、危くいぶせき橋に行きかかりぬ。 【加賀市動橋町】

  行き暮れて、ふめば危うきいぶり橋。命かけたる波の上かな

同じ国もとおりを通り侍りけるに、人のきぬをおりけるを見侍りて、【小松市本折町】

  誰かもと、おりそめつらむ賀びを加ふる国のきぬのたてぬき

汐こしの松を尋ね侍りて、

  年波の外にもたかき汐ごしの松の昔ぞ、汲みてしらるる

ほとけの原といへる所を過ぎ侍るとて、

  わがたのむ仏の原に分け来てぞ、行ふ道のかひもしらるる

吉野川といへる所にいたりてよめる、 【吉野谷村】

  妹背山、ありとはきかず。夏にしも、よしのの河の名に流れつつ

白山禅定し侍りて、三の室に至り侍るに、雪いと深く侍りければ、思ひつづけ侍りける、 【鶴来町白山比咩神社】

  白山の名に顕れて、み越路や、峯なる雪の消ゆる日もなし

下山の折ふし、夕だちし侍りければ、

  のふだちの雲はしらねの雪げかな

これより、吉岡といへる所に、しばらくやすみて、 【河内村】

  旅ならぬ身も仮初の世なりけり。うきもつらきも、よしや吉岡

下白山といひて、本のしら山の麓に、つるぎといへる所侍り。そのかみ剣飛び来しより、此の名を残しけるとなむ。 【鶴来町】

  しら山の雪のうちなる氷こそ、麓の里のつるぎなりけれ

今宵は矢矯の里といへる所に宿りけるに、暁の月をながめて、【野々市町矢作】

  今宵しも、矢はぎの里にゐてぞみる夏も末なる弓張の月

明くれば、野の市といへる所を過ぎ行きけるに、村雨に逢ひ侍りて、【野々市町】

  風おくる一村雨に虹きえて、野の市人はたちもをやまず

つばたといふ里に宿りけるに、住む人も稀にて、殊の外に閑素に侍りければ、【津幡町】

  旅人の枕の上におくたちの、つばたの里は、さびわたりけり

同じ国高松といへる所に行き暮れて、煙のたつをなかめやりて、【高松町】

  すむ人のたのむ木蔭や、それならむ。烟にくるる高松の里

◆能登国
これより能登国に到り侍りて、菅原といへる所にて、 【志雄町菅原】

  ふしみにはあらぬ野山を分け過ぎて、今宵かりねを菅原の里

また杉のやといへる所を通るとて、 【志雄町杉野屋】

  待人の思ふしるしは見えねども、とはではいかや、杉のやの里

よつ柳といへる所に、柳のあまた侍りければ、立ちよりて、 【羽咋市四柳町】

  里人の鞠の庭にはしめねども、いとなつかしき、よつ柳かな

小金森といへる所にて、しばらく休みて、 【鹿島町小金森】

  みちのくの山に花さく小金森。此の里までも種やまきけむ

藤井といへる所は、浦ちかき里なりければ、波をみてよめる、 【鹿島町藤井】

  浦ちかき宿りをしめて、春ならぬ藤井の里も、波になれつつ

くゑのやちといふ所にてよめり。 【鹿島町久江】

  心からうきすまひにも馴れぬらむ。八千たび何をくゑの里人

石動山に参詣して法楽し奉れる、 【鹿島町石動山】

  うごきなき御世に変りて、石動の山とは、神や名づけそめけむ

◆越中国
かくて越中国にいたる。ながれの森といふ所にて、 【富山市流杉?】

  年なかば、ながれの森に立ちよれば、老の涙も、その名なりけり

ねりあひといへる里に、野人ども物語しけるを見て、ある同行にざれごと歌を、

  足よわき老のカにともなひて、おきなもここにねりあひの里

岩城川といへる大河侍り。故里なる谷近きその名を思出して

  故郷の山に近しと、こひわたる岩くら川の影もなつかし

大森といへる所を過ぎけるに、残暑未だ散じやり侍らねば、われ人木蔭にすずみとりて、

  風はもり、てる日はうとき、大森の蔭にたちよる初秋の空

かくて立山に禅定し侍りけるに、先づ三途川に到りて思ひつづけらる。 【立山町】

  この身にて渡るも嬉し、みつせ川。さりとも後の世には沈まじ

翌日下山のついでに、もろもろの地獄を廻りけるに、熱湯の体火炎など、とりどりに浅ましかりければ、

  しでの山。その品々や。湧きかへる湯玉に罪の数をみすらむ

禅定するするととげて、下向し侍る道にて、

  都をば遠く越路にかへる山。ありとなぐさむ旅の空かな

宮崎を立ちて、さかひ川、たもの木、かさはみ、砥なみ、黒岩などいふ所を打ち過ぎ、駒がへりといへる所にて、 【礪波(となみ)】

  行末をいそぐとすれど、跡にのみ心をかくる、こまかへりかな

やまと川(富山県射水市)にてよめる、

  漕ぐ舟のさほの山べは遠けれど、名に流れたる大和川かな

◆越後国
七月十五日、越後の国府に下着。上杉兼ねてより長松寺の塔頭貞操軒といへる庵を点じて宿坊に申しつけ、相模守路次まで迎へに来たり。七日逗留。毎日色をかへたる遊覧ども侍り。爰を立ち侍るとて、二首の詠を残しとどむ。 【上越市】

  千とせへむ、しるしをみせて、この宿の軒端に高き松の村立

  日数へて、なれぬる旅の中やども、なごりは尽きじ。都ならねど

府中を立ちて長浜といへる所にやすみて、 【上越市長浜】

  行末の道をおもへば、長浜の真砂を旅のうき数にして

柏崎を過ぎけるに、秋風いと烈しく吹きければ、 【柏崎市】

  おしなべて秋風ふけば、柏崎。いかが、葉もりの神はすむらむ

あふみ川、かさ島など打ち過ぎて、鯨なみといへる浜を行きけるに、折節鯨の潮を吹きけるを見て、 【柏崎市青海川、笠島、鯨波】

  わきてこの浦の名にたつ鯨波。曇るうしほを風も吹くなり

やすだ、山むろ、みをけ、しぶ川、大井、きおとしなど打ち過ぎて、うるし山をこゆとて、 【柏崎市安田、山室、小国町三桶、川西町木落】

  初秋の露にぬるてふうるし山。今一しほぞ、風も涼しき

壷池といへる里にしばし休みて、或人に遣しける俳諧うた、

  あぢ酒をすすむる人もなき宿に、水のみわくや。壷池の里

これより、くつぬぎといへる里を過ぎ侍るとて、

  我も亦、あしをやすめて立ちぞよる水かふ駒の、沓ぬぎの里

ふくろふといへる里にて、ねざめに思ひつつけける、

  此の里のあるじかほにも名のるなり。深き梢のふくろふの声

あひまた、湯の原、などいふ所を分け行き侍りけるに、道のほとりの尾花を眺めやりて、

  すむ水はありともみえぬ池の原。尾花さわぎて、高き波かな

此の原をうち過ぎて、なぎなた坂といへる所をこえ侍るとて、またある同行にいひかけ遣しける俳楷歌、

  杖をだにおもしといとふ、山越えて薙刀坂を手ぶりにぞ行く

◆上野国
上野国大蔵坊といへる山伏の坊に、十日あまりとどまりて、同国杉本といふ山伏の所へ移りける。道にからす川といへる川に、鵜からすなど相交りて侍りけるを見て、また俳諧、

  とりもえぬ魚の心を恥ぢもせで、鵜のまねしたる烏川かな

大が松といへる所を過ぎ侍るとて、

  名のみして宮木にもるる大が松。ひく人なしに年やへぬらむ

この所より、信濃の浅間の嶽、近々と見え侍ると聞きしにも過ぎて、其の風情すぐれ侍りき。

  今は世に烟をたえて、しなのなる浅間の嶽は、名のみ立ちけり

杉本(坊)に十日ばかり逗留し侍りき。八月十五日夜淡雨茫々として、いとど旅店の物うさも、一入の心ちして、

  身こそ、かく旅の衣に朽ちはてめ。月さへ名をもやつす雨かな

この坊を立ちて、宮の市、せしもの原、しほ川、しろいし、いたづら野、あひ川、かみ長川など、様々の名所を行きゆきて、おしまの原といへる所に休みてよめる、 【藤岡市白石、神流川、本庄市小島】

  今日ここにおしまが原を来てとへば、わが松島は程ぞ遥けき


◆武蔵国
武蔵野にて残月をながめて、

  山遠し有明のこるひろ野かな

おなじ野をわけくれてよめる、

  草の原、分けもつくさぬ、武蔵野の今日の限りは、夕なりけり

この夜は、しの野に仮寝して、色々の草花を枕にかたしきて、少しまどろみ、夢の覚めければ、

  花散りし草の枕の露のまに、夢路うつろふ、武蔵野の原

  武蔵野の草にかりねの秋の夜は、結ぶ夢ぢも、はてやなからむ

此の野の末にあやしの賎の屋にとまりて、雨をききて、

  旅まくら、都に遠きあづまやを、いく夜か秋の雨になれけむ

岡部の原といへる所は、かの六弥太といひし武夫の旧跡なり。
近代関東の合戦に数万の軍兵討死の在所にて、人馬の骨をもて塚につきて、今に古墳教多侍りし。
暫くゑかうしてくちにまかせける、 【岡部町】

  なきをとふ、岡べの原の古塚に、秋のしるしの松風ぞふく

むら君といへる所をすぐるとて、 【羽生市下村君】

  たが世にか浮れそめけむ。朽ち果てぬ其の名もつらき村君の里

浅間川をわたるとてよめる、
《浅間川(せんげんかわ)は、埼玉県さいたま市と上尾市を流れる荒川水系の準用河川。
同じ埼玉県内には加須市に浅間川(あさまがわ)があった。》

  名にしおふ山こそあらめ。富山県射水市。行せの水も烟たてつつ

◆武蔵国
武蔵野にて残月をながめて、

  山遠し有明のこるひろ野かな

おなじ野をわけくれてよめる、

  草の原、分けもつくさぬ、武蔵野の今日の限りは、夕なりけり

この夜は、しの野に仮寝して、色々の草花を枕にかたしきて、少しまどろみ、夢の覚めければ、

  花散りし草の枕の露のまに、夢路うつろふ、武蔵野の原

  武蔵野の草にかりねの秋の夜は、結ぶ夢ぢも、はてやなからむ

此の野の末にあやしの賎の屋にとまりて、雨をききて、

  旅まくら、都に遠きあづまやを、いく夜か秋の雨になれけむ

岡部の原といへる所は、かの六弥太といひし武夫の旧跡なり。近代関東の合戦に数万の軍兵討死の在所にて、人馬の骨をもて塚につきて、今に古墳教多侍りし。暫くゑかうしてくちにまかせける、 【岡部町】

  なきをとふ、岡べの原の古塚に、秋のしるしの松風ぞふく

むら君といへる所をすぐるとて、 【羽生市下村君】

  たが世にか浮れそめけむ。朽ち果てぬ其の名もつらき村君の里

浅間川をわたるとてよめる、《浅間川(せんげんかわ)は、埼玉県さいたま市と上尾市を流れる荒川水系の準用河川。同じ埼玉県内には加須市に浅間川(あさまがわ)があった。》

  名にしおふ山こそあらめ。富山県射水市。行せの水も烟たてつつ

◆下総国
古川といふ所にて舟にのりて、 【古河】

  こがくれに浮べる秋の一葉舟。さそふ嵐を川をさにして

  河舟をこがの渡りの夕浪にさして、むかひの里や、とはまし

なり田といへる所にて、はじめて富士をながめて、 【成田】

  言のはの道も及ばぬ富士の嶺を、いかで都の人に語らむ

夕あけぼのに、ながめのかはれることを、

  俤のかはる富士の嶺。時しらぬ山とは、誰かゆふべあけぼの

かの嶽は、遠く行くに随ひて、空にも及ぶばかりに侍りければ、

  遠ざかりゆけば、ま近く見えてけり。外山を空に登る富士の嶺

◆下総・こほりの山
下総国こほりの山といへる所に、伊豆の三島を勧請し奉りて、大社ましましけり。かの別当の坊にしばらく逗留し侍りけるうちに、歌など度々いひすてども、少々しるし置き侍りける、

