准后道興『廻国雑記』 武蔵国の山伏
フェイクだった日高市女影の『三十三間堂跡』
1.駒形山堂記 の日高市不動尊の記録
(1)駒形山堂記『日高の鎌倉街道史話 横田八郎著 昭和62年
以下、駒形山堂記(一)(『日高の鎌倉街道史話』24頁)より引用。
江都の西、高麗郡高萩村駒形山は優婆塞(うばそく)修験の道場なり、山堂あり不動明王の像をおく、
伝えて曰く、役小角、一たび此地を過ぎ、其地霊を知る。
因みて法験を以て祈って真形を見る。
其貌(かお)を模刻し、萩草を用いて一宇を結んて之をおく、
而(しこう)して四百有余年を歴して退転に因(ちな)みて山僧高岳、高弁両師之を中興し、弥勒寺又は高萩院萩原堂と号す。其肇(はじめ)より今に到る千有余年、幸に之(これ)をあおぎみれば、即ち幽厳然真に在るが如き
・活眠(かつがん):両眼を見開き
・隆鼻(び):鼻は高く
・火口(かこう):力を入れて開いた口、歯ぐきが赤く火山の火口のごとく
・銃牙(がんが):左右の歯は鋭く飛び出している
火えん烈々、剣光爛々、怖るべく畏(かしこ)むべし、
嘗て天平勝宝中、釈良弁、小角刻む所の像を以て之を崇め、帖中の秘となす。
別に自ら一謳を刻んで之を帖前に置く、亦厳然真(げんぜんしん)に在るか如し。又堂の南三百歩を行けば、竹樹うつそう中に神宮あり
(2)国立博物館不動明王像(下図):日高市不動尊の記述似の像
「高萩不動尊」が役小角および天平勝宝年間となれば、「弘法大師空海説」はあやしくなってくる。日本最古級の不動明王かどうかの問題だが、実物の存在の有無に関係なく、この記述は、実物を見ないでは書けない内容である。第一級の価値ある記述である考えられる。
(3) 弘法大師以降の不動明王像:日高市不動尊の記述と異なる像
弘法大師以降の真言密教系の不動明王の像容;(国立博物館提供写真)
弘法大師以降の真言密教系の不動明王の像容は、背の低い、ちょっと太めの童子型の造形が多く、怒りの表情をしている。
・目は天地眼(てんちげん):右目を天に向けて左目を地に向けている。
・口は牙上下出:右の牙を上に出して左の牙を下に出している。
(4) さいたま文庫・37 「高麗聖天院」(*)(高麗山聖天院パンフレット)
・日高市聖天院の不動明王坐像の顔の特徴(高麗山聖天院パンフレット、11頁)
① 貞和(北朝暦)年間(1345~1350)、南北朝時代:中興第一世秀海上人による中興開山、真言宗。北朝暦であるから足利尊氏による寄進である。南朝方の痕跡が微塵もないということが重要である。
② 天正11年(1584):第二十五世圓眞上人、不動明王に改められたとの記述。天正11年は小田原北条氏の治世である。銘札には天正8年(1580)4月に法眼大蔵長盛が造立と明記。聖天院の不動明王像は小田原北条氏の寄進によるものであることがわかる。
(*)高麗山聖天院勝楽寺世代(書き)の矛盾?
『高麗山聖天院勝楽寺世代(書き)』は何か怪しいと直感したが、やはり印象操作の域をでないシロモノでした。要するに、後世、特に明治以降のビジネスツールに過ぎなかった。歴史の真実は、南北朝時代の足利尊氏による中興開山と戦国時代末の小田原北条氏の寄進により隆盛の歴史が明かになったのである。
①中興開山:貞和年間(1345年~1350年)
この時代は北朝の足利将軍の実行支配の時代、後醍醐天皇は亡くなっている。一方、尊氏の方は必要に迫られ天龍寺など寺社仏閣の寄進と支配に心血を注いでいる時期である。位相は一致。
②本尊不動明王寄進:天正八年(1580年)
小田原北条氏による善政の時代で市と共に寺社仏閣への多額の寄進が際立つ時代である。小田原北条氏の寄進による寺社仏閣が多く残っている関東平野、武蔵国、特に日高市。
徳川幕府は、小田原北条氏の善政は煙たかったでしょう。因みに、台の岡上家は三代め辺りで弾圧された。
② 明治からの受難の歴史:
足利尊氏の足跡はことごとく封印された。こうした意図的な歴史改竄の上に無理やり高麗氏なんちゃらカンチャラ、おチャラケ史が登場したわけです。
2. 駒形山堂記『日高の鎌倉街道史話』
(1)【駒形山堂記』(『日高の鎌倉街道史話』P24~P26)
江都の西、高麗郡高萩村駒形山は優婆塞(うばそく)修験の道場なり、山堂あり不動明王の像をおく、伝えて曰く、役小角、一たび此地を過ぎ、其地霊を知る。因みて法験を以て祈って真形を見る。其貌(かお)を模刻し、萩草を用いて一宇を結んて之をおく、而(しこう)して四百有余年を歴して退転に因(ちな)みて山僧高岳、高弁両師之を中興し、弥勒寺又は高萩院萩と号す。
其肇(はじめ)より今に到る千有余年、幸に之(これ)をあおぎみれば、
即ち幽厳然真に在るが如き
・活眠(かつがん):両眼を見開き
・隆鼻(び):鼻は高く
・火口(かこう):力を入れて開いた口、歯ぐきが赤く見えて火山の火口のごとく
・銃牙(がんが):左右の歯は鋭く飛び出している
火えん烈々、剣光爛々、怖るべく畏(かしこ)むべし、
嘗て天平勝宝中、釈良弁、小角刻む所の像を以て之を崇め、帖中の秘となす。別に自ら一謳を刻んで之を帖前に置く、亦厳然真(げんぜんしん)に在るか如し。又堂の南三百歩を行けば、竹樹うつそう中に神宮あり。