  尋ね来て、ここにみしまのおなじ名を思ひぞ、いづの国つ神風

ある夜、皎えわたるに、士峰の雪嬋娼たりければ、

  富士のねの麓に月は影しろし。空に冴えたる秋のしら雪

虫のね物すごき夜、ねざめかちにて、

  かりねとふ草の枕の虫のねに、催されてもなきあかしつつ

ある夕つかた、はつかりの声をききて、

  おくれゐて聞きこそわぶれ、初かりの都にいそぐ夕暮の声

おなじとき発句、

  かりなきて秋かぜたかき雲路かな

色こき蔦の、夕日に映じけるを見て、

  色うすき秋の日かげは、紅のながめもかはる蔦かづらかな

野外の萩やうやう散りがたにみえければ、遠山には、木々の梢色付きわたりけるをみて、

  のべの萩ちればとやまの錦かな

旅館の萩をながめ侍りて、

  萩みればふるさとちかき軒瑞かな

かくて、こほりの山を立ち出でてゆく道に、葛のいと繁く侍りけるをみて、

  わが方に帰らむことも遠き野の、まくずうらやむ秋風のくれ

またすすきを分けはべりて、

  思ひいづる故郷人の心かと、まねく尾花か、袖もなつかし

同じ野を分け過ぎけるに、しをにといへる花をみて、

  尋ね見む、あだちが原のしるべかも、此の野にあへる鬼の醜草

宮城野の萩とて人のみせければよめる、

  宮城野の木の下ふしのかり枕、まはぎ折り敷き、独りかもねむ

ある旅宿にて、明がたに雁の鳴きけるをききて、

  しののめの横雲まよふ峯こえて、ともにたなびく天つ雁がね

ある人すすめ侍りけるに、

   旅天月、

  よなよなの月は、都のかげながら、やつるる袖におも変りして

   夕鹿

  我が方をこひつつきけば、さを鹿の妻とふ声も、うきタベかな

旅店にて、愁懐の余り、夜更くるまで短檠に封して、

  弧館残燈欲五更   暗蛩切々夢難成
  故人記取不平事   日々寒垣想洛城

山をこえ過ぎて浦ちかくながめやりけるに、遠景限りなくみえ侍りければ、感興に堪えず。和漠両篇ロに任せける、

  客旅尚添雙鬚花   江山阻跡故人遐
  弧帆明滅暮煙外   落日天辺雁陣斜

  からろおす船を友とや声をほにあげておちくる天つ雁がね

◆上総国
上総国千種の浜といへる所にて、色貝をひろひて、 【市原市千種海岸】

  野路つづく千ぐさの浜のうつせ貝。海さへ秋の色に出でけり

桜井の浜といへる所にて、桜貝を拾ふとて、 【木更津市桜井】

  春はさぞ花おもしろく、桜井の浜にぞ拾ふ。おなじ名の貝

吉野郷といへる所あり。宗良親王芳野の花をここに移して植ゑさせ給ふといひ伝ふ。

  花ざかり、思ひやられてみよしのの桜の紅葉、これも名残と

ふと、木更津、あづまなどいへる所を打ち過ぐるとて、思ひつづけしこと、ロに任せて、俳諧、 【木更津市】

  ここにふと木更津の郷過ぐれども、なほもあづまの内とこそきけ

神野山といへる道場にまうでて、 【鹿野山】

  なく鹿の、野にも山にも聞ゆなり。妻こひわぶる秋の夕暮

◆安房国
安房国清澄山にまうで、通夜し侍る暁、 【天津小湊町清澄山】

  暁のたれときぼしも、きよすみの海原遠くのぼる山かな

東のかたへ下山し、天津といへる所にて、 【天津小湊町天津】

  昔もし雲の通ひぢ吹きとぢば、乙女の姿、今も見ましを

まへ原といへる所にて、 【鴨川市前原】

  まへばらの里のうしろの山おろし。舟にもみぢの錦つむなり

磯村といへる所は、名にしおひて、磯伝ひの村なれば、 【鴨川市磯村】

  海近く磯づたひゆく、いそむらに村々見ゆるあまの釣船

那古の観音にまうで、ぬかづき終りて、タの海づらをながめやるに、寺僧の出で来て、あれ見給へ、入日を洗ふ沖津自浪とよめるは此の景なりといへり。されど、それは津の国住吉郡なごの浦をよめるとかや。そのなごの浦に難波津をまもれる人の住みしによりて、其の浦を津守の浦といひ、また子孫の氏によびて、津守氏ありとかや。今はなごの浦の所に、さだかにしれる人なしとなむ。此の歌いづちにしてよめるもしり難けれを洗ふ僧のいふに任せてしるすものなり。まことに今も入日ど、寺沖つ波、眼前の景色えも言ひがたし。 【館山市那古】

  なごの浦の霧のたえまに眺むれば、ここにも入日を洗ふ白浪

【※新古今春上 後徳大寺左大臣 なごの海の霞のまよりながむれば入日をあらふおきつしらなみ】
今宵はここに通夜し、明くるあした、名にしおふ野島が崎をみれば、朝露ここかしこに立ち消ゆるさまただならず。 【白浜町野島崎】

  あまをぶね、見えつかくれつ、朝あけの野しまが崎の霧の村々

かち山といへる所にて、 【館山?】

  駒はあれど、からよりぞ行く、かち山の里にこはたぞ、思ひやらるる

河名といへる所にて、里人の菜を洗ふをみて、

  つみためて洗ふ河なの里人よ、たが羹のそなへにやなす

此所より右の方に、鋸山といへる山あり。峰の嵐に雲晴れて、あからさまに其の嶺みゆ。段々ありて、誠に鋸の様になむ侍れば、俳諧、 【鋸南町鋸山】

  宮木ひく峯の嵐に雲はれて、のこぎり山はかがりとぞ見ゆ

◆相模
是より舟にのりて、三崎といへる所にあがりて、 【三浦市三崎】

  あはれとも誰かみさきの浦づたひ、しほなれ衣、旅にやつれて

浦川の湊といへる所に到る。こ、は昔頼朝卿の鎌倉にすませ給ふ時、金沢、榎戸、浦河とて、三つの湊なりけるとかや。 【浦賀】

  えの木戸はさしはりてみず、浦川に門をならべて見ゆる家々

鎌倉にて第三まで独吟、 【鎌倉市】

  霧ふかしかまくら山のほし月夜

  あさなく鶴か岡のまつかぜ

  葛の葉の色づく野沢水かれて

【】
鳥はみといへる所を過ぎ行きけるに、日暮れ侍りければ、 【古河市鳥喰?】

  誘はれて我も宿りに急ぐなり。かへるタベのとりはみのさと

九月九日、野を分けつくして山に到りけるに、菊いと面白く咲きて、感緒きはまりなし。重陽宴には菊を擬し侍りて、

  今日はまた、野を分け過ぎて、仙人となりてや、菊の花をかざさむ

  長月のここのがさねを思ひ出で、衣にうつす菊のしら露

◆下野国
【※蜻蛉日記 下野や桶の二荒をあぢきなき影も浮かばぬ鏡とぞ見る】

さのの舟はしをよめる、 【佐野市】

  かよひけむこひぢを、今の世語りに聞くこそ渡れ、さのの舟橋

日光山にのぼりてよめる。また昔は二荒山といふとなむ。 【日光市】

  雲霧もおよばで高き山のはに、わきて照りそふ日の光りかな

此の山にや。やますげの橋とて、深秘の子細ある橋侍り。くはしくは縁起にみえ侍る。また顕露に記し侍るべき事にあらず。

  法の水みなかみふかく尋ねずば、かけてもしらじ。山すげの橋

瀧の尾と申し侍るは、無隻の霊神にてましましける。飛瀧の姿目を驚し侍りき。

  世々をへて結ぶ契りの末なれや。この瀧の尾の瀧のしら糸

この山の上三十里に、中禅寺とて権現ましましけり、登山して通夜し侍る。今宵はことに十三夜にて、月もいづくに勝れ侍りき。渺漫たる湖水侍り。歌の浜といへる所に、紅葉色を争ひて月に映じ侍れば、舟に乗りて、 【中禅寺湖】

  敷島の歌の浜辺に、舟よせて紅葉をかざし、月をみるかな

翌日、中禅寺を立ち出でける道に、かつ散りしける紅葉の、朝霜のひまに見えけれは、先達しける衆徒長門の竪者といへる者にいひきかせ侍りける、

  山深き谷の朝霜ふみ分けて、わがそめ出す下もみぢかな

かくしつ、下山し侍りけるに、黒髪山の麓を過ぎ侍るとて、われ人いひすてどもし侍りけるに、

  ふりにける身をこそよそに厭ふとも、黒髪山も雪をまつらむ

おなじ山の麓にて、迎へとて馬どもの有りけるを見て、

  日数へてのる駒の毛もかはるなり。黒かみ山の岩のかげ道

また本坊坐禅院に帰りつき侍りて、さまざま遊覧あり。或夜時雨を聞きて、

  越えゆかむをのへの雲も、先だちて山めぐりする、初時雨かな

軒近く瀧おち侍り。さながらねざめのしぐれに聞きまがひ侍りければ、

  山水の音をねざめの時雨にて、老の泪はいつはりもなし

ある夜月いと面白かりけるに、別当坐禅院法印昌深かたよりよみて給ひける、

  さてもなほ思はぬ袖のかりねゆへ、こよひや都月の山ざと

とりあへずかへし、

  ことのはの光りをそへてみる月に、よしや都の秋もしのばじ

一山の老弱酒宴を興行して、児わらは数輩集りて、色々曲を尽し侍りき。、宴席終りて、藤乙丸といへる少人、休所へ礼に来りて、暫く物語し侍りて帰り侍りけるが、次の日いひつかはしける、

  おとにぞと云ひしもさぞな、相みての心尽しを誰かしらまし

藤乙丸かへし、

  あひ見しは夢かと計り辿れるを、うつつに返す言のはのすゑ

或る夜、またかの児おとづれ侍りて、余りに月の面白さに誘はれ侍るよし申して、しばし物語し侍りけるに、一首よみ侍るべきよし、しひて所望しければ、取りあヘず、

  月見つつ思ひ出でなば、もろともに空しき峯や、形見ならまし

名残も今日あすばかりにて侍れば、更け行くをもしらず遊びけるに、五更の鐘既に告げわたりければ、帰りて長門の竪者して申しおこせける。

                     藤乙丸
  いかにせむ。また頼みある世なりとも、秋の別れは愚ならめや

かへし、

  別れ路の露とも消ええむ時しもあれ、秋やは人にとのみ嘆きて

そへてつかはしける歌、

  忘れめや、一夜の夢のかり枕、人こそかりに思ひなすとも

同じ国宇津宮につき侍り。粉川寺といへる所に聖道所あり。かの坊にとどまり侍りき。此の寺の称号いかなるゆゑにかと思ひ侍りければ、紀伊国粉川寺をうつし侍るとなむ。彼の本寺門跡管領の在所なれば、ふしぎなる機縁にて侍るよし申しきかせて、短冊をつかはしける。 【宇都宮】

  契りあれや、東路とほく紀の国にあらぬこがはの寺に宿れる

ある夜きぬたの音を聞きて、

  ねざめうき旅の夜床を思ひやれ、衣をうつの宮の里人

この旅宿にて、人々月のうたよみける中に、

  めかれせず月にかかるは心にて、空に雲なき秋の夜半かな

宇津宮を立ちて、きぬ川といへる所にてよめる、 【鬼怒川】

  もみぢ散る山は、錦をきぬ川にたちかさねたる、波のあやかな

◆常陸国
常陸国にいたりぬ。小栗といへる所に、熊野神社おはしましけり。法施の序によみて奉る。 【協和町小栗】

  たちそひて守る心の道なれや、いづくに来てもみくまのの神

桜川をわたり侍りければ、紅葉うつろひて波に映じけるを見てよめる、 【岩瀬町桜川】

  秋の色にうつろひきても、桜川、紅葉に波の花をそへつつ

同じ国山田慶城といへる山伏の坊にやどりてよめる、

  めぐり来て今日は吾妻のひたち帯、結びそへてや、草枕せむ

此の坊に逗留の間、歌あまたよみける中に、夕時雨といへる題にて、

  もみぢ葉を染むるのみかは、夕時雨、我が寂しさも色増りけり

また夜時雨といへる心を、

  色みえぬ時雨のいとや、山姫のよるの錦を、おり乱すらむ

九月廿三日、欲詣筑波山疾風迅雨太無矣。乃亀居草庵而ロ号一絶。

  蕭條竟日鎖柴門  風雨似憐吾脚踉
  還恨楓林断秋色  明朝山上祭吟魂

翌日筑波山に参詣し侍りけるに、初雪ふりて、紅葉はうすくれなゐに見えければ、 【筑波山】

  いづれをか深し浅しとながめまし、もみぢの山のけさの初雪 神前にして詠じて奉りける、

  さはりなく今日こそここにつくばねや、神の恵みの、は山繁山

まことにこのもかのもと詠ぜしもことわりにて、山々の紅葉たとへむ方も侍らず。道すがらくちずさびける歌、

  筑波山、この面かの面のもみぢ葉に、時雨も繁き程ぞしらるる

みなの川は此の山のかげにながれ侍り。恋ぞつもりてと詠ぜし歌をおもひいでて、

  筑波ねのもみぢうつろふみなの川、淵より深き秋の色かな

また山に八重がさねといへる霊石侍り。いひすての発句、

  きてぞ見るもみぢのにしき八重がさね

旅宿にて、夕鹿といへることを、人々によませ侍りける次に、

  山陰や、木のはしぐれて暮るる日に忍びかねたる、さを鹿の声

雁のわたりけるを聞きてよめる、

  萩の葉にありとしらでや、玉づさを翅にかけて渡る雁がね暁虫といへることを、

  きりぎりす、よわるねざめの有明に枕さびしき床の上かな

旅の宿寂しさの余り、これかれ題を探りて歌よみけるに、鹿、

  なるこには驚く鹿も、妻恋のきづなに、などかはなれざるらむ

筑波根の麓をたちて、他国へうつりける道にて、きく、もみぢおもしろき所にいたりて、

  旅の空うつろひかはり行く道に、紅葉も、菊も、をりをしれとや

つくば川をわたりけるに、いささのはしを過ぐるとて、

  わたりきて末たとたどし筑波川、いささの橋にかかる夕暮

ここを過ぎて、うがひ川といへる所に、紅葉盛りにみえければ、立寄ちりて、

  冊をばもみぢぞてらす鵜かひ川、水すさまじき瀬々の松かぜ

ある野径を分け行きけるに、浅茅いと深かりければ、

  故郷の庭の浅ぢもかくやとて、分けわぶる野を哀れとぞみる

九月廿入日、稲穂の別当か坊にて、湖水をながめて、

  山色湖光秋又窮   郷書曾不詑飛鴻
  砧声近報孤村晩   旅懐何堪憂患躬

◆下総国
下つ総の国児の原といへる所あり。いかなるゆゑに、かかる名の所は侍るぞと、さと人に尋ねければ、此の在所白波青林横行の地たるによりて、ある少人のとほりけるに、衣装など剥ぎ取るのみならず、剰へ殺害し侍りき。夫より此の所をかやうに号し侍るよし語り侍れば、今更の心ちして、塚のほとりに立ちよりて、思ひつづけて廻向し侍りける。