神祇社と称す。天神地祇と日本武尊を合祀す、伝えて曰く、古、尊東征してこの地を過ぎ、山に登って一祠を立て功を神祇に祈ると。物換り星移り、欽明の御世丙寅(ひのえとら)の歳に至り、郷民、尊を崇めて合祀す、然るに元弘年中に至り、源中将義貞兵を東方に挙げ、勝利を此神に祈り日ならずして強敵を亡ぼす、後又永享年中、源将軍義教、敵を討って勝を此神に祈り、亦日ならずし凱歌を奏す。当に斯れ間をあくる戦の餘り、郷党民屋、神廟仏奇尽く兵火の難にかかって、ひとり灰燼の害を免るるは、将軍勝を祈るの功に因るなり、ここに於てか、其の宝鑑を伝えてその祭典に供うると云う。且つ夫々本宮六社之を駒形山高萩いた権現と統称す、すべて山中経る処奇多し。
小角験を見(あらわ)せし跡なり、千手堂は行基霊を止し処なり、松々天婦の美あり、名流脱苦の恵あり、嶺秀で、水清く、草木暢茂(ちょうも)するを称して、逸してすむべく、龍わだかまって潜むべし、意(おも)うに衝人山を買い、隠士高臥(いんしこうふ)するは、豈独り艶嶺東山のみならんや。
明王閣に題す
明王皇閣翠微の中焙気雲に接して
半空に横たわる影流に溯ってこう没す
悌声飛姻71して鳳らんむらがる
松問遥かに捲く採級の握111上高くかかる
素月の弓暫らく誠心に住って寂渓に舛す
妥に脱両をうかぺて深宮に下る
右記文一篇井詩一律
弐西隠客勝徹明子環謹述且題
(2)箱根山御領属高萩駒形之宮二所之檀那之事 『日高の鎌倉街道史話』 (P27)
右彼柏那等豊川阿閣梨可有引導候、請用物三分二者堂島造之時計、三分一者高萩駒形之宮之時計、又細々之所禱之事道先達土用極月祈禱等之事者、豊前阿閣梨に申定候専越候、此檀那者いつかたに候共行満坊はからいたるへ<候、仍譲渡状如件、
文安元年甲子十二月十三日
山本大坊 法印栄円 (花押)
この文書は、文安元年(1444)越生の山本坊栄円が高萩の駒形之宮二所の旦那引所蔵(祭祀職)を行満坊豊前阿闊梨に譲渡すると云う内容である。駒形之宮ニケ所とは、駒形山は優姿塞修験の道場なりとある如く、また、竹樹うつそう中に神宮あり、神祇社と称すると記にあるがあるいはそれをさすものか。
3. 清水嘉作氏の『三十三間堂』の歴史改竄
(1)棟札:長寛二年(1164)の棟札(*)
(2)(*)【長寛二年(1164)の主な出来事】
(3)【蓮華王院(三十三間堂)HPより引用】
(4)新編武蔵野風土記稿 「高萩院」の項
(5)武州高麗郡高萩郷駒形山 『由緒・世代書き』
4.永久二年(1116)の行尊大僧正
『行尊大僧正論 (下) : 生涯と作品 近藤潤一 著 ・ 1976年』
永久二年~永久四年を抜粋
永久 二年(1114)~三年【六十・六十一歳】
この問、行尊の動静を示す史料はほとんど発見できない。
ただ、 二年十一月五日、新御顧寺法勝寺落慶供養に参仕したことが見えるだけである。
かれの周辺では、二年七月廿一日、仁和寺大教院が焼亡した。
一品宮聰子内親王が、父後三条院追善のため建立(永保三年)してから、もう三十一年も経ている。
先朝遺愛の皇女輔仁親王母儀の堀河院中宮篤子内親王も、年来の病悩がつのって、十月一日に世を辞した。
中宮は祖母陽明門院の庇護を得て准后に遇せられ、堀河朝には名目的な中宮の栄称を得たが、
嘉承二(1106)年九月には落飾して、病を養っていた。
五十五歳、わずかの救いは、二年十月廿八日、輔仁親王第一子有仁王が、白河院猶子となって参院、元服の慶事が催されたことがあった。
前駆の一員には、当時五十歳の前右兵衛佐行宗朝臣も加わり、行事万般にわたって奉仕に努めた。
行宗は、鳥羽朝初年に、行海(天仁二年生誕) 任覚(天永元年生誕)の、後の東寺長者たる両男子を儲けていたが、
本人自身はまだ散位のままに沈淪している。
地下にて侍りし頃
雲井にはまだ聞えぬか沢に住む頭の髪も白田鶴の声
かれは、斎院時代から令子内親王に奉仕していた。
その内親王も、かつての郁芳門院にかわる父院の愛を受けて、今は鳥羽付帝准母儀の皇后宮であった。
その斎院時代、堀河帝に国信、基綱、師頼らの源家公達歌人と華やかな宴遊、和歌を楽しんだ記憶も、すでに懐旧の彼方に去った。
そのかみの歌友俊頼もまた、ようやく衰老に向かおうとして、なお地下に沈んでいる。
そう言えば俊頼との間には、かれとの親密さを語る挿話も残された。
肥後君と修理大夫行宗と言ひ語らふ中にて、常に歌詠み交わすと聞きけるに、
津の国に塩浴みに籠りて、かの国より 彼大夫の許に (肥後)
草枕笹垣薄き芦の屋はところせきまで袖ぞ露けき
と詠みて送りたりけるを見て 、此歌の心にては、
ただの語らひにてあらざりけりと見えければ、詠みて遣しける
笹垣の薄き芦戸の露けさに萎れにけりと見えもするかな
肥後の君
芦の屋に萎れも臥さずかりにても露に心を何に置くらむ
〈ところせきまで〉涙が置く、と詠み送った肥後の消息を、俊頼に披露する程の心安さだったのである。
もっともこれは、『続詞花集』 詞書では国信への消息としている。
『内肥後集」では単に「人のがり」と詞書する。
俊頼の所伝の方が信じられるだろう。その俊頼も都を離れる。
白川にで、俊頼朝臣伊勢へ下りし餞(はなむけ)に
たのむべき我身なりせば幾度か帰り来む日を君に問はまし
俊頼の伊勢下向は 永久二年頃と推定されている。
永久 四年(1116)【六十二歳】
正月十九日、寺門を代表する長吏法務大僧正増誉が、白河院の敬信篤く、寵賞盛んな験徳の人で、
行円の資としても、また修験無双の修行歴においても、行尊の大先であった。
白河、堀河両帝の護持憎を歴任、寛治四年白河院熊野行幸の先達を勤仕して、
始めて熊野三山検校識に補されたのもかれであった。
僧界最高め栄位栄職を究め、十三箇寺の別当職を一身に兼ねた。
圓城寺におけるその後継者は、今や行尊なのであった。
かれはただちに圓城寺金山の長吏に選ばれる。
五月廿三日には玉体護持の労によって権僧正に任ぜられると同時に、長吏の事が発令された。
寺門附属の熊野三山検校職をも兼任する。
かれはもともと事相の入、修験力行によって高徳を得た加持祈祷の人であって、
爛熟期秘密修法を代表する儀軌(ぎき)の人ではない。
その方ならば、たとえ、ば白河院皇子中御室覚行法親王や、
東密の寵僧寛助僧正らに委ねてよかったのである。
たとえば、慶和年聞に覚行法親王の営んだ諸種修法は、各種連壇修法はもちろん、
その他にも孔雀経法 愛染王法、理趣三味法・六字法等を網羅して、
白河院貪欲なまでの調伏、敬愛、延命等の要求を満たすべく、
新法別尊法の隆昌化を積極的に体現しつつあった。
圓城寺の修法でも、東蜜中心の愛染明王法に対して、
金剛童子法や尊星王法の独自の新修法を分化させることが指摘されているけれども、
行尊の本領はそれとも趣を異にしていて、利他の誓願によって両界秘法を修し、
超人的修行階梯を攀じ切って界会の諸仏諸尊に同化する神秘的霊験能力に集中している。
そのかれが、今、三井一山を双肩を担う代表僧として、
天台座主仁豪を越えて権僧正に任ぜられたのであった。
この年四月四日、行宗が白河院鳥羽殿北面歌合に参加、
〈よそ目には 言を出詠している 末の松山越す浪に見えまがひつつ咲ける卯の花〉
をはじめ五首を出詠している。
しかし「永久百首」 の作者には加えられていない。
七月十七日 行尊が加持している。
永久 二年(1114)~三年【六十・六十一歳】
この問、行尊の動静を示す史料はほとんど発見できない。
ただ、 二年十一月五日、新御顧寺法勝寺落慶供養に参仕したことが見えるだけである。
かれの周辺では、二年七月廿一日、仁和寺大教院が焼亡した。一品宮聰子内親王が、父後三条院追善のため建立(永保三年)してから、もう三十一年も経ている。先朝遺愛の皇女輔仁親王母儀の堀河院中宮篤子内親王も、年来の病悩がつのって、十月一日に世を辞した。中宮は祖母陽明門院の庇護を得て准后に遇せられ、堀河朝には名目的な中宮の栄称を得たが、嘉承二(1106)年九月には落飾して、病を養っていた。五十五歳、わずかの救いは、二年十月廿八日、輔仁親王第一子有仁王が、白河院猶子となって参院、元服の慶事が催されたことがあった。前駆の一員には、当時五十歳の前右兵衛佐行宗朝臣も加わり、行事万般にわたって奉仕に努めた。行宗は、鳥羽朝初年に、行海(天仁二年生誕) 任覚(天永元年生誕)の、後の東寺長者たる両男子を儲けていたが、本人自身はまだ散位のままに沈淪している。
地下にて侍りし頃
雲井にはまだ聞えぬか沢に住む頭の髪も白田鶴の声
かれは、斎院時代から令子内親王に奉仕していた。その内親王も、かつての郁芳門院にかわる父院の愛を受けて、今は鳥羽付帝准母儀の皇后宮であった。その斎院時代、堀河帝に国信、基綱、師頼らの源家公達歌人と華やかな宴遊、和歌を楽しんだ記憶も、すでに懐旧の彼方に去った。そのかみの歌友俊頼もまた、ようやく衰老に向かおうとして、なお地下に沈んでいる。そう言えば俊頼との間には、かれとの親密さを語る挿話も残された。
肥後君と修理大夫行宗と言ひ語らふ中にて、常に歌詠み交わすと聞きけるに、津の国に塩浴みに籠りて、かの国より 彼大夫の許に (肥後)
草枕笹垣薄き芦の屋はところせきまで袖ぞ露けき
と詠みて送りたりけるを見て 、此歌の心にては、ただの語らひにてあらざりけりと見えければ、詠みて遣しける
笹垣の薄き芦戸の露けさに萎れにけりと見えもするかな
肥後の君
芦の屋に萎れも臥さずかりにても露に心を何に置くらむ
〈ところせきまで〉涙が置く、と詠み送った肥後の消息を、俊頼に披露する程の心安さだったのである。もっともこれは、『続詞花集』 詞書では国信への消息としている。『内肥後集」では単に「人のがり」と詞書する。俊頼の所伝の方が信じられるだろう。その俊頼も都を離れる。
白川にで、俊頼朝臣伊勢へ下りし餞(はなむけ)に
たのむべき我身なりせば幾度か帰り来む日を君に問はまし
俊頼の伊勢下向は 永久二年頃と推定されている。
永久 四年(1116)【六十二歳】
正月十九日、寺門を代表する長吏法務大僧正増誉が、白河院の敬信篤く、寵賞盛んな験徳の人で、行円の資としても、また修験無双の修行歴においても、行尊の大先であった。白河、堀河両帝の護持憎を歴任、寛治四年白河院熊野行幸の先達を勤仕して、始めて熊野三山検校識に補されたのもかれであった。僧界最高め栄位栄職を究め、十三箇寺の別当職を一身に兼ねた。
圓城寺におけるその後継者は、今や行尊なのであった。かれはただちに圓城寺金山の長吏に選ばれる。
五月廿三日には玉体護持の労によって権僧正に任ぜられると同時に、長吏の事が発令された。寺門附属の熊野三山検校職をも兼任する。
かれはもともと事相の入、修験力行によって高徳を得た加持祈祷の人であって、爛熟期秘密修法を代表する儀軌(ぎき)の人ではない。