  佳人落命荒原上   蘇底古碑空刻名
  勿恨青林犯花影   浮生有限辱兼栄

  白波に浮名をながす児の原恋ぢにすつる身とも聞かばや

草の原さまざま枯れわたりて、むしのね所々に残りけるを、

  虫のねの稀になりゆくのべみれば、独りはかれぬ霜の下草

あるとき題をさぐりて歌よみけるに、菊、

  紫にうつろふ菊の花は、まだあらぬ種より吹くかとぞ見る

また砧を、

  秋風に人の夜寒をうちそへて、砧にあやなねざめをぞする

ある少人の許より、暮秋紅葉といへる題をたびて、歌よみて
と侍りしかば、その使をまたせて、

  帰るさを思ひたつ田の秋とてや、山も錦のをりをしるらむ

ある夕ぐれに、雁なきて秋風物すごく吹きなしければ、

  雲路行くかりがねさむみ、秋更けてゆふべの山に風渡りつつ

国々あまた過ぎ行き侍りけれども、富士の高ね猶おなじさまに見え侍りしかば、

  身にそふる俤なれや、いづかたにゆけども近き富士の高ねは

晴れ曇る時雨の空に向ひて、旅客の愁への泪に思ひよそへてよめる、

  うき秋の涙の袖は、隙ぞなき時雨は空にはれくもれども

九月尽にある旅宿にて、

  いかにせむ、今日を限りの秋ながら、わが帰るさの行方しらねば

  旅の空我はいつとも白露をかたみにおきてかへる秋かな

十月朔日よみて人につかはしける、

  春といふ名にはふれども、神な月、しぐれて霞む山の瑞もなし

  今日よりは春と冬との神無月、げにさだめなき初時雨かな

今日小春のしるしにややいささかのどかに侍りければ、皆々いなほの湖水にうかびて、舟のうちにて酒など興行し侍りき。富士のね湖にうつれる心を皆々よむべきよし申しければ、

  湖の波まに影をやどしきて、またたぐひある富士を見るかな

稲穂をたちて行きける道に、いろいろの名所ども侍り。いひ捨の発句歌など、あまた侍りしかども、途中の事なれば記すに及ばす。あやしの橋といへる所にて、

  川風の渡る霧まにほのみえて、あやしの橋の末ぞ、あやふき

◆武蔵国
岩つきといへる所を過ぐるに、富士のねには雪いとふかく、外山には残んの紅葉色々にみえければ、
よみて同行の中へ遣しける、 【岩槻市】

  富士の嶺の雪に心をそめて見よ。外山の紅葉色深くとも

浅草といへる所に泊りて、庭に残れる草花を見て、 【台東区浅草】

  冬の色はまだ浅草のうら枯に、秋の露をも残す庭かな

此の里のほとりに、石枕といへるふしぎなる石あり。
其の故を尋ねければ、中ごろのことにやありけむ、なまざぶらひ侍り。
娘を一人もち侍りき。容色大かたよの常なりけり。
かのちち母、むすめを遊女にしたて、道行人に出でむかひ、彼の石のほとりにいざなひて、
交会のふぜいをこととし侍りけり。
かねてよりあひ図のことなれば、折りをはからひて、
かの父母枕のほとりに立ちよりて、とも寝したりける男のかうべを打砕きて、
衣装以下の物を取りて、一生を送り侍りき。
さる程に、かの娘つやつや思ひけるやう、あな浅ましや、
いくばくもなきよの中に、かかるふしぎの業をして、父母諸共に悪趣に堕して、
永劫沈倫#せむ事の悲しさ、先非におきては悔いても益なし、
これより後の事様々工夫して、所詮我父母を出しぬきて見むと思ひ、
ある時道ゆく人ありと告げて、男の如くに出でたちて、かの石にふしけり。
いつもの如くに心得て、頭を打砕きけり。いそぎものども取らむとて、
ひきかつぎたるきぬをあけてみれば、人ひとりなり。
あやしく思ひて、よくよく見れば我がむすめなり。
心もくれ惑ひて、浅ましともいふばかりなし。
それよりかの父母速に発心して、度々の悪業をも慙愧懺悔して、
今の娘の菩提をも深く弔ひ侍りけると語り伝へけるよし、古老の人の申しければ、

  つみとがのくつる世もなき、石枕、さこそは重き思ひなるらめ

当所の寺号浅草寺といへる、十一面観音にて侍り。
たぐひなき霊仏にてましましけるとなむ。参詣の道すがら、
名所ども多かりける中に、まつち山といふ所にて、

  いかでわれ頼めもおかぬ東路の待乳の山に、今日はきぬらむ

  しぐれても逐にもみぢぬ、待乳山落葉をときと木枯ぞ吹く

  梅花無尽蔵云、川辺有柳樹、吉田之子、梅若丸墓所也、其母北白河人。

あさぢが原といへる所にて、

  人めさへかれてさびしき夕まぐれ、浅茅か原の霜を分けつつ

おもひ川にいたりてよめる、

  うき旅の道にながるる思ひ川、涙の袖や水のみなかみ

かくて、隅田川のほとりに到りて、皆々歌よみて、披講などして、
古の塚のすがた、哀れさ今の如くに覚えて、 【隅田川】

  古塚のかげ行く水の隅田川、聞きわたりても、濡るる袖かな

同行の中に、さざえを携へける人ありて、盃酌の興を催し侍りき。
猶ゆきゆきて川上に到り侍りて、都鳥尋ね見むとて人人さそひける程に、まかりてよめる、

  こととはむ、鳥だに見えよ、すみだ川。都恋しと思ふゆふべに

  思ふ人なき身なれども、隅田川、名もむつまじき都鳥かな

やうやう帰るさになり侍れば、夕の月所がらおもしろくて、舟をさしとめて、

  秋の水すみだ川原にさすらひて、舟こぞりても月をみるかな

秋の日浅草を立ちて、新羽といへる所に赴き侍るとて、
道すがら名所ども尋ねける中に、忍の岡といへる所にて、松原のありける蔭にやすみて、【   】

  霜ののちあらはれにけり。時雨をば忍の岡の松もかひなし

ここを過ぎて、小石川といへる所にまかりて、 【文京区小石川】

  我がかたを思ひ深めて、小石河、いつをせにとかこひ渡るらむ

とりごえの里といへる所に行きくれて、 【台東区鳥越】

  暮れにけり。宿り何処と急ぐ日に、なれもねに行く鳥越の里

芝の浦といへる所に到りければ、しほやのけぶりうち靡きて物寂しきに、
塩木運ぶ舟どもを見て、 【港区芝浦】

  焼かぬよりもしほの煙名にぞたつ舟にこりつむ芝の浦人

此のうらを過ぎて、あら井といへる所にて、 【横浜市】

  蘆まじりおふるあらゐのうち靡き、波にむせべる岸の松風

◆武蔵国
岩つきといへる所を過ぐるに、富士のねには雪いとふかく、外山には残んの紅葉色々にみえければ、よみて同行の中へ遣しける、 【岩槻市】

  富士の嶺の雪に心をそめて見よ。外山の紅葉色深くとも

浅草といへる所に泊りて、庭に残れる草花を見て、 【台東区浅草】

  冬の色はまだ浅草のうら枯に、秋の露をも残す庭かな

此の里のほとりに、石枕といへるふしぎなる石あり。其の故を尋ねければ、中ごろのことにやありけむ、なまざぶらひ侍り。娘を一人もち侍りき。容色大かたよの常なりけり。かのちち母、むすめを遊女にしたて、道行人に出でむかひ、彼の石のほとりにいざなひて、交会のふぜいをこととし侍りけり。かねてよりあひ図のことなれば、折りをはからひて、かの父母枕のほとりに立ちよりて、とも寝したりける男のかうべを打砕きて、衣装以下の物を取りて、一生を送り侍りき。さる程に、かの娘つやつや思ひけるやう、あな浅ましや、いくばくもなきよの中に、かかるふしぎの業をして、父母諸共に悪趣に堕して、永劫沈倫#せむ事の悲しさ、先非におきては悔いても益なし、これより後の事様々工夫して、所詮我父母を出しぬきて見むと思ひ、ある時道ゆく人ありと告げて、男の如くに出でたちて、かの石にふしけり。いつもの如くに心得て、頭を打砕きけり。いそぎものども取らむとて、ひきかつぎたるきぬをあけてみれば、人ひとりなり。あやしく思ひて、よくよく見れば我がむすめなり。心もくれ惑ひて、浅ましともいふばかりなし。それよりかの父母速に発心して、度々の悪業をも慙愧懺悔して、今の娘の菩提をも深く弔ひ侍りけると語り伝へけるよし、古老の人の申しければ、
  つみとがのくつる世もなき、石枕、さこそは重き思ひなるらめ

当所の寺号浅草寺といへる、十一面観音にて侍り。たぐひなき霊仏にてましましけるとなむ。参詣の道すがら、名所ども多かりける中に、まつち山といふ所にて、

  いかでわれ頼めもおかぬ東路の待乳の山に、今日はきぬらむ

  しぐれても逐にもみぢぬ、待乳山落葉をときと木枯ぞ吹く

  梅花無尽蔵云、川辺有柳樹、吉田之子、梅若丸墓所也、其母北白河人。

あさぢが原といへる所にて、

  人めさへかれてさびしき夕まぐれ、浅茅か原の霜を分けつつ

おもひ川にいたりてよめる、

  うき旅の道にながるる思ひ川、涙の袖や水のみなかみ

かくて、隅田川のほとりに到りて、皆々歌よみて、披講などして、古の塚のすがた、哀れさ今の如くに覚えて、 【隅田川】

  古塚のかげ行く水の隅田川、聞きわたりても、濡るる袖かな

同行の中に、さざえを携へける人ありて、盃酌の興を催し侍りき。猶ゆきゆきて川上に到り侍りて、都鳥尋ね見むとて人人さそひける程に、まかりてよめる、

  こととはむ、鳥だに見えよ、すみだ川。都恋しと思ふゆふべに

  思ふ人なき身なれども、隅田川、名もむつまじき都鳥かな

やうやう帰るさになり侍れば、夕の月所がらおもしろくて、舟をさしとめて、

  秋の水すみだ川原にさすらひて、舟こぞりても月をみるかな

秋の日浅草を立ちて、新羽といへる所に赴き侍るとて、道すがら名所ども尋ねける中に、忍の岡といへる所にて、松原のありける蔭にやすみて、 【      】

  霜ののちあらはれにけり。時雨をば忍の岡の松もかひなし

ここを過ぎて、小石川といへる所にまかりて、 【文京区小石川】

  我がかたを思ひ深めて、小石河、いつをせにとかこひ渡るらむ

とりごえの里といへる所に行きくれて、 【台東区鳥越】

  暮れにけり。宿り何処と急ぐ日に、なれもねに行く鳥越の里

芝の浦といへる所に到りければ、しほやのけぶりうち靡きて物寂しきに、塩木運ぶ舟どもを見て、 【港区芝浦】

  焼かぬよりもしほの煙名にぞたつ舟にこりつむ芝の浦人

此のうらを過ぎて、あら井といへる所にて、 【横浜市】

  蘆まじりおふるあらゐのうち靡き、波にむせべる岸の松風

◆相模国
まりこの里にてよめる、

  東路のまりこの里に行きかかり、足もやすめず急ぐ暮れかな

駒林といへる所に到りて、宿をかり侍るに、あさましげなる賎の伏屋に、落葉所をせき侍るを、ちとはきなどし侍りける間、たたずみて思ひつづけける、

  つながれぬ月日しられて、冬きぬとまたはをかふる駒林かな

新羽を立ちて鎌倉に到る道すがら、さまざまの名所ども、委しく記すに及び侍らず。かたひらの宿といへる所にて、 

  いつ来てか、旅の衣をかへてまし、風うら寒きかたひらの里

岩井の原を過ぐるとて、 

  すさまじき岩ゐの原をよそに見て、結ぶぞ草の枕なりける

もちゐ坂といへる所にて、俳諧の歌、

  行きつきて見れ共みえず、もちゐ坂、ただ藁靴に足をくはせて

すりこばち坂といへる所にて、また俳緒歌をよみて人に見せ侍りける。

  ひだるさに宿急ぐとや思ふらむ。路より名のる、すりこばち坂

はなれ山といへる山あり。誠に続きなる尾上もみえ侍らねば、

  朝まだき旅立つ里のをち方に、其の名もしるきはなれ山かな

鎌倉中、かなたこなた順見し侍りて、先やつやつを人に尋ね侍り。亀がゐのやつにてよめる、 

  幾千とせ鶴が岡べに伴ひて、よはひあらそふ亀がゐのやつ

扇が谷にて、 

  秋だにもいとひし風を、折しもあれ、扇が谷は名さへすさまじ

  写し絵の扇がやつや、これならむ。月はうな原、雪は富士の嶺

ささめがやつ、

  霜さやぐ、さざめが谷のふしのまに一夜の夢も嵐ふくなり

梅が谷、

  冬枯の木立さびしき梅が谷、もみぢも花も、おもかげぞなき

うりが谷、

  ひと夏はとなりかくなり暮過ぎて冬にかかれる瓜が谷かな

霧がやつ、

  此の里の古井のもとの桐がやつ、おちばの後は汲む人もなし

胡桃か谷

  住みなれし鎌倉山のやまがらや、くるみが谷に秋をへぬらむ

べにが谷をとほりて、化はひ坂を越ゆとて、俳譜、

  顔にぬる紅が谷よりうつりきて早くも越ゆるけはひ坂かな

鶴が岡の八幡官に参詣し侍れば、伝へ伝へ聞き侍りしに勝わたる宮だちなや。きしとに信心肝にめいじて尊くおぼえ侍る。抑当社別当祖師隆弁僧正、経歴年久し。その階弟道瑜准后、号をば大如意寺といひ、両代彼の職に補し侍りき。由緒無双なることを思ひ出でて、神前に奉納の歌、