その方ならば、たとえ、ば白河院皇子中御室覚行法親王や、東密の寵僧寛助僧正らに委ねてよかったのである。たとえば、慶和年聞に覚行法親王の営んだ諸種修法は、各種連壇修法はもちろん、その他にも孔雀経法 愛染王法、理趣三味法・六字法等を網羅して、白河院の貪欲なまでの調伏、敬愛、延命等の要求を満たすべく、新法別尊法の隆昌化を積極的に体現しつつあった。
圓城寺の修法でも、東蜜中心の愛染明王法に対して、金剛童子法や尊星王法の独自の新修法を分化させることが指摘されているけれども、行尊の本領はそれとも趣を異にしていて、利他の誓願によって両界秘法を修し、超人的修行階梯を攀じ切って界会の諸仏諸尊に同化する神秘的霊験能力に集中している。そのかれが、今、三井一山を双肩に担う代表僧として、 天台座主仁豪を越えて権僧正に任ぜられたのであった。
この年四月四日、行宗が白河院鳥羽殿北面歌合に参加、
〈よそ目には 言を出詠している 末の松山越す浪に見えまがひつつ咲ける卯の花〉をはじめ五首を出詠している。しかし「永久百首」 の作者には加えられていない。
七月十七日 行尊が加持している。
5.准后道興『廻国雑記』
【常門跡譜云聖護院道興准后後知足院関白房嗣公息】
文明十八年六月上旬の頃、北征東行のあらましにて、公武に暇のこと申し入れ侍りき。各々御対面あり。東山殿(八代足利義政)ならびに室町殿(九代足利義尚)において数献これあり。祝着満足これに過ぐべからず。翌日東山殿へ二首の瓦礫をたてまつる。
◆武蔵国
武蔵野にて残月をながめて、
山遠し有明のこるひろ野かな
おなじ野をわけくれてよめる、
草の原、分けもつくさぬ、武蔵野の今日の限りは、夕なりけり
この夜は、しの野に仮寝して、色々の草花を枕にかたしきて、少しまどろみ、夢の覚めければ、
花散りし草の枕の露のまに、夢路うつろふ、武蔵野の原
武蔵野の草にかりねの秋の夜は、結ぶ夢ぢも、はてやなからむ
此の野の末にあやしの賎の屋にとまりて、雨をききて、
旅まくら、都に遠きあづまやを、いく夜か秋の雨になれけむ
岡部の原といへる所は、かの六弥太といひし武夫の旧跡なり。
近代関東の合戦に数万の軍兵討死の在所にて、人馬の骨をもて塚につきて、今に古墳教多侍りし。
暫くゑかうしてくちにまかせける、 【岡部町】
なきをとふ、岡べの原の古塚に、秋のしるしの松風ぞふく
むら君といへる所をすぐるとて、 【羽生市下村君】
たが世にか浮れそめけむ。朽ち果てぬ其の名もつらき村君の里
浅間川をわたるとてよめる、
《浅間川(せんげんかわ)は、埼玉県さいたま市と上尾市を流れる荒川水系の準用河川。
同じ埼玉県内には加須市に浅間川(あさまがわ)があった。》
名にしおふ山こそあらめ。富山県射水市。行せの水も烟たてつつ
◆武蔵国
岩つきといへる所を過ぐるに、富士のねには雪いとふかく、外山には残んの紅葉色々にみえければ、
よみて同行の中へ遣しける、 【岩槻市】
富士の嶺の雪に心をそめて見よ。外山の紅葉色深くとも
浅草といへる所に泊りて、庭に残れる草花を見て、 【台東区浅草】
冬の色はまだ浅草のうら枯に、秋の露をも残す庭かな
此の里のほとりに、石枕といへるふしぎなる石あり。
其の故を尋ねければ、中ごろのことにやありけむ、なまざぶらひ侍り。
娘を一人もち侍りき。容色大かたよの常なりけり。
かのちち母、むすめを遊女にしたて、道行人に出でむかひ、彼の石のほとりにいざなひて、
交会のふぜいをこととし侍りけり。
かねてよりあひ図のことなれば、折りをはからひて、
かの父母枕のほとりに立ちよりて、とも寝したりける男のかうべを打砕きて、
衣装以下の物を取りて、一生を送り侍りき。
さる程に、かの娘つやつや思ひけるやう、あな浅ましや、
いくばくもなきよの中に、かかるふしぎの業をして、父母諸共に悪趣に堕して、
永劫沈倫#せむ事の悲しさ、先非におきては悔いても益なし、
これより後の事様々工夫して、所詮我父母を出しぬきて見むと思ひ、
ある時道ゆく人ありと告げて、男の如くに出でたちて、かの石にふしけり。
いつもの如くに心得て、頭を打砕きけり。いそぎものども取らむとて、
ひきかつぎたるきぬをあけてみれば、人ひとりなり。
あやしく思ひて、よくよく見れば我がむすめなり。
心もくれ惑ひて、浅ましともいふばかりなし。
それよりかの父母速に発心して、度々の悪業をも慙愧懺悔して、
今の娘の菩提をも深く弔ひ侍りけると語り伝へけるよし、古老の人の申しければ、
つみとがのくつる世もなき、石枕、さこそは重き思ひなるらめ
当所の寺号浅草寺といへる、十一面観音にて侍り。
たぐひなき霊仏にてましましけるとなむ。参詣の道すがら、
名所ども多かりける中に、まつち山といふ所にて、
いかでわれ頼めもおかぬ東路の待乳の山に、今日はきぬらむ
しぐれても逐にもみぢぬ、待乳山落葉をときと木枯ぞ吹く
梅花無尽蔵云、川辺有柳樹、吉田之子、梅若丸墓所也、其母北白河人。
あさぢが原といへる所にて、
人めさへかれてさびしき夕まぐれ、浅茅か原の霜を分けつつ
おもひ川にいたりてよめる、
うき旅の道にながるる思ひ川、涙の袖や水のみなかみ
かくて、隅田川のほとりに到りて、皆々歌よみて、披講などして、
古の塚のすがた、哀れさ今の如くに覚えて、 【隅田川】
古塚のかげ行く水の隅田川、聞きわたりても、濡るる袖かな
同行の中に、さざえを携へける人ありて、盃酌の興を催し侍りき。
猶ゆきゆきて川上に到り侍りて、都鳥尋ね見むとて人人さそひける程に、まかりてよめる、
こととはむ、鳥だに見えよ、すみだ川。都恋しと思ふゆふべに
思ふ人なき身なれども、隅田川、名もむつまじき都鳥かな
やうやう帰るさになり侍れば、夕の月所がらおもしろくて、舟をさしとめて、
秋の水すみだ川原にさすらひて、舟こぞりても月をみるかな
秋の日浅草を立ちて、新羽といへる所に赴き侍るとて、
道すがら名所ども尋ねける中に、忍の岡といへる所にて、松原のありける蔭にやすみて、【 】
霜ののちあらはれにけり。時雨をば忍の岡の松もかひなし
ここを過ぎて、小石川といへる所にまかりて、 【文京区小石川】
我がかたを思ひ深めて、小石河、いつをせにとかこひ渡るらむ
とりごえの里といへる所に行きくれて、 【台東区鳥越】
暮れにけり。宿り何処と急ぐ日に、なれもねに行く鳥越の里
芝の浦といへる所に到りければ、しほやのけぶりうち靡きて物寂しきに、
塩木運ぶ舟どもを見て、 【港区芝浦】
焼かぬよりもしほの煙名にぞたつ舟にこりつむ芝の浦人
此のうらを過ぎて、あら井といへる所にて、 【横浜市】
蘆まじりおふるあらゐのうち靡き、波にむせべる岸の松風
◆武蔵国
此の関をこえ過ぎて、恋が窪といへる所にて、
朽ちはてぬ名のみ残れる恋か窪、今はたとふも、契りならずや
ある人の許にまかりて遊び侍りけるに、題を探りて三十首よみ侍りけるに、
深夜寒月
春秋にあかしなれぬる心ざし、深き霜夜の月ぞしるらむ
松雪夕深
嵐さへうづもれはててふる雪に、松のしるべもなき夕かな
思不言恋
さすがまたかくとはえこそ岩小菅、下に乱れてわぶとしらなむ
むねをかといへる所を通り侍りけるに、夕の煙を見て、
夕けぶりあらそふ暮を見せてけり。わが家々のむね岡の宿
堀兼の井見にまかりてよめる。今は高井戸といふ。 【狭山市掘兼】
おもかげぞ語るに残る、武蔵野や、ほりかねの井に水はなけれど
昔たれ心づくしの名をとめて、水なき野べを堀かねのゐぞ
やせの里は、やがて此の続きにて侍り。
里人のやせといふ名や、堀兼の井に水なきを侘び住むらむ
これよりいるま川にまかりてよめる、 【入間川】
立ちよりて影をうつさば、入間川、わが年波もさかさまにゆけ
此の河につきて様々の説あり。水逆に流れ侍るといふ一義も侍り。
また里人の家の門のうらにて侍るとなむ。
水の流るる方角案内なきことなれば、何方をかみ下と定めがたし。
家々の口は誠に表には侍らず。惣じて申しかよはす言葉なども、かへさまなることどもなり。
異形なる風情にて侍り。佐西の観音寺といへる山伏の坊に到りて、
四五日遊覧し侍る間に、瓦礫ども詠じ侍る中に、 【狭山市笹井?】
南帰北去一李闌 露宿風食総不安
贏得行金乗詩景 千峰萬壑雪団々
くろす川といへる川に、人の鵜つかひ侍るを見て、 【入間市黒須】
岩がねに移ろふ水のくろす川、鵜のゐる影や、名に流れけむ
故郷の事など思ひ出で侍りて、暁まで月に向ひて、
吾郷萬里隔音容 一別同遊夢不逢
客裡断陽何時是 西山月落暁楼鐘
◆
ささいをたちて、武州大塚の十玉が所へまかりけるに、江山幾度か移り変り侍りけむ。
其の夜のとまりにて、
山攣唆険海波瀾 到処多其行路難
踈屋終宵風雪底 凍鶏喚夢月西寒
ある時大石信濃守といへる武士の館に(*)、ゆかり侍りて、まかりて遊び侍るに、庭前に高閤あり。
矢倉などを相かねて侍りけるにや。遠景勝れて、数千里の江山眼の前に尽きぬとおもほゆ。
あるじ盃取り出して、暮過ぐるまで遊覧しけるに、
(*)大石信濃守と道興『廻国雑記』👉太田道真入道助清
一閑乗興屡登楼 遠近江山分幾炎
落雁斗霜風颯々 自沙翠竹斜陽幽
十玉が坊にて、人々に二十首歌よませ侍るに、
閑庭雪
跡いとふ庭とて人のつれなくば、とはぬ心の道もうらみじ
霰妨夢
ふしわぶる笹のしのやの玉霰、たまさかにだにみる夢もなし
年内待梅
春をまつ心よりさく初花を、いつか冬木の梅にうつさむ
別後切恋
消えにける玉の行方とけさはみよ。別れし君が道芝の露
河越といへる所に到り、寂勝院といふ山伏の所に一両夜やどりて、【川越市最勝院】
限りあれば、今日わけつくす武蔵野の境もしるき河越の里
此の所に、常楽寺といへる時宗の道場侍る。
日中の勤聴聞のために罷りける道に、大井川といへる所にて、 【大井町】
打ち渡す大井河原の水上に、山やあらしの名をやどすらむ
此の里に月よしといへる武士の侍り。聊か連歌などたしなみけるとなむ。
雪の発句を所望し侍りければ、言ひつかはしける、
庭の雪月よしとみる光りかな
これにて百韻興行し侍りけるとなむ。
これより武士の館へ罷りける道に、うとふ坂といへる所にてよめる、【】
うとふ坂こえて苦しき行末を、やすかたとなく鳥の音もがな
すぐろといへる所に到りて、名に聞きし薄など尋ねてよめる、 【】
旅ならぬ袖もやつれて武蔵野や、すぐろの薄、霜に朽ちにき
また野寺といへる所ここにも侍り。これも鐘の名所なりといふ。
この鐘、古へ国の乱れによりて、土の底に埋みけるとなむ。
ぞのまま掘り出さざりければ、 【新座市野寺】
音にきく野寺をとへば、跡ふりて、こたふる鐘もなき夕かな
此のあたりに野火どめのつかといふ塚あり。
今日はなやきそと詠ぜしによりて、蜂火忽にやけとまりけるとなむ。
それより此の塚をのびどめと名づけ侍るよし、国の人申し侍りければ、 【新座市野火止】