  神もわが昔の風を忘れずば、鶴がをかべのまつとしらなむ

由井か浜にまかりて、鳥居など見侍りて、暫く皆々あそび侍りけるに、

  朽ちのこる鳥居の柱、あらはれてゆゐの浜べにたてる白浪

此の序でに、建長円覚以下の五山を順見し侍りて、是より、瀬戸金沢といへる勝地の侍るを尋ねゆくに、瀬戸の沖に漁舟あまたみえけるを、 

  よるべなき身のたぐひかな、波あらき瀬戸の汐あひ渡る舟人

磯山づたひ、残の紅葉、見所多かりければ、

  冬さればせとの浦わのみなと山、幾しほみちて残る紅葉ぞ

金沢にて時宗の庵の侍りけるに、立ち寄りて茶を所望しけるに、庭に残菊の黄なるをみてよめる、

  誰ここにほりうつしけむ、金沢や、黄なる花さく菊の一本

此の在所に称名寺といへる律院侍り。ことの外なる古所にて、伽藍などもさりぬべきさまなる所々順礼し侍りけり。三重の塔婆にまうでけるに、老僧に行逢ひぬ。この塔の由来など尋ねければ、これにこそ楊貴妃の玉の簾二かけ安置し侍り。我がはからひにて侍らましかば、一見させ侍るべき物をとて、懇切なる芳志ぞみえ侍りき。既に下向せむとしけるに、この僧いろいろに思案して申すやう、暫くあひまち侍れ。住寺に申し試みむとて、僧立ち入りぬ。ややありて立ち帰りていふ様、此の玉簾、当寺の霊宝として、毎年三月十五日に取出すより外には、かたく禁制し侍れども、拙老経廻の義、前後其例有り難く侍れば、衆僧談合し侍りて、一見を許し侍るべきよし申す。まことにふしぎなる機縁なり。簾の長さ三尺四寸、広さは四尺ばかりにて、水精の細さ、世の常の簾よりも猶細く、形は見え侍らず。玉妃のその古へに、九花帳に掛け侍りけむ事など思ひやり待れば、千古の感緒今更肝に銘じて、皆人袖を濡し侍りき。

  遠き世のかたみを遺す玉簾、思ひもかけぬ袖の露かな

藤沢の道場、聞えたる所なれば、一見し侍りき。ある寮にて茶を所望し侍り、暫く休みけるに、池の紅葉のちりけるを見て、 

  沢水もかげは千いろの木の葉かな

道場の前に、ふりたる松に藤のかかりければ、

  紫の色のゆかりの藤さはに、むかへの雲をまつぞ木だかき

ここを立ちて、小田原といへる所へまかりける道に、花水川といへる河を渡りて、

  咲くとみえ、ちるとみゆるや。風わたる花水川の波のしら玉 

大磯の宿といへる所は、古へ虎といひける好色の住みける所となむ。ある同行に戯れに申しきかせける。 

  今はまたとらふすのべとあれにけり。人は昔の大磯の里

鴫たつ沢といふ所にいたりぬ。西行法師ここにて、心なき身にも哀れはしられけりと詠ぜしより、此の所をかくは名づけけるよし、里人の語り侍りければ、

  哀れしる人の昔を思ひ出でて、鴫たつ沢をなくなくぞとふ

梅沢の里を過ぎ侍るとて、

  旅衣春まつ心かはらねば、聞くもなつかし梅ざはのさと

まりこ川にて、俳諧、

  鈴かけのくくりを上げて、まりこ川、おひ綱かいつ今日は暮さむ

小田原に着き侍れば、早川の浦とて、水上は大河にて、海辺につづきたるによりて、かやうに申し侍るとなむ。 

  末遠く流れ出でたるはや川のうらや、千尋の波路なるらむ

一夜この所に留りて、旅泊の愁緒かへりてその興も多かりけり。夜もすがらまどろまむ隙も侍らざりければ、

  蘆の家は、波を枕にしきたへの床には、夢のたちもかへらで

これより箱根、三島などへ参詣せむとて、風祭の里といへる所にて、渡し舟さしよせけるとき、 

  舟出せむ。みなと江近き里の名も、げに白波のかざまつりかな

箱根山に行きくれて、今夜は社参に及ばず。翌朝まうでて落葉を見て、 

  木枯の錦をたたむ箱根山、あけて見るにぞ紅葉なりけり

  嵐ふくをのへの紅葉散りみだれ錦をたたむ箱根山かな

◆伊豆国・駿河国
かくて三島にまうでて、 

  波たてぬみよにと祈る三島江のあしてふことを払へ、神風

矢立の杉とて大木あり。軍陣へ出づる武士ども、この木に矢を射たてて吉凶を見侍るよし伝へければ、

  武夫のためしにひける梓弓、やたての杉や、しるしなるらむ

あしたか山をながめて、 

  浮雲のあしたか山は早けれど、なづめる駒ぞ、進むともなき

桂山を越え侍れば、いづれの木末も落葉して、物さびわたり見えければ、静岡市桂山

  冬枯に名のみ残りて、かつら山、まさきも、つたも、色ぞ稀なる

すはま口といふより、富士の麓に到りて、雪をかきわけて、

  よそにみし富士の白雪、今日わけぬ心の道を神にまかせて

富士のむら山とて、大嶽の麓に侍り。所々に紅葉の残れるをながめて、 

  高ねには秋なき雪の色さえて、紅葉ぞ深き富士のむら山

田子のうらを、はるばるとながめやりてよめる、 

  千里より千さとにつづく富士の嶺の雪の麓や、田子の浦浪

富士のなる沢をよめる、               

  久かたの天の川せの声なれや。雲まにむせぶ富士の鳴沢

みほの入うみをながめ侍りて、 

  浮雲のみほの入うみ。見渡せば、松のうへこす沖つしら浪

浮島が原をながめ侍れば、松原遠く暮れかかりて、やうやう月澄み昇りければ、

  たちつづく松のはごしの波わけて、月のみ舟も浮島が原


◆相模国
あしがら山をこゆとてよめる、 

  足柄のやへ山越えて眺むれば、心とめよと、せきやもるらむ

やまびこ山にて、

  こたへする人こそなけれ、あし曳の山びこ山は、嵐ふくなり

さきのたび渡りける鞠子川をまたとほるとて、俳諧、

  まりこ川またわたる瀬やかへり足

八幡といへる里に神社侍り。法施のついでに、

  あづさ弓、八幡をここにぬかづきぬ。春は南の山に待ち見む

剣沢といへる所にて、氷を見てよめる、

  此のごろは水さび渡れる剣沢、氷りしよりぞ名は光りける

蓑笠の森とて、社頭ましましけり。暫く法施侍りて、

  天が下守らむ神のちかひとや。ここにきやどるみのかさの杜

ふたつはしといへる所を過ぎ侍るとて、

  おぼつかな、流れもわけぬ川水にかけ並べたるふたつ橋かな

宿相州大山寺、寒夜無眠。而閑寂之余、和漢両篇口号。 

  蓑笠何堪雪後峰   山隈無舎倚孤松
  可憐半夜還郷夢   一杵安驚古寺鐘

  わが方をしきしのべとも、夢路さへ適ひかねたる雪のさむしろ

此の山を立ち出でて、霊山といふ寺に到る。本尊は薬師如来にてまします。俳諧歌をよみて、同行の中につかはしける、

  釈尊のすみかと思ふ霊山に、薬師彿もあひやどりせり

日向寺といへる山寺に一宿してよめる、

  山陰や雪気の雲に風さえて、名のみ日なたときくも頼まず

熊野堂といへる所へ行きけるに、小野といへる里侍り。小町が出生の地にて侍るとなむ、里人の語り侍れば、疑しけれど、

  色みえて移ろふときく、古への言葉の露か、小野の浅ぢふ

半沢といへる所にやどりて、発句、

  水なかば沢べをわくやうす氷

名に聞きし霞の関を越えて、これかれ歌よみ連歌など言ひ捨てけるに、

  吾妻路の霞の関に、としこえは我も都に立ちぞかへらむ

◆武蔵国
此の関をこえ過ぎて、恋が窪といへる所にて、 

  朽ちはてぬ名のみ残れる恋か窪、今はたとふも、契りならずや

ある人の許にまかりて遊び侍りけるに、題を探りて三十首よみ侍りけるに、

   深夜寒月

  春秋にあかしなれぬる心ざし、深き霜夜の月ぞしるらむ

   松雪夕深

  嵐さへうづもれはててふる雪に、松のしるべもなき夕かな

   思不言恋

  さすがまたかくとはえこそ岩小菅、下に乱れてわぶとしらなむ

むねをかといへる所を通り侍りけるに、夕の煙を見て、 

  夕けぶりあらそふ暮を見せてけり。わが家々のむね岡の宿

堀兼の井見にまかりてよめる。今は高井戸といふ。 【狭山市掘兼】

  おもかげぞ語るに残る、武蔵野や、ほりかねの井に水はなけれど

  昔たれ心づくしの名をとめて、水なき野べを堀かねのゐぞ

やせの里は、やがて此の続きにて侍り。

  里人のやせといふ名や、堀兼の井に水なきを侘び住むらむ

これよりいるま川にまかりてよめる、 【入間川】

  立ちよりて影をうつさば、入間川、わが年波もさかさまにゆけ

此の河につきて様々の説あり。水逆に流れ侍るといふ一義も侍り。
また里人の家の門のうらにて侍るとなむ。
水の流るる方角案内なきことなれば、何方をかみ下と定めがたし。
家々の口は誠に表には侍らず。惣じて申しかよはす言葉なども、かへさまなることどもなり。
異形なる風情にて侍り。佐西の観音寺といへる山伏の坊に到りて、
四五日遊覧し侍る間に、瓦礫ども詠じ侍る中に、 【狭山市笹井?】

  南帰北去一李闌   露宿風食総不安
  贏得行金乗詩景   千峰萬壑雪団々

くろす川といへる川に、人の鵜つかひ侍るを見て、 【入間市黒須】

  岩がねに移ろふ水のくろす川、鵜のゐる影や、名に流れけむ

故郷の事など思ひ出で侍りて、暁まで月に向ひて、

  吾郷萬里隔音容   一別同遊夢不逢
  客裡断陽何時是   西山月落暁楼鐘

◆
ささいをたちて、武州大塚の十玉が所へまかりけるに、江山幾度か移り変り侍りけむ。
其の夜のとまりにて、

  山攣唆険海波瀾   到処多其行路難
  踈屋終宵風雪底   凍鶏喚夢月西寒

ある時大石信濃守といへる武士の館に(*)、ゆかり侍りて、まかりて遊び侍るに、庭前に高閤あり。
矢倉などを相かねて侍りけるにや。遠景勝れて、数千里の江山眼の前に尽きぬとおもほゆ。
あるじ盃取り出して、暮過ぐるまで遊覧しけるに、
(*)大石信濃守と道興『廻国雑記』👉太田道真入道助清


  一閑乗興屡登楼   遠近江山分幾炎
  落雁斗霜風颯々   自沙翠竹斜陽幽

十玉が坊にて、人々に二十首歌よませ侍るに、

   閑庭雪

  跡いとふ庭とて人のつれなくば、とはぬ心の道もうらみじ

   霰妨夢

  ふしわぶる笹のしのやの玉霰、たまさかにだにみる夢もなし

   年内待梅

  春をまつ心よりさく初花を、いつか冬木の梅にうつさむ

   別後切恋

  消えにける玉の行方とけさはみよ。別れし君が道芝の露


河越といへる所に到り、寂勝院といふ山伏の所に一両夜やどりて、【川越市最勝院】

  限りあれば、今日わけつくす武蔵野の境もしるき河越の里

此の所に、常楽寺といへる時宗の道場侍る。
日中の勤聴聞のために罷りける道に、大井川といへる所にて、 【大井町】

  打ち渡す大井河原の水上に、山やあらしの名をやどすらむ

此の里に月よしといへる武士の侍り。聊か連歌などたしなみけるとなむ。
雪の発句を所望し侍りければ、言ひつかはしける、

  庭の雪月よしとみる光りかな

これにて百韻興行し侍りけるとなむ。
これより武士の館へ罷りける道に、うとふ坂といへる所にてよめる、【】

  うとふ坂こえて苦しき行末を、やすかたとなく鳥の音もがな

すぐろといへる所に到りて、名に聞きし薄など尋ねてよめる、 【】

  旅ならぬ袖もやつれて武蔵野や、すぐろの薄、霜に朽ちにき

また野寺といへる所ここにも侍り。これも鐘の名所なりといふ。
この鐘、古へ国の乱れによりて、土の底に埋みけるとなむ。
ぞのまま掘り出さざりければ、 【新座市野寺】

  音にきく野寺をとへば、跡ふりて、こたふる鐘もなき夕かな

此のあたりに野火どめのつかといふ塚あり。
今日はなやきそと詠ぜしによりて、蜂火忽にやけとまりけるとなむ。
それより此の塚をのびどめと名づけ侍るよし、国の人申し侍りければ、 【新座市野火止】