わか草の妻も籠らぬ冬されに、やがてもかるるのびどめの塚
これを過ぎて、ひざをりといへる里に市侍り。
暫くかりやに休みて、例の俳諧を詠じて、同行に語り侍る、 【朝霞市膝折】
商人はいかで立つらむ。膝折の市に脚気をうるにぞありける
◆武蔵
ある所に一宿し侍りけるに、たて侍りける屏風、扇蓋しにて侍り。
そのうちに、ほねばかり書きたる扇侍りけり。其の上に書きて置き侍る、
破崩本来非破扇 銀餞工有飾丹青
今何零落只残骨 見此人間生滅形
ある僧和韻とて後日に人の見せ侍りける、
取破扇猶見玉扇 従来正色又非青
雖今茲残骨零落 豈比人間八苦形
或時旅宿にて二十首の歌皆々よませけるに、
暁更雪
草も木も、わがまだしらぬ程ながら、花に明け行く東雲の雪
雪中鷹狩
ふり紛ふ雪のの原にたつ鳥は、白ふの鷹に身をや捨てなむ
池水鳥
池水につがはぬをしや、友とみて、片われ月の影に鳴くらむ
契二世恋
沈むべき後をもしらで、みつせ川、水漏さじと契るはかなさ
ある夜故郷の人を夢に見侍りて、さめて後なごりおほかりければ、
客牀夢覚故人帰 空夜悽然独湿衣
不識回期其底日 洛陽千里信音稀
十玉が坊にて、三十首の歌詠み侍りけるに、
冬地儀
おしなべて草木に変る色もなし。誰かはむつの花とみるらむ
月前雪
すむ月のみふね静かによわたるや。千里晴れ行く雪の白浪
浪上千鳥
網人のうけの綱手をよそにみて、千鳥も友をひく波路かな
初尋縁恋
たよりふく風に靡かば、初を花、ほのめかしつつ、いざ心見む
おなじ宿坊にて、よもすがら炉辺に粛吟して、
寒燈桃尽夜沈々 独臥空牀思不禁
為我詩神如有感 松風生砌助愁吟
雪のあした、ある所の高閣にのぼりて偶作、
危楼朝上百花鮮 交友無憐詩酒筵
此地逍遥似何処 乱山畳嶂雪嬋娼
十玉か同宿十仙といへるもの、連歌に数寄侍りて、切々に興行し侍りけるとなむ。
ある時発句所望しければ、
待つ日のみ山につもりて雪おそし
人々十五首のうたよみ侍りけるに、
川千鳥
はまな川や風さえぬらむ行き帰り氷をつくるさよ千鳥かな
懸樋水
柴の戸ははや出でがての冬さわにかけひの水も氷とぢけり
炉火似春
埋火のはひかきわけて向ふよは春の光りを手に任せつつ
依涙顕恋
せきかぬる我が衣手の涙ゆゑ、人のうきなも流れやはせむ
山海眺望
渡津海の波の千里を隔てきて、山にもみるめ刈らぬ日はなし
旅天歳暮、いつしか引きかへたる式にて、雪月の夜、寒梅に封して偶作、
歳云晩急若吾何 白髪蒼顔愁又加
風雪還如慰旅懐 野梅映月影横斜
◆武蔵・所沢
ところ沢といへる所に遊覧に罷りけるに、福泉といふ山伏、観音寺にてさあえをとり出しけるに、
薯芋といへるもの肴にありけるを見て、俳諧、 【所沢市】
野遊びのさかなに山のいもそへて、ほり求めたる野老沢かな
此の所を過ぎて、くめくめ川といふ所侍り。里の家々には井なども侍らで、
ただ此の河を汲みて朝夕用ひ侍るとなむ申しければ、 【東村山市久米川】
里人のくめくめ川と夕暮になりなば、水はこほりもぞする
◆武蔵~
ある夜、ちご若衆など、隣国よりしるよしありて訪ひ来り侍りて、
酒宴の隙に二十首の歌すすめ侍る中に、
樵路雪
をりたかむ心を賎がたのまずば、拾ふにたへじ。雪のした柴
深夜寒月
更け行けば流れぬよはもなき月のこほれる影ぞ。人頼めなる
惜歳暮
老のかずそはで春まつ身なりせば、何かは年の暮を慕はむ
祈不逢恋
つれなしと人をばなどかゆふしでの我に靡かぬ神や恨みむ
述懐涙
うき身にはともなふ人もうとき世に、忘れず袖をとふ涙かな
ある江山を過ぎ行きけるに、遠村に鐘の響きて、勤の声幽かに聞えければ、
西泊東漂分幾州 天涯流路屡吟遊
踈鐘遥度野村晩 清梵声残江寺秋
閑緒を慰めむがために、夜坐して十五首の歌よみ侍りけるに、
宿鳥驚雪
月にだにおどろく杜の村烏、ねぐらの雪に声さわぐらし
沢畔水鳥
葦鴨の青羽は霜につれなくて、沢べのみくさ、枯れも残らず
契不来恋
契りしも、今はかひなく更け過ぎて、鐘より後は我ぞねをなく
社頭松
すみよしの神代も遠き言のはの尽きせぬ種や、松となるらむ
ある人、旅天の鄙懐を一絶吟し侍るべきよし所望しければ、扇に書きて遣しける、
一別長天西又東 残生蹤跡転飄蓬
傍山臨水労吟歩 詩肺辛酸難得工
これかれ炉下に集りて閑吟のついでに、野径乾草、
かげろふのをのの冬枯、見渡せば、あるかなきかの雪のした草
従門帰恋
うしつらし、真葛にとづる松の門、跡吹きおくる袖のおひかぜ
鶴翔天
沢べより雲ゐにのぼるあしたづの声もしられて、高き空かな
旧里の音信もなきことを述懐して、徒然の余りに、寒梅を尋ねに罷りて、ある夕暮月に乗じて、
冷衣歩月出寒村 幽処探梅風雪昏
郷信不臻春信到 臘前惆悵憶中原
武州大塚といへる所に住み侍りける時、近衛前関白殿下より、初めて御書到来し侍り。
これをひらきて、一度は喜び、一たびは恋慕の憂へに沈みて、
従兼君別始看書 異国天涯千里余
忽憶帰期涙先落 待春遊子数居諸
連日雪いたくふり侍りければ、野遊の興さへ叶ひ侍らで、いとど都の事も思ひやりて、
向来投錫掩幽扉 平野陰崖片雪飛
想見旧庭残臘底 記春草木記吾非
越年の式、右にいへる如く、ためしなきありさまどもなり。
さるからいとなむこと侍らぬのみ心やすく侍りけり。
早梅を翫びて春の至れることを覚え侍るばかりなり。
歳晏無営旅客情 在身寒餓憶華京
柴局半掩夜来雪 一点梅開使我驚
焚火のもとにて、十五首の歌よみ侍りけるに、
疎屋聞霰
ぬる玉はまたもかよはで、終夜、ねやもるあられ、枕もるなり
寄琴恋
ひく琴にわがねをそへてたぐへやる風は、心の松よりぞ吹く
寄夢恋
人しれぬ枕のしたの海河に、かけてかひなき夢のうき橋
浜辺旅泊
夢ぞなきもしほの草の枕より、跡より、波のあらき浜べは
老後懐旧
見し人のなきは、津守のうらめしく残るかひなき老の波かな
ある時、故郷にあまた侍る連枝のことなど思ひやりて、
雲路隔蹤鴻雁行 他郷何耐想家郷
暗香吹断故園雪 唯有梅花似洛陽
春色漸く揺ぎ、いづくも風まづおくれる日、その興多く侍れども、
更に詩人墨客の是を賞する類ひ侍らぬことのみ念なくて、
辺塞曾無風騒ノ 窓梅牆柳独其春
為誰黄鳥出幽谷 淑気迎晴一曲新
これも、骨肉のことどもゆかしく思ひやりて、
野水海漂鴻雁影 天風頻動春令枝
暮来其会知帰路 旧里山花落後時
正月朔日試筆の歌、
あづまより今日たつ春は、都にて花さくころぞ、我をまちえむ
今朝雪太降。祝豊年之嘉瑞、裁短冊一章矣。
青陽朔旦日 瑞雪示豊年
料識萬邦土 歎娯正決然
同じき六日、雪聊か降し侍りければ、武蔵野に出でて若菜をもとめて、
武蔵野に今日つむ若菜、行末の限りしられぬよの例かも
此の野より帰るとて、馬上にて、ある同行に申しかけける、
のる駒に武蔵鐙をかけぬれば、流石に名ある野にもなづまず
ある所にまかりて、一両日すみ侍りけるに、
山深き所なれば、鴬も花も未だ春をしらざれければ、
寒鴬幽谷棲吾家 一曲朝来出靄霞
簷外厭梅半籬雪 何時乗月見横斜
武蔵野に出でて、酒など飲みて遊びけるに、はじめて雲雀の揚るをみて、
若草の一本ならぬ武蔵のにおつる雲雀も、床まよふらむ
浅ましげなる田夫の屋に、一両日泊り侍りけるに、
野嬢草席などいひし姿なりければ、感緒に堪へず、口にまかせける、
吾此幽棲似謫居 従渭城別絶音書
淡雲流水随行処 自■黄梁手煮蔬
旅宿に梅の咲きたりけるを一技手をりてよめる、
梅が香をやどすのみかは、春風の都をうつす袖とこそなれ
鈴寒ことの外に侍りけるあした、鴬のなけるを聞きて、
花ゆゑに谷の戸いでし鴬も、梅も、雪にや冬ごもるらむ
武州に山家の勝地侍り。罷りて十日ばかり逍遥し侍りけるに、ある夜筆にまかせ侍りし、
一旬此地上遊迸 雲水森然山有霊
残夜無眠聴春雨 簫々深院短檠青
次の夜、雨散じて、月いと面白きに、軒近く梅の薫りければ、和漢第三まで独吟、
まくらとふ梅に旅ねの床もなし
月引古郷春
山とほくかすむかたより雪消えて
翌日、雨にふり籠められて、野遊の興も叶ひ侍らざりければ、
徒然とながめ暮し、花鴬を友として口すさみける、
旅亭暮雨日如年 回野逍遥絶往還
贏得嘯吟戦間緒 黄鳥交語問詩筵
またの日、雨晴れて雪になりければ、霞立ち消えて余寒甚しく侍りければ、
淡雪のふりさけみれば、天の原、消えて跡なき朝霞かな
十玉が方より、紅梅の色こきをはじめて見せければ、
こころざし深くそめつつながむれば、なほ紅の梅ぞ色そふ
かの老僧扇の賛を所望し侍りき。かの絵に、山路に雲霧を分け侍る行人、橋に行きかかりたる所、
同遊相引歩徐々 靄霧阻山前路処
独木橋辺人不見 松間鐘勤夕陽初
おなじ心を和にて書きそへ侍りける、
山もとの村のタ暮。こととへば、まだ程遠し。入あひの声
野遊のついでに、大石信濃守が館へ招引し侍りて、
鞠など興行にて、夜に入りければ、二十首の歌をすすめけるに、
初春霞
かさならぬ春の日数を見せてけり。また一重なる四方の霞は
帰雁幽
霞みつつ、しばし姿はほのみえて、声より消ゆる雁の一つら
浦春月
藻塩やく浦わの煙、つらき名をかすみてかくせ。春のよの月
夢中恋
さめてこそ思ひの種となりにけれ。かりそめぶしの夢の浮橋
後朝恋
かきやりし浜の床の朝ねがみ、思ひのすぢは我ぞまされる
大石信濃守、父の三十三回忌とて、さまざまの追修を致しけるに、
聞き及び侍りければ、小経を花の技につけて贈り侍るとて、
散りにしはみそぢ三年の花の春。今日この本に、とふを待つらむ
武蔵野の末に、浜崎といへる里侍り。かしこにまかりて、 【朝霞市浜崎】
武蔵野をわけつつゆけば、浜崎の里とはきけど、立つ波もなし
◆甲斐国
此の程長々住みなれ侍りける旅宿をたちて、甲州へおもむき侍りけるに、
坊主のことの外に名残を惜み侍りければ、暫く馬をひかへてよみつかはしける、
旅立ちてすすむる駒のあしなみもなれぬる宿にひく心かな
かくて甲州に到りぬ。岩殿の明神と申して霊社ましましけり。参詣して歌よみて奉りける、
あひ難き此の岩殿の神やしろ。世々に朽ちせぬ契りありとは
猿橋とて、川の底千尋に及び侍る上に、三十余丈の橋を渡して侍りけり。
此の橋に種々の説あり。昔猿の渡しけるなど里人の申し侍りき。
さる事ありけるにや。信用し難し。此の橋の朽損の時は、
いづれに国中の猿飼ども集りて、勧進などして渡し侍るとなむ。
然あらば其の由緒も侍ることあり。所から奇妙なる境地なり。
名のみしてさけぶもきかぬ。猿橋の下にこたふる山川の声
同じ心を、あまた詠じ侍りけるに、
谷深きそばの岩ほのさる橋は、人も梢をわたるとぞみる
水の月なほ手にうとき猿橋や、谷は千ひろのかげの川せに
此の所の風景、更に凡景にあらず。頗る神仙逍遥の地とおぼえ侍る。
雲霞漠々渡長梯 四顧山川眼易迷
吟歩誤令疑入峡 渓隈残月断猿啼