  わか草の妻も籠らぬ冬されに、やがてもかるるのびどめの塚

これを過ぎて、ひざをりといへる里に市侍り。
暫くかりやに休みて、例の俳諧を詠じて、同行に語り侍る、 【朝霞市膝折】

  商人はいかで立つらむ。膝折の市に脚気をうるにぞありける


◆武蔵
ある所に一宿し侍りけるに、たて侍りける屏風、扇蓋しにて侍り。
そのうちに、ほねばかり書きたる扇侍りけり。其の上に書きて置き侍る、

  破崩本来非破扇  銀餞工有飾丹青
  今何零落只残骨  見此人間生滅形

ある僧和韻とて後日に人の見せ侍りける、

  取破扇猶見玉扇  従来正色又非青
  雖今茲残骨零落  豈比人間八苦形

或時旅宿にて二十首の歌皆々よませけるに、

   暁更雪

  草も木も、わがまだしらぬ程ながら、花に明け行く東雲の雪

   雪中鷹狩

  ふり紛ふ雪のの原にたつ鳥は、白ふの鷹に身をや捨てなむ

   池水鳥

  池水につがはぬをしや、友とみて、片われ月の影に鳴くらむ

   契二世恋

  沈むべき後をもしらで、みつせ川、水漏さじと契るはかなさ

ある夜故郷の人を夢に見侍りて、さめて後なごりおほかりければ、

  客牀夢覚故人帰   空夜悽然独湿衣
  不識回期其底日   洛陽千里信音稀

十玉が坊にて、三十首の歌詠み侍りけるに、

   冬地儀

  おしなべて草木に変る色もなし。誰かはむつの花とみるらむ

   月前雪

  すむ月のみふね静かによわたるや。千里晴れ行く雪の白浪

   浪上千鳥

  網人のうけの綱手をよそにみて、千鳥も友をひく波路かな

   初尋縁恋

  たよりふく風に靡かば、初を花、ほのめかしつつ、いざ心見む

おなじ宿坊にて、よもすがら炉辺に粛吟して、

  寒燈桃尽夜沈々   独臥空牀思不禁
  為我詩神如有感   松風生砌助愁吟

雪のあした、ある所の高閣にのぼりて偶作、

  危楼朝上百花鮮   交友無憐詩酒筵
  此地逍遥似何処   乱山畳嶂雪嬋娼

十玉か同宿十仙といへるもの、連歌に数寄侍りて、切々に興行し侍りけるとなむ。
ある時発句所望しければ、

  待つ日のみ山につもりて雪おそし

人々十五首のうたよみ侍りけるに、

   川千鳥

  はまな川や風さえぬらむ行き帰り氷をつくるさよ千鳥かな

   懸樋水

  柴の戸ははや出でがての冬さわにかけひの水も氷とぢけり

   炉火似春

  埋火のはひかきわけて向ふよは春の光りを手に任せつつ

   依涙顕恋

  せきかぬる我が衣手の涙ゆゑ、人のうきなも流れやはせむ

   山海眺望

  渡津海の波の千里を隔てきて、山にもみるめ刈らぬ日はなし

旅天歳暮、いつしか引きかへたる式にて、雪月の夜、寒梅に封して偶作、

  歳云晩急若吾何   白髪蒼顔愁又加
  風雪還如慰旅懐   野梅映月影横斜


◆武蔵・所沢
ところ沢といへる所に遊覧に罷りけるに、福泉といふ山伏、観音寺にてさあえをとり出しけるに、
薯芋といへるもの肴にありけるを見て、俳諧、 【所沢市】

  野遊びのさかなに山のいもそへて、ほり求めたる野老沢かな

此の所を過ぎて、くめくめ川といふ所侍り。里の家々には井なども侍らで、
ただ此の河を汲みて朝夕用ひ侍るとなむ申しければ、 【東村山市久米川】

  里人のくめくめ川と夕暮になりなば、水はこほりもぞする

◆武蔵~
ある夜、ちご若衆など、隣国よりしるよしありて訪ひ来り侍りて、
酒宴の隙に二十首の歌すすめ侍る中に、

   樵路雪

  をりたかむ心を賎がたのまずば、拾ふにたへじ。雪のした柴

   深夜寒月

  更け行けば流れぬよはもなき月のこほれる影ぞ。人頼めなる

   惜歳暮

  老のかずそはで春まつ身なりせば、何かは年の暮を慕はむ

   祈不逢恋

  つれなしと人をばなどかゆふしでの我に靡かぬ神や恨みむ

   述懐涙

  うき身にはともなふ人もうとき世に、忘れず袖をとふ涙かな

ある江山を過ぎ行きけるに、遠村に鐘の響きて、勤の声幽かに聞えければ、

  西泊東漂分幾州   天涯流路屡吟遊
  踈鐘遥度野村晩   清梵声残江寺秋

閑緒を慰めむがために、夜坐して十五首の歌よみ侍りけるに、

   宿鳥驚雪

  月にだにおどろく杜の村烏、ねぐらの雪に声さわぐらし

   沢畔水鳥

  葦鴨の青羽は霜につれなくて、沢べのみくさ、枯れも残らず

   契不来恋

  契りしも、今はかひなく更け過ぎて、鐘より後は我ぞねをなく

   社頭松

  すみよしの神代も遠き言のはの尽きせぬ種や、松となるらむ

ある人、旅天の鄙懐を一絶吟し侍るべきよし所望しければ、扇に書きて遣しける、

  一別長天西又東   残生蹤跡転飄蓬
  傍山臨水労吟歩   詩肺辛酸難得工

これかれ炉下に集りて閑吟のついでに、野径乾草、

  かげろふのをのの冬枯、見渡せば、あるかなきかの雪のした草

   従門帰恋

  うしつらし、真葛にとづる松の門、跡吹きおくる袖のおひかぜ

   鶴翔天

  沢べより雲ゐにのぼるあしたづの声もしられて、高き空かな

旧里の音信もなきことを述懐して、徒然の余りに、寒梅を尋ねに罷りて、ある夕暮月に乗じて、

  冷衣歩月出寒村   幽処探梅風雪昏
  郷信不臻春信到   臘前惆悵憶中原

武州大塚といへる所に住み侍りける時、近衛前関白殿下より、初めて御書到来し侍り。
これをひらきて、一度は喜び、一たびは恋慕の憂へに沈みて、

  従兼君別始看書   異国天涯千里余
  忽憶帰期涙先落   待春遊子数居諸

連日雪いたくふり侍りければ、野遊の興さへ叶ひ侍らで、いとど都の事も思ひやりて、

  向来投錫掩幽扉   平野陰崖片雪飛
  想見旧庭残臘底   記春草木記吾非

越年の式、右にいへる如く、ためしなきありさまどもなり。
さるからいとなむこと侍らぬのみ心やすく侍りけり。
早梅を翫びて春の至れることを覚え侍るばかりなり。

  歳晏無営旅客情   在身寒餓憶華京
  柴局半掩夜来雪   一点梅開使我驚

焚火のもとにて、十五首の歌よみ侍りけるに、

   疎屋聞霰

  ぬる玉はまたもかよはで、終夜、ねやもるあられ、枕もるなり

   寄琴恋

  ひく琴にわがねをそへてたぐへやる風は、心の松よりぞ吹く

   寄夢恋

  人しれぬ枕のしたの海河に、かけてかひなき夢のうき橋

   浜辺旅泊

  夢ぞなきもしほの草の枕より、跡より、波のあらき浜べは

   老後懐旧

  見し人のなきは、津守のうらめしく残るかひなき老の波かな

ある時、故郷にあまた侍る連枝のことなど思ひやりて、

  雲路隔蹤鴻雁行   他郷何耐想家郷
  暗香吹断故園雪   唯有梅花似洛陽

春色漸く揺ぎ、いづくも風まづおくれる日、その興多く侍れども、
更に詩人墨客の是を賞する類ひ侍らぬことのみ念なくて、

  辺塞曾無風騒ノ   窓梅牆柳独其春
  為誰黄鳥出幽谷   淑気迎晴一曲新

これも、骨肉のことどもゆかしく思ひやりて、

  野水海漂鴻雁影   天風頻動春令枝
  暮来其会知帰路   旧里山花落後時

正月朔日試筆の歌、

  あづまより今日たつ春は、都にて花さくころぞ、我をまちえむ

今朝雪太降。祝豊年之嘉瑞、裁短冊一章矣。

  青陽朔旦日   瑞雪示豊年
  料識萬邦土   歎娯正決然

同じき六日、雪聊か降し侍りければ、武蔵野に出でて若菜をもとめて、

  武蔵野に今日つむ若菜、行末の限りしられぬよの例かも

此の野より帰るとて、馬上にて、ある同行に申しかけける、

  のる駒に武蔵鐙をかけぬれば、流石に名ある野にもなづまず

ある所にまかりて、一両日すみ侍りけるに、
山深き所なれば、鴬も花も未だ春をしらざれければ、

  寒鴬幽谷棲吾家   一曲朝来出靄霞
  簷外厭梅半籬雪   何時乗月見横斜

武蔵野に出でて、酒など飲みて遊びけるに、はじめて雲雀の揚るをみて、

  若草の一本ならぬ武蔵のにおつる雲雀も、床まよふらむ

浅ましげなる田夫の屋に、一両日泊り侍りけるに、
野嬢草席などいひし姿なりければ、感緒に堪へず、口にまかせける、

  吾此幽棲似謫居   従渭城別絶音書
  淡雲流水随行処   自■黄梁手煮蔬

旅宿に梅の咲きたりけるを一技手をりてよめる、

  梅が香をやどすのみかは、春風の都をうつす袖とこそなれ

鈴寒ことの外に侍りけるあした、鴬のなけるを聞きて、

  花ゆゑに谷の戸いでし鴬も、梅も、雪にや冬ごもるらむ

武州に山家の勝地侍り。罷りて十日ばかり逍遥し侍りけるに、ある夜筆にまかせ侍りし、

  一旬此地上遊迸   雲水森然山有霊
  残夜無眠聴春雨   簫々深院短檠青

次の夜、雨散じて、月いと面白きに、軒近く梅の薫りければ、和漢第三まで独吟、

  まくらとふ梅に旅ねの床もなし

  月引古郷春

  山とほくかすむかたより雪消えて

翌日、雨にふり籠められて、野遊の興も叶ひ侍らざりければ、
徒然とながめ暮し、花鴬を友として口すさみける、

  旅亭暮雨日如年   回野逍遥絶往還
  贏得嘯吟戦間緒   黄鳥交語問詩筵

またの日、雨晴れて雪になりければ、霞立ち消えて余寒甚しく侍りければ、

  淡雪のふりさけみれば、天の原、消えて跡なき朝霞かな

十玉が方より、紅梅の色こきをはじめて見せければ、

  こころざし深くそめつつながむれば、なほ紅の梅ぞ色そふ

かの老僧扇の賛を所望し侍りき。かの絵に、山路に雲霧を分け侍る行人、橋に行きかかりたる所、

  同遊相引歩徐々   靄霧阻山前路処
  独木橋辺人不見   松間鐘勤夕陽初

おなじ心を和にて書きそへ侍りける、

  山もとの村のタ暮。こととへば、まだ程遠し。入あひの声

野遊のついでに、大石信濃守が館へ招引し侍りて、
鞠など興行にて、夜に入りければ、二十首の歌をすすめけるに、

   初春霞

  かさならぬ春の日数を見せてけり。また一重なる四方の霞は

   帰雁幽

  霞みつつ、しばし姿はほのみえて、声より消ゆる雁の一つら

   浦春月

  藻塩やく浦わの煙、つらき名をかすみてかくせ。春のよの月

   夢中恋

  さめてこそ思ひの種となりにけれ。かりそめぶしの夢の浮橋

   後朝恋

  かきやりし浜の床の朝ねがみ、思ひのすぢは我ぞまされる

大石信濃守、父の三十三回忌とて、さまざまの追修を致しけるに、
聞き及び侍りければ、小経を花の技につけて贈り侍るとて、

  散りにしはみそぢ三年の花の春。今日この本に、とふを待つらむ

武蔵野の末に、浜崎といへる里侍り。かしこにまかりて、 【朝霞市浜崎】

  武蔵野をわけつつゆけば、浜崎の里とはきけど、立つ波もなし

◆甲斐国
此の程長々住みなれ侍りける旅宿をたちて、甲州へおもむき侍りけるに、
坊主のことの外に名残を惜み侍りければ、暫く馬をひかへてよみつかはしける、

  旅立ちてすすむる駒のあしなみもなれぬる宿にひく心かな

かくて甲州に到りぬ。岩殿の明神と申して霊社ましましけり。参詣して歌よみて奉りける、 

  あひ難き此の岩殿の神やしろ。世々に朽ちせぬ契りありとは

猿橋とて、川の底千尋に及び侍る上に、三十余丈の橋を渡して侍りけり。
此の橋に種々の説あり。昔猿の渡しけるなど里人の申し侍りき。
さる事ありけるにや。信用し難し。此の橋の朽損の時は、
いづれに国中の猿飼ども集りて、勧進などして渡し侍るとなむ。
然あらば其の由緒も侍ることあり。所から奇妙なる境地なり。 

  名のみしてさけぶもきかぬ。猿橋の下にこたふる山川の声

同じ心を、あまた詠じ侍りけるに、

  谷深きそばの岩ほのさる橋は、人も梢をわたるとぞみる

  水の月なほ手にうとき猿橋や、谷は千ひろのかげの川せに

此の所の風景、更に凡景にあらず。頗る神仙逍遥の地とおぼえ侍る。

  雲霞漠々渡長梯   四顧山川眼易迷
  吟歩誤令疑入峡   渓隈残月断猿啼

同じ国はつかりの里といへる所を過ぎ侍りける折節、帰雁の鳴きけるを聞きて、 

  今はとて霞をわけてかへるさに、おぼつかなしや。初雁の里

かし尾といへる山寺に一宿し侍りけねば、
かの住持のいはく、後の世のため一首を残し侍るべきよし、
頻りに申し侍りければ、立ちながら口にまかせて申し遣しける。
かし尾と俗語に申し習し侍れども、柏尾山にて侍るとならむ。

  蔭頼む岩もと柏。おのづから一よかりねに手折りてぞしく

花蔵坊といへる山伏の所に、十日ばかりとどまりけるに、武田刑部大輔礼に来りき。
盃とり出でて、暫く遊覧し侍りければ、愚詠を所望しければ、翌日使をつかはすついでに、

  消えのこる雪のしらねを花とみて、かひある山の春の色かな

また此の国の塩の山、さしでの磯とて、並びたる名所侍りければ、 

  春の色も今一しほの山みれば、日かげさしでの磯ぞかすめる

此の二首を遣し侍りき。其の後さしでの磯にて鴬を聞きてよめる。

  はる日影さして急ぐか。しほの山。たるひとけてや、鴬のなく

宿坊の軒に梅いと面白く咲き薫りて、月影朧なる夜もすがら、かりねの夢も忘れはてて、

  梅かをり、月かすむ夜の旅まくら、夢に都をなにか忍ばむ

武田が館に梅あまた侍り。宿所へのことは憚りありとて、
祖母の比丘尼の寺へ招引し侍りて、さまざまの風情をこらし侍りき。
此のあたりに菊島といへる名所侍り。一首所望し侍りしかば、 

  吹き匂ふ花の春風うらやみて、秋をよそにもきくかしまかな

今日のみちに、笛吹川といへる川侍り。馬上にてよめる、 

  春風に岸なる竹も音そへぬ。ふえふき川の波のしらべに

同じつづきに、花鳥の里といへる所を過ぎ侍るとて、

  色にそみ、声にめでつつ、やすらひて永き日暮す。花鳥の里

是より七覚山といへる霊地に登山す。
衆徒山伏両庭歴々と住める所なり。暁更に至る迄、管絃酒宴興を尽し侍りき。
宿坊の花やうやう吹き初めけるを見て、

  蕾技の花も折りしる此の山に、七のさとり、ひらきてしがな

翌日、此の山を出でて、同じ国吉田といふ所に到る。富士の麓にて侍りけり。
今夜は二月十五日、いとかすみて、富士の嶺さだかならざりければ、 

  きさらぎや、こよひの月の影ながら富士も霞に雲隠れして

かた柳といへる所をとほるとて、 

  一しほのみどりになびく糸はけに、春のくるてふかた柳かな

道すがら故郷の花を思ひやりて、

  東路の春をしたはば、故郷の花は我をや恨みはてまし

すくもの渡りといへる所を行き侍りける。朝霞いと深く靡きあへるを見て、

  里人の夜半にたく火の煙かと、すくもの渡り、今朝かすみつつ


◆上野国・下野国
三月二日、とね川、青柳、さぬきの庄、館林、ちづか、うへのの宿などうち過ぎて、佐野にてよめる、 【館林、館林市千塚町、佐野市植野町】

  古への跡をばとほくへだてきて、霞かかれるさのの舟橋

字津宮慈心院といへる聖道所に、花あまた侍り。
人々誘ひ侍りければ、社参のついでに門外までみやり侍りけり。
いと尋常なるすまひにて侍り。児などのはづれみえければ、
ゆかしくおぼえて、帰りていひつかはしける、

  立ちよりてみる程もなき木のもとの心にかかる花の白雪

此のあたりの人、百韻興待して、社頭に奉納すべき宿願ありて、発句を乞ひ侍りければ、

  ちらぬまはあらしや花の宮木もり

うつの宮を立ちて行く道に、塩のやといへる所侍り。
暮れ行くままに、里々の煙立つを見て、 【宇都宮】

  旅衣うらぶれて行くしほのやに煙さびしき夕がすみかな

狐川といへる里に行暮れてよめる、

  里人のともす火かげもくるる夜に、よそめあやしき狐川かな

朽木の柳といへる所に到る。古への柳は朽ちはてて、その跡にうゑつぎたるさへ、
また苔に埋れて朽ちにければ、

  みちのくの朽木の柳、糸たえて苔の衣にみどりをぞかる

(*)大石信濃守と道興『廻国雑記』(以下ウィッキより引用)
大石氏は武蔵国人で山内上杉家の有力宿老の一つ。
代々上杉氏重臣として武蔵守護代を任されていた。
応仁元年(1467年)、大石憲儀の庶子として誕生。

遠江守家4代目は伯父・源左衛門尉で、源左衛門尉は
文明9年(1477年)5月8日の武蔵針谷原合戦において戦死している。

定重の初見史料は道興『廻国雑記』で、長享元年(1487年)に亡父の三十三回忌を供養した「大石信濃守」として登場する。
「信濃守」の受領名は遠江守家の歴代には見られず、定重が庶子であるためと考えられている。

万里集九『梅花無尽蔵』では、同年に集九に対して亭名「万秀斎」を求めた「武蔵目代大石定重」として登場し、
この時点で家督を継承し武蔵守護代に就き、「定重」を名乗っていたことが確認される。
「定」の一字は上杉顕定からの偏諱であると考えられている。

永正7年(1510年)6月、上田政盛が権現山城で挙兵した際には、上杉憲房・上杉朝良軍として成田顕泰・長尾氏と共に参加し、援軍の伊勢宗瑞(北条早雲)を撃退し乱を平定した。大石顕重の代より高月城を本拠地に構えていたが、後北条氏の勢力が武蔵まで拡大し高月城では防備に不安があるとして、永正18年(1521年)、定重は高月城の北東1.5kmに滝山城を築城、本拠を移した(ただし、滝山城の築城を永禄年間とする有力な新説[3]がある)。

大永7年(1527年)、死去。

◆武蔵国
此の関をこえ過ぎて、恋が窪といへる所にて、 

  朽ちはてぬ名のみ残れる恋か窪、今はたとふも、契りならずや

ある人の許にまかりて遊び侍りけるに、題を探りて三十首よみ侍りけるに、

   深夜寒月

  春秋にあかしなれぬる心ざし、深き霜夜の月ぞしるらむ

   松雪夕深

  嵐さへうづもれはててふる雪に、松のしるべもなき夕かな

   思不言恋

  さすがまたかくとはえこそ岩小菅、下に乱れてわぶとしらなむ

むねをかといへる所を通り侍りけるに、夕の煙を見て、 

  夕けぶりあらそふ暮を見せてけり。わが家々のむね岡の宿

堀兼の井見にまかりてよめる。今は高井戸といふ。 【狭山市掘兼】

  おもかげぞ語るに残る、武蔵野や、ほりかねの井に水はなけれど

  昔たれ心づくしの名をとめて、水なき野べを堀かねのゐぞ

やせの里は、やがて此の続きにて侍り。

  里人のやせといふ名や、堀兼の井に水なきを侘び住むらむ

これよりいるま川にまかりてよめる、 【入間川】

  立ちよりて影をうつさば、入間川、わが年波もさかさまにゆけ

此の河につきて様々の説あり。水逆に流れ侍るといふ一義も侍り。また里人の家の門のうらにて侍るとなむ。水の流るる方角案内なきことなれば、何方をかみ下と定めがたし。家々の口は誠に表には侍らず。惣じて申しかよはす言葉なども、かへさまなることどもなり。異形なる風情にて侍り。佐西の観音寺といへる山伏の坊に到りて、四五日遊覧し侍る間に、瓦礫ども詠じ侍る中に、 【狭山市笹井?】

  南帰北去一李闌   露宿風食総不安
  贏得行金乗詩景   千峰萬壑雪団々

くろす川といへる川に、人の鵜つかひ侍るを見て、 【入間市黒須】

  岩がねに移ろふ水のくろす川、鵜のゐる影や、名に流れけむ

故郷の事など思ひ出で侍りて、暁まで月に向ひて、

  吾郷萬里隔音容   一別同遊夢不逢
  客裡断陽何時是   西山月落暁楼鐘



ささいをたちて、武州大塚の十玉が所へまかりけるに、江山幾度か移り変り侍りけむ。其の夜のとまりにて、

  山攣唆険海波瀾   到処多其行路難
  踈屋終宵風雪底   凍鶏喚夢月西寒

ある時大石信濃守といへる武士の館(*)、ゆかり侍りて、まかりて遊び侍るに、庭前に高閤あり。矢倉などを相かねて侍りけるにや。遠景勝れて、数千里の江山眼の前に尽きぬとおもほゆ。あるじ盃取り出して、暮過ぐるまで遊覧しけるに、
(*)大石信濃守と道興廻国雑記(ウィッキ)👉太田道真入道助清

  一閑乗興屡登楼   遠近江山分幾炎
  落雁斗霜風颯々   自沙翠竹斜陽幽

十玉が坊にて、人々に二十首歌よませ侍るに、

   閑庭雪

  跡いとふ庭とて人のつれなくば、とはぬ心の道もうらみじ

   霰妨夢

  ふしわぶる笹のしのやの玉霰、たまさかにだにみる夢もなし

   年内待梅

  春をまつ心よりさく初花を、いつか冬木の梅にうつさむ

   別後切恋

  消えにける玉の行方とけさはみよ。別れし君が道芝の露

河越といへる所に到り、寂勝院といふ山伏の所に一両夜やどりて、【川越市最勝院】

  限りあれば、今日わけつくす武蔵野の境もしるき河越の里

此の所に、常楽寺といへる時宗の道場侍る。日中の勤聴聞のために罷りける道に、大井川といへる所にて、 【大井町】

  打ち渡す大井河原の水上に、山やあらしの名をやどすらむ

此の里に月よしといへる武士の侍り。聊か連歌などたしなみけるとなむ。雪の発句を所望し侍りければ、言ひつかはしける、

  庭の雪月よしとみる光りかな

これにて百韻興行し侍りけるとなむ。これより武士の館へ罷りける道に、うとふ坂といへる所にてよめる、【】

  うとふ坂こえて苦しき行末を、やすかたとなく鳥の音もがな

すぐろといへる所に到りて、名に聞きし薄など尋ねてよめる、 【】

  旅ならぬ袖もやつれて武蔵野や、すぐろの薄、霜に朽ちにき

また野寺といへる所ここにも侍り。これも鐘の名所なりといふ。この鐘、古へ国の乱れによりて、土の底に埋みけるとなむ。ぞのまま掘り出さざりければ、 【新座市野寺】

  音にきく野寺をとへば、跡ふりて、こたふる鐘もなき夕かな

此のあたりに野火どめのつかといふ塚あり。今日はなやきそと詠ぜしによりて、蜂火忽にやけとまりけるとなむ。それより此の塚をのびどめと名づけ侍るよし、国の人申し侍りければ、 【新座市野火止】

  わか草の妻も籠らぬ冬されに、やがてもかるるのびどめの塚

これを過ぎて、ひざをりといへる里に市侍り。暫くかりやに休みて、例の俳諧を詠じて、同行に語り侍る、 【朝霞市膝折】

  商人はいかで立つらむ。膝折の市に脚気をうるにぞありける


◆武蔵
ある所に一宿し侍りけるに、たて侍りける屏風、扇蓋しにて侍り。そのうちに、ほねばかり書きたる扇侍りけり。其の上に書きて置き侍る、

  破崩本来非破扇  銀餞工有飾丹青
  今何零落只残骨  見此人間生滅形

ある僧和韻とて後日に人の見せ侍りける、

  取破扇猶見玉扇  従来正色又非青
  雖今茲残骨零落  豈比人間八苦形

或時旅宿にて二十首の歌皆々よませけるに、

   暁更雪

  草も木も、わがまだしらぬ程ながら、花に明け行く東雲の雪

   雪中鷹狩

  ふり紛ふ雪のの原にたつ鳥は、白ふの鷹に身をや捨てなむ

   池水鳥

  池水につがはぬをしや、友とみて、片われ月の影に鳴くらむ

   契二世恋

  沈むべき後をもしらで、みつせ川、水漏さじと契るはかなさ

ある夜故郷の人を夢に見侍りて、さめて後なごりおほかりければ、

  客牀夢覚故人帰   空夜悽然独湿衣
  不識回期其底日   洛陽千里信音稀

十玉が坊にて、三十首の歌詠み侍りけるに、

   冬地儀

  おしなべて草木に変る色もなし。誰かはむつの花とみるらむ

   月前雪

  すむ月のみふね静かによわたるや。千里晴れ行く雪の白浪

   浪上千鳥

  網人のうけの綱手をよそにみて、千鳥も友をひく波路かな

   初尋縁恋

  たよりふく風に靡かば、初を花、ほのめかしつつ、いざ心見む

おなじ宿坊にて、よもすがら炉辺に粛吟して、

  寒燈桃尽夜沈々   独臥空牀思不禁
  為我詩神如有感   松風生砌助愁吟

雪のあした、ある所の高閣にのぼりて偶作、

  危楼朝上百花鮮   交友無憐詩酒筵
  此地逍遥似何処   乱山畳嶂雪嬋娼

十玉か同宿十仙といへるもの、連歌に数寄侍りて、切々に興行し侍りけるとなむ。ある時発句所望しければ、

  待つ日のみ山につもりて雪おそし

人々十五首のうたよみ侍りけるに、

   川千鳥

  はまな川や風さえぬらむ行き帰り氷をつくるさよ千鳥かな

   懸樋水

  柴の戸ははや出でがての冬さわにかけひの水も氷とぢけり

   炉火似春

  埋火のはひかきわけて向ふよは春の光りを手に任せつつ

   依涙顕恋

  せきかぬる我が衣手の涙ゆゑ、人のうきなも流れやはせむ

   山海眺望

  渡津海の波の千里を隔てきて、山にもみるめ刈らぬ日はなし

旅天歳暮、いつしか引きかへたる式にて、雪月の夜、寒梅に封して偶作、

  歳云晩急若吾何   白髪蒼顔愁又加
  風雪還如慰旅懐   野梅映月影横斜


◆武蔵・所沢
ところ沢といへる所に遊覧に罷りけるに、福泉といふ山伏、観音寺にてさあえをとり出しけるに、薯芋といへるもの肴にありけるを見て、俳諧、 【所沢市】

  野遊びのさかなに山のいもそへて、ほり求めたる野老沢かな

此の所を過ぎて、くめくめ川といふ所侍り。里の家々には井なども侍らで、ただ此の河を汲みて朝夕用ひ侍るとなむ申しければ、 【東村山市久米川】

  里人のくめくめ川と夕暮になりなば、水はこほりもぞする


◆武蔵~
ある夜、ちご若衆など、隣国よりしるよしありて訪ひ来り侍りて、酒宴の隙に二十首の歌すすめ侍る中に、

   樵路雪

  をりたかむ心を賎がたのまずば、拾ふにたへじ。雪のした柴

   深夜寒月

  更け行けば流れぬよはもなき月のこほれる影ぞ。人頼めなる

   惜歳暮

  老のかずそはで春まつ身なりせば、何かは年の暮を慕はむ

   祈不逢恋

  つれなしと人をばなどかゆふしでの我に靡かぬ神や恨みむ

   述懐涙

  うき身にはともなふ人もうとき世に、忘れず袖をとふ涙かな

ある江山を過ぎ行きけるに、遠村に鐘の響きて、勤の声幽かに聞えければ、

  西泊東漂分幾州   天涯流路屡吟遊
  踈鐘遥度野村晩   清梵声残江寺秋

閑緒を慰めむがために、夜坐して十五首の歌よみ侍りけるに、

   宿鳥驚雪

  月にだにおどろく杜の村烏、ねぐらの雪に声さわぐらし

   沢畔水鳥

  葦鴨の青羽は霜につれなくて、沢べのみくさ、枯れも残らず

   契不来恋

  契りしも、今はかひなく更け過ぎて、鐘より後は我ぞねをなく

   社頭松

  すみよしの神代も遠き言のはの尽きせぬ種や、松となるらむ

ある人、旅天の鄙懐を一絶吟し侍るべきよし所望しければ、扇に書きて遣しける、

  一別長天西又東   残生蹤跡転飄蓬
  傍山臨水労吟歩   詩肺辛酸難得工

これかれ炉下に集りて閑吟のついでに、野径乾草、

  かげろふのをのの冬枯、見渡せば、あるかなきかの雪のした草

   従門帰恋

  うしつらし、真葛にとづる松の門、跡吹きおくる袖のおひかぜ

   鶴翔天

  沢べより雲ゐにのぼるあしたづの声もしられて、高き空かな

旧里の音信もなきことを述懐して、徒然の余りに、寒梅を尋ねに罷りて、ある夕暮月に乗じて、

  冷衣歩月出寒村   幽処探梅風雪昏
  郷信不臻春信到   臘前惆悵憶中原

武州大塚といへる所に住み侍りける時、近衛前関白殿下より、初めて御書到来し侍り。これをひらきて、一度は喜び、一たびは恋慕の憂へに沈みて、

  従兼君別始看書   異国天涯千里余
  忽憶帰期涙先落   待春遊子数居諸

連日雪いたくふり侍りければ、野遊の興さへ叶ひ侍らで、いとど都の事も思ひやりて、

  向来投錫掩幽扉   平野陰崖片雪飛
  想見旧庭残臘底   記春草木記吾非

越年の式、右にいへる如く、ためしなきありさまどもなり。さるからいとなむこと侍らぬのみ心やすく侍りけり。早梅を翫びて春の至れることを覚え侍るばかりなり。

  歳晏無営旅客情   在身寒餓憶華京
  柴局半掩夜来雪   一点梅開使我驚

焚火のもとにて、十五首の歌よみ侍りけるに、

   疎屋聞霰

  ぬる玉はまたもかよはで、終夜、ねやもるあられ、枕もるなり

   寄琴恋

  ひく琴にわがねをそへてたぐへやる風は、心の松よりぞ吹く

   寄夢恋

  人しれぬ枕のしたの海河に、かけてかひなき夢のうき橋

   浜辺旅泊

  夢ぞなきもしほの草の枕より、跡より、波のあらき浜べは

   老後懐旧

  見し人のなきは、津守のうらめしく残るかひなき老の波かな

ある時、故郷にあまた侍る連枝のことなど思ひやりて、

  雲路隔蹤鴻雁行   他郷何耐想家郷
  暗香吹断故園雪   唯有梅花似洛陽

春色漸く揺ぎ、いづくも風まづおくれる日、その興多く侍れども、更に詩人墨客の是を賞する類ひ侍らぬことのみ念なくて、

  辺塞曾無風騒ノ   窓梅牆柳独其春
  為誰黄鳥出幽谷   淑気迎晴一曲新

これも、骨肉のことどもゆかしく思ひやりて、

  野水海漂鴻雁影   天風頻動春令枝
  暮来其会知帰路   旧里山花落後時

正月朔日試筆の歌、

  あづまより今日たつ春は、都にて花さくころぞ、我をまちえむ

今朝雪太降。祝豊年之嘉瑞、裁短冊一章矣。

  青陽朔旦日   瑞雪示豊年
  料識萬邦土   歎娯正決然

同じき六日、雪聊か降し侍りければ、武蔵野に出でて若菜をもとめて、

  武蔵野に今日つむ若菜、行末の限りしられぬよの例かも

此の野より帰るとて、馬上にて、ある同行に申しかけける、

  のる駒に武蔵鐙をかけぬれば、流石に名ある野にもなづまず

ある所にまかりて、一両日すみ侍りけるに、山深き所なれば、鴬も花も未だ春をしらざれければ、

  寒鴬幽谷棲吾家   一曲朝来出靄霞
  簷外厭梅半籬雪   何時乗月見横斜

武蔵野に出でて、酒など飲みて遊びけるに、はじめて雲雀の揚るをみて、

  若草の一本ならぬ武蔵のにおつる雲雀も、床まよふらむ

浅ましげなる田夫の屋に、一両日泊り侍りけるに、野嬢草席などいひし姿なりければ、感緒に堪へず、口にまかせける、

  吾此幽棲似謫居   従渭城別絶音書
  淡雲流水随行処   自■黄梁手煮蔬

旅宿に梅の咲きたりけるを一技手をりてよめる、

  梅が香をやどすのみかは、春風の都をうつす袖とこそなれ

鈴寒ことの外に侍りけるあした、鴬のなけるを聞きて、

  花ゆゑに谷の戸いでし鴬も、梅も、雪にや冬ごもるらむ

武州に山家の勝地侍り。罷りて十日ばかり逍遥し侍りけるに、ある夜筆にまかせ侍りし、

  一旬此地上遊迸   雲水森然山有霊
  残夜無眠聴春雨   簫々深院短檠青

次の夜、雨散じて、月いと面白きに、軒近く梅の薫りければ、和漢第三まで独吟、

  まくらとふ梅に旅ねの床もなし

  月引古郷春

  山とほくかすむかたより雪消えて

翌日、雨にふり籠められて、野遊の興も叶ひ侍らざりければ、徒然とながめ暮し、花鴬を友として口すさみける、

  旅亭暮雨日如年   回野逍遥絶往還
  贏得嘯吟戦間緒   黄鳥交語問詩筵

またの日、雨晴れて雪になりければ、霞立ち消えて余寒甚しく侍りければ、

  淡雪のふりさけみれば、天の原、消えて跡なき朝霞かな

十玉が方より、紅梅の色こきをはじめて見せければ、

  こころざし深くそめつつながむれば、なほ紅の梅ぞ色そふ

かの老僧扇の賛を所望し侍りき。かの絵に、山路に雲霧を分け侍る行人、橋に行きかかりたる所、

  同遊相引歩徐々   靄霧阻山前路処
  独木橋辺人不見   松間鐘勤夕陽初

おなじ心を和にて書きそへ侍りける、

  山もとの村のタ暮。こととへば、まだ程遠し。入あひの声

野遊のついでに、大石信濃守が館へ招引し侍りて、鞠など興行にて、夜に入りければ、二十首の歌をすすめけるに、

   初春霞

  かさならぬ春の日数を見せてけり。また一重なる四方の霞は

   帰雁幽

  霞みつつ、しばし姿はほのみえて、声より消ゆる雁の一つら

   浦春月

  藻塩やく浦わの煙、つらき名をかすみてかくせ。春のよの月

   夢中恋

  さめてこそ思ひの種となりにけれ。かりそめぶしの夢の浮橋

   後朝恋

  かきやりし浜の床の朝ねがみ、思ひのすぢは我ぞまされる

大石信濃守、父の三十三回忌とて、さまざまの追修を致しけるに、聞き及び侍りければ、小経を花の技につけて贈り侍るとて、

  散りにしはみそぢ三年の花の春。今日この本に、とふを待つらむ

武蔵野の末に、浜崎といへる里侍り。かしこにまかりて、 【朝霞市浜崎】

  武蔵野をわけつつゆけば、浜崎の里とはきけど、立つ波もなし

◆甲斐国
此の程長々住みなれ侍りける旅宿をたちて、甲州へおもむき侍りけるに、坊主のことの外に名残を惜み侍りければ、暫く馬をひかへてよみつかはしける、

  旅立ちてすすむる駒のあしなみもなれぬる宿にひく心かな

かくて甲州に到りぬ。岩殿の明神と申して霊社ましましけり。参詣して歌よみて奉りける、 

  あひ難き此の岩殿の神やしろ。世々に朽ちせぬ契りありとは

猿橋とて、川の底千尋に及び侍る上に、三十余丈の橋を渡して侍りけり。此の橋に種々の説あり。昔猿の渡しけるなど里人の申し侍りき。さる事ありけるにや。信用し難し。此の橋の朽損の時は、いづれに国中の猿飼ども集りて、勧進などして渡し侍るとなむ。然あらば其の由緒も侍ることあり。所から奇妙なる境地なり。 

  名のみしてさけぶもきかぬ。猿橋の下にこたふる山川の声

同じ心を、あまた詠じ侍りけるに、

  谷深きそばの岩ほのさる橋は、人も梢をわたるとぞみる

  水の月なほ手にうとき猿橋や、谷は千ひろのかげの川せに

此の所の風景、更に凡景にあらず。頗る神仙逍遥の地とおぼえ侍る。

  雲霞漠々渡長梯   四顧山川眼易迷
  吟歩誤令疑入峡   渓隈残月断猿啼

同じ国はつかりの里といへる所を過ぎ侍りける折節、帰雁の鳴きけるを聞きて、 

  今はとて霞をわけてかへるさに、おぼつかなしや。初雁の里

かし尾といへる山寺に一宿し侍りけねば、かの住持のいはく、後の世のため一首を残し侍るべきよし、頻りに申し侍りければ、立ちながら口にまかせて申し遣しける。かし尾と俗語に申し習し侍れども、柏尾山にて侍るとならむ。

  蔭頼む岩もと柏。おのづから一よかりねに手折りてぞしく

花蔵坊といへる山伏の所に、十日ばかりとどまりけるに、武田刑部大輔礼に来りき。盃とり出でて、暫く遊覧し侍りければ、愚詠を所望しければ、翌日使をつかはすついでに、

  消えのこる雪のしらねを花とみて、かひある山の春の色かな

また此の国の塩の山さしでの磯とて、並びたる名所侍りければ、 

  春の色も今一しほの山みれば、日かげさしでの磯ぞかすめる

此の二首を遣し侍りき。其の後さしでの磯にて鴬を聞きてよめる。

  はる日影さして急ぐか。しほの山。たるひとけてや、鴬のなく

宿坊の軒に梅いと面白く咲き薫りて、月影朧なる夜もすがら、かりねの夢も忘れはてて、

  梅かをり、月かすむ夜の旅まくら、夢に都をなにか忍ばむ

武田が館に梅あまた侍り。宿所へのことは憚りありとて、祖母の比丘尼の寺へ招引し侍りて、さまざまの風情をこらし侍りき。此のあたりに菊島といへる名所侍り。一首所望し侍りしかば、 

  吹き匂ふ花の春風うらやみて、秋をよそにもきくかしまかな

今日のみちに、笛吹川といへる川侍り。馬上にてよめる、 

  春風に岸なる竹も音そへぬ。ふえふき川の波のしらべに

同じつづきに、花鳥の里といへる所を過ぎ侍るとて、

  色にそみ、声にめでつつ、やすらひて永き日暮す。花鳥の里

是より七覚山といへる霊地に登山す。衆徒山伏両庭歴々と住める所なり。暁更に至る迄、管絃酒宴興を尽し侍りき。宿坊の花やうやう吹き初めけるを見て、

  蕾技の花も折りしる此の山に、七のさとり、ひらきてしがな

翌日、此の山を出でて、同じ国吉田といふ所に到る。富士の麓にて侍りけり。今夜は二月十五日、いとかすみて、富士の嶺さだかならざりければ、 

  きさらぎや、こよひの月の影ながら富士も霞に雲隠れして

かた柳といへる所をとほるとて、 

  一しほのみどりになびく糸はけに、春のくるてふかた柳かな

道すがら故郷の花を思ひやりて、

  東路の春をしたはば、故郷の花は我をや恨みはてまし

すくもの渡りといへる所を行き侍りける。朝霞いと深く靡きあへるを見て、

  里人の夜半にたく火の煙かと、すくもの渡り、今朝かすみつつ



◆上野国・下野国
三月二日、とね川青柳さぬきの庄館林ちづかうへのの宿などうち過ぎて、佐野にてよめる、 【館林、館林市千塚町、佐野市植野町】

  古への跡をばとほくへだてきて、霞かかれるさのの舟橋

字津宮慈心院といへる聖道所に、花あまた侍り。人々誘ひ侍りければ、社参のついでに門外までみやり侍りけり。いと尋常なるすまひにて侍り。児などのはづれみえければ、ゆかしくおぼえて、帰りていひつかはしける、

  立ちよりてみる程もなき木のもとの心にかかる花の白雪

此のあたりの人、百韻興待して、社頭に奉納すべき宿願ありて、発句を乞ひ侍りければ、

  ちらぬまはあらしや花の宮木もり

うつの宮を立ちて行く道に、塩のやといへる所侍り。暮れ行くままに、里々の煙立つを見て、 【宇都宮】

  旅衣うらぶれて行くしほのやに煙さびしき夕がすみかな

狐川といへる里に行暮れてよめる、

  里人のともす火かげもくるる夜に、よそめあやしき狐川かな

朽木の柳といへる所に到る。古への柳は朽ちはてて、その跡にうゑつぎたるさへ、また苔に埋れて朽ちにければ、

  みちのくの朽木の柳、糸たえて苔の衣にみどりをぞかる


(*)大石信濃守と道興廻国雑記(ウィッキ)
大石氏は武蔵国人で山内上杉家の有力宿老の一つ。代々上杉氏重臣として武蔵守護代を任されていた。
応仁元年(1467年)、大石憲儀の庶子として誕生。遠江守家4代目は伯父・源左衛門尉で、源左衛門尉は文明9年(1477年)5月8日の武蔵針谷原合戦において戦死している。
定重の初見史料は道興廻国雑記』で、長享元年(1487年)に亡父の三十三回忌を供養した「大石信濃守」として登場する。「信濃守」の受領名は遠江守家の歴代には見られず、定重が庶子であるためと考えられている。
万里集九梅花無尽蔵』では、同年に集九に対して亭名「万秀斎」を求めた「武蔵目代大石定重」として登場し、この時点で家督を継承し武蔵守護代に就き、「定重」を名乗っていたことが確認される。「定」の一字は上杉顕定からの偏諱であると考えられている。
永正7年(1510年)6月、上田政盛権現山城で挙兵した際には、上杉憲房上杉朝良軍として成田顕泰長尾氏と共に参加し、援軍の伊勢宗瑞(北条早雲)を撃退し乱を平定した。大石顕重の代より高月城を本拠地に構えていたが、後北条氏の勢力が武蔵まで拡大し高月城では防備に不安があるとして、永正18年(1521年)、定重は高月城の北東1.5kmに滝山城を築城、本拠を移した(ただし、滝山城の築城を永禄年間とする有力な新説[3]がある)。
大永7年(1527年)、死去。

◆陸奥

是より、いな沢の里黒川よささ川などうち過ぎて、白河二所の関に到りければ、いく木ともなく山桜吹きみちて、心も詞も及び侍らす。暫く花の蔭にやすみて、

  春は唯花にもらせよ、白川のせきとめずとも過ぎむものかは 【白河市】

おなじ心を、あまたよみ侍りける中に、

  とめずともかへらむ物か、音にのみ聞きしにこゆる白川の関

  しら川の関のなみ木の山桜、花にゆるすな。風のかよひぢ

白川入道妻に後れて、歎きの中に侍るとて、礼にも来侍らず。孫をもて様々の礼儀をいたし侍りき。かの入道歌道数奇のよし伝へきき侍りければ、いひつかはしける、

  立ちよるも、一樹の蔭の契りとて、散りにし花の跡もなつかし

ここを立ちて、矢つぎといへる所へ赴き侍りける道に、うたたねの森といひて、いと木深き林侍り。やうやう花の散り過ぎけるをみて、

  ちる花を、ただ一ときの夢とみて、風に驚くうたたねの杜

かくて人わすれずの山といへる所にて、矢つぎの別当坊に一両夜泊りて、

  梓弓矢つぎの里の桜がり。花にひかれておくる春かな

是より田村といへる所に罷りける道すがら、さまざまの名所ども多かりけり。いひすてし歌など記すに及ばず。あさかの沼にて、

  はながつみ、かつぞうつろふ下水のあさかの沼は、春深くして

あさか山にてよめる、 【郡山市安積山】

  ちりつもる花にせかれて、浅か山、浅くはみえぬ山のゐの水

あぶくま川を過ぎ侍るとて、 【阿武隈川】

  かくしつつ故郷人に、いつかさて阿武隈川の逢瀬にはせむ

しほの山といふ所は山中にて侍る。是より海辺へは十里ばかり侍るとなむ。

  浦遠き山は、霞の色ばかりみちてくもれるしほの山かな



◆衣の関~松島

衣の関にてよめる、 【岩手県衣川村】

  みちのくの衣の関をきてみれば、霞もいくへたちかさねけむ

武隈の松蔭に暫らく立ち寄りて、ふりぬる身のたぐひなりと、思ひよそへてよみ侍りける、

  徒らに我も齢はたけくまのまつことなしに、身はふりにけり

末の松山遥かにながめやりて、さてもはるばると来にけることなど思ひつづけて、いつのまに春も末にならぬらむと思ひわびて、

  春ははや末の松山一ほどもなくこゆるぞ、旅の日なみなりける

またおなじ所にて、

  人なみに思ひ立ちにしかひあれや。わがあらましの末の松山

今日の道に、実方朝臣の墳墓とて、しるしのかたち侍る。雨はふりきぬと詠じけるふるごとなど思ひ出でてよめる、

  桜がり雨のふるごと思ひいでて、今日しもぬらすたび衣かな

※拾遣抄春題よみ人しらず 桜がり雨はふりきぬおなじくはぬるとも花のかげにかくれむ

関の清水といへる所を過ぎけるに、杉村の侍りければ、かたがた相坂の山ぢ思ひ出でられて、

  あふ坂の山にはあらぬ杉村に立ちより、関のしみづをぞくむ

かくてみやぎ野に到りぬ。一村雨し侍りければ、暫らく木蔭に立ち寄りて、過ぐるを待ち侍やける間に、 【仙台市】

  木の下に雨宿りせむ。宮城野や、みかさと申す人しなければ

奥の細道松本もろをかあかぬま西行がへりなどいふ所方をうち過ぎて、松島に到りぬ。浦々島々の風景辞も及びがたし。かねて聞き侍りしは物の数にても侍らず。皆々帰り 【松島町】
かね侍りければ、

  この浦のみるめにあかで、松島や、惜まぬ人もなき名残かな

籬か島を見渡せは、藤、つつじなど咲ききあひて見え、風景多かりければ、

  まがきじま、たがゆひそめし岩つつじ、巌にかかる磯の藤波

これより塩竃の浦へわたり侍るとて舟のうちにて、 【塩竃】

  松島や、松のうはかぜ吹きくれて、今日の舟路は、ちかの塩竃

つつじが岡を越え行きけるに、わらびをみて、

  名にしおふ躑躅が岡の下蕨、ともに折りしる春の暮れかな

とどろきの橋を過ぎ侍るとて、

  かち人も駒もなづめる程なれや。ふみもさだめぬ轟の橋

名とり川にてよめる二首、

  人しれぬ埋木ならば、名とり川、流れての世になど聞ゆらむ

  いつの世に顕れそめて、名取川、みかくれはてぬせぜの埋木

右廻国雑記以印本校合聊注今案畢(塙保己一)

 

 

 







 
二 大石信濃守と観応の擾乱(南一揆との関係)
 
永山諏訪神社(東京都多摩市諏訪1丁目)。
永山諏訪神社は、室町時代に武蔵国守護代で由井城主の大石信濃守顕重(おおいし しなののかみ あきしげ)が諏訪大社(長野県諏訪市・茅野市・下諏訪町)を勧請し、大風除けの守護神として崇敬されたと伝わります。
 
永山駅周辺は由井領(国衆大石氏の領国)に含まれ、戦国時代の1559(永禄2)年11月には、北条氏照(北条氏康三男)が養子縁組の形で大石氏の家督を譲られ、氏照の奉行人として付けられた家老の狩野泰光(かのうやすみつ)らが由井領の支配を行いました。その後、大石氏の被官は北条氏照の軍団に編入され、1590(天正18)年7月24日の八王子城合戦で北条氏と運命を共にしています。
 
永山諏訪神社は、江戸時代には連光村の真言宗豊山派寺院の医王山 薬王寺(東京都多摩市諏訪3丁目、現在は廃寺)が別当寺として祭祀を司りました。

大石信濃守:
「高月城」山岳信仰と高月城
 
享徳3年(1454)、鎌倉の公方であった足利成氏(しげうじ)は、関東管領(本来は公方の補佐役)の上杉憲忠を鎌倉の成氏屋敷に呼び出され、殺害されてしまった。これによって足利氏と上杉氏との対立抗争は本格的に発展した(享徳の乱)。幕府(京)は、今川範忠を成氏討伐に派遣。もともと京の幕府と鎌倉府は対立関係にあって上杉氏を後押ししていた。成氏は鎌倉御所から江ノ島に移り、さらに、下総(茨城県)の古河に拠点を移した。このため、成氏のことを古河公方とも呼ぶ。上杉方は五十子(いか大岳山こ埼玉県)に陣を構え、利根川を挟んで公方と上杉氏はにらみ合いの形となった。この対立によって上杉配下にあった武蔵地方では盛んに城郭構築が行われた。北武蔵の名城と言われるような城もその多くは、この時期と重なるようである。
「大石系図」には、長禄2年(1458)3月1811、高月に移り居住したとある。どこからか移ってきたのかは記されていない。大石顕重(あきしげ)が高月城を築いたとされる長禄2年の頃は、両上杉氏が勢力争いを演じている時期だった。扇谷上杉氏の重臣だった太田道灌は、勢いを増して川越城(埼玉叫)を強化していた。山内上杉氏もこれに連動するかのように、配下の大石氏に対しても高月城の構築を命じたものと思われる。
高月の地が選ばれた理由は、鎌食道の渡河地点にあったことが上げられる。秋川を渡河すると、二宮から青梅に至り、さらに、秋父方皆野から上州(群馬県)に細く脇往還道が存在していた。上州の白井城(北群馬郡)は山内上杉氏の本拠地であり、そこは越後方面と武蔵方面をつなぐ要衝でもあった。鎌倉道は高月城と白井城とを結ぶ役日を果たしていた。
高月城にはもともと御岳神社があり、滝山城を築くときに移したという伝承がある。『風土記』
の記述なので何ともいえないが、大石氏が山岳信仰と深く関わっていたことは確かである。
同じ大石氏の城であった埼玉県志木の引又城は十玉坊があり、また浄福寺城には千手観音が祀られている。さらに、大石氏は修験の名家とも婚因関係を結んでいたし、定久(道俊か)の法名は英
厳道俊で、金峰山永林寺本願となっている。金峰山は吉野金峰山のことであり、御岳蔵王権現信
仰はここからきていた。
その大石氏と山岳信仰の深い関係を継承したのが氏照ということになる。氏照がやってくる以
前から、大石領は山岳信仰関係一色だった。地域に古くから定着していた信仰を氏照が継承して
いくのは在地支配において当然のことだった。
文明18年(1486)、山岳信仰の総本山、京都護院門跡道興准后は、修験に関わる盟地や館を訪ね廻っていた。このとき、大石信濃守の屋敷を訪ねたというのである。『風上記』などの地誌類は、その屋敷が高月城だったと言い伝えてきた。しかし、これには諸説があって断言できないが、高月城も山岳信仰と深く関わっていたことは確かである。
高月城は秋川に対して、舌状のごとく張り出していて、秋川の流れを大きく変えている。ちょうどその場が広い湖のような景観になる。ここを「秋之洲」と呼んでいるのも頷ける。そして、湖状態の天空に眺糾するのが大岳山である。大岳山は御岳山の奥の院とも言われ、やはり、山岳信仰の聖山だった。高月城以前にはこの地に修験坊があったという言い伝えがあるが、景観を考慮すれば山岳信仰の聖山を遥拝する地として、それも自然な事だったと思われる。
 
「高月城下集落」
鎌倉道(脇往還道)は城下中里の中央を通って秋川に向かう。「里」はもともと多くの人たちが寄り集まっている集落を意味する。渡河地点の中里集落が城下集落である根小屋に相当する。家臣たちの中には屋敷地を与えられ、常駐していた者もいただろう。『土地法典』を参考にすると、中里集落にはブロック状地割りが多く、道筋も地元の歴史研究家沢井栄氏が指摘されたように、カネ折れ(直角になった道)がいくつか認められ(広報「加住」19号)、城と同様に防衛機能を備えた空間だったようだ。ここは滝山城の内宿に相当し、城と一体化した家臣居住区である。
一方、土地法典を見る限りでは、高月城下には短冊型地割りらしきものは認められない。この
ことから、外宿としての商業的な町場を求めるとすれば、鎌倉道と南北につながっていた秋川対
岸の二宮の地ではなかろうか。二宮は、二宮明神の門前として古くから発展していた町場だった。現在、鎌倉道は、円通寺の前で大きく方向を変え、やがて中里の中央を通って渡河地点へと向かう。中里の中央に正八幡宮(八幡神社)があり、高月村の村社となっている。地誌類は、この宮にかつては大きな槻の木があり、そこから高い槻、高槻(たかつき)になったとしている。しかし、円通寺の造営のときに槻は伐採して本堂、庫裡(くり)の川材にしたという。八幡宮の社内には板碑があり、板碑の上部には弥陀の梵字、その下に貞和5年(l349)と刻まれ、弥陀八幡を祀り本地として碑石を造立したと伝えている。円通寺は観音院とも称することから、山岳信仰と深い関わりがある寺院であったことがわかる。寺には人石氏奉納の木面三つがあったそうだ。また、境内の墳墓にも古碑があって元弘2年(1332)の銘が記されていたという。
高月城はこれだけでは終わらない。殿沢(大火殿沢)を越えた南方の蜂も無視できないのである。というのは、殿沢には明らかに人工の土塁が残っていて、南方の峰に行く虎口(出人り口)を形成していた。つまり、南方の峰も城郭の一部だったのである。視在そこの一部は工場の敷地になっているが、高槻城を見下ろす高台になっている。高月城でもっとも安全な場所が南側の蜂だった。領主はこうした安全性の闘い空間は避難場所として聞放していただろう。峰は平坦になっていて土塁とか堀といったものは何もないが、高月城の裏側という安令性に恵まれている。現在、殿沢は残土堆積地と化し、当時の景観は全く失われている。かつては殿沢からも水が流れ、その一部は溝になっていた。高月城も避難場所や水源の確保といった公的な空間が、私的空問の中に併存していた。

 
 
 
 
 
行尊、大僧正
 
 
 

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