同じ国はつかりの里といへる所を過ぎ侍りける折節、帰雁の鳴きけるを聞きて、
今はとて霞をわけてかへるさに、おぼつかなしや。初雁の里
かし尾といへる山寺に一宿し侍りけねば、
かの住持のいはく、後の世のため一首を残し侍るべきよし、
頻りに申し侍りければ、立ちながら口にまかせて申し遣しける。
かし尾と俗語に申し習し侍れども、柏尾山にて侍るとならむ。
蔭頼む岩もと柏。おのづから一よかりねに手折りてぞしく
花蔵坊といへる山伏の所に、十日ばかりとどまりけるに、武田刑部大輔礼に来りき。
盃とり出でて、暫く遊覧し侍りければ、愚詠を所望しければ、翌日使をつかはすついでに、
消えのこる雪のしらねを花とみて、かひある山の春の色かな
また此の国の塩の山、さしでの磯とて、並びたる名所侍りければ、
春の色も今一しほの山みれば、日かげさしでの磯ぞかすめる
此の二首を遣し侍りき。其の後さしでの磯にて鴬を聞きてよめる。
はる日影さして急ぐか。しほの山。たるひとけてや、鴬のなく
宿坊の軒に梅いと面白く咲き薫りて、月影朧なる夜もすがら、かりねの夢も忘れはてて、
梅かをり、月かすむ夜の旅まくら、夢に都をなにか忍ばむ
武田が館に梅あまた侍り。宿所へのことは憚りありとて、
祖母の比丘尼の寺へ招引し侍りて、さまざまの風情をこらし侍りき。
此のあたりに菊島といへる名所侍り。一首所望し侍りしかば、
吹き匂ふ花の春風うらやみて、秋をよそにもきくかしまかな
今日のみちに、笛吹川といへる川侍り。馬上にてよめる、
春風に岸なる竹も音そへぬ。ふえふき川の波のしらべに
同じつづきに、花鳥の里といへる所を過ぎ侍るとて、
色にそみ、声にめでつつ、やすらひて永き日暮す。花鳥の里
是より七覚山といへる霊地に登山す。
衆徒山伏両庭歴々と住める所なり。暁更に至る迄、管絃酒宴興を尽し侍りき。
宿坊の花やうやう吹き初めけるを見て、
蕾技の花も折りしる此の山に、七のさとり、ひらきてしがな
翌日、此の山を出でて、同じ国吉田といふ所に到る。富士の麓にて侍りけり。
今夜は二月十五日、いとかすみて、富士の嶺さだかならざりければ、
きさらぎや、こよひの月の影ながら富士も霞に雲隠れして
かた柳といへる所をとほるとて、
一しほのみどりになびく糸はけに、春のくるてふかた柳かな
道すがら故郷の花を思ひやりて、
東路の春をしたはば、故郷の花は我をや恨みはてまし
すくもの渡りといへる所を行き侍りける。朝霞いと深く靡きあへるを見て、
里人の夜半にたく火の煙かと、すくもの渡り、今朝かすみつつ
◆上野国・下野国
三月二日、とね川、青柳、さぬきの庄、館林、ちづか、うへのの宿などうち過ぎて、佐野にてよめる、 【館林、館林市千塚町、佐野市植野町】
古への跡をばとほくへだてきて、霞かかれるさのの舟橋
字津宮慈心院といへる聖道所に、花あまた侍り。
人々誘ひ侍りければ、社参のついでに門外までみやり侍りけり。
いと尋常なるすまひにて侍り。児などのはづれみえければ、
ゆかしくおぼえて、帰りていひつかはしける、
立ちよりてみる程もなき木のもとの心にかかる花の白雪
此のあたりの人、百韻興待して、社頭に奉納すべき宿願ありて、発句を乞ひ侍りければ、
ちらぬまはあらしや花の宮木もり
うつの宮を立ちて行く道に、塩のやといへる所侍り。
暮れ行くままに、里々の煙立つを見て、 【宇都宮】
旅衣うらぶれて行くしほのやに煙さびしき夕がすみかな
狐川といへる里に行暮れてよめる、
里人のともす火かげもくるる夜に、よそめあやしき狐川かな
朽木の柳といへる所に到る。古への柳は朽ちはてて、その跡にうゑつぎたるさへ、
また苔に埋れて朽ちにければ、
みちのくの朽木の柳、糸たえて苔の衣にみどりをぞかる
(*)大石信濃守と道興『廻国雑記』(以下ウィッキより引用)
大石氏は武蔵国人で山内上杉家の有力宿老の一つ。
代々上杉氏重臣として武蔵守護代を任されていた。
応仁元年(1467年)、大石憲儀の庶子として誕生。
遠江守家4代目は伯父・源左衛門尉で、源左衛門尉は
文明9年(1477年)5月8日の武蔵針谷原合戦において戦死している。
定重の初見史料は道興『廻国雑記』で、長享元年(1487年)に亡父の三十三回忌を供養した「大石信濃守」として登場する。
「信濃守」の受領名は遠江守家の歴代には見られず、定重が庶子であるためと考えられている。
万里集九『梅花無尽蔵』では、同年に集九に対して亭名「万秀斎」を求めた「武蔵目代大石定重」として登場し、
この時点で家督を継承し武蔵守護代に就き、「定重」を名乗っていたことが確認される。
「定」の一字は上杉顕定からの偏諱であると考えられている。
永正7年(1510年)6月、上田政盛が権現山城で挙兵した際には、上杉憲房・上杉朝良軍として成田顕泰・長尾氏と共に参加し、援軍の伊勢宗瑞(北条早雲)を撃退し乱を平定した。大石顕重の代より高月城を本拠地に構えていたが、後北条氏の勢力が武蔵まで拡大し高月城では防備に不安があるとして、永正18年(1521年)、定重は高月城の北東1.5kmに滝山城を築城、本拠を移した(ただし、滝山城の築城を永禄年間とする有力な新説[3]がある)。
大永7年(1527年)、死去。
◆武蔵国
此の関をこえ過ぎて、恋が窪といへる所にて、
朽ちはてぬ名のみ残れる恋か窪、今はたとふも、契りならずや
ある人の許にまかりて遊び侍りけるに、題を探りて三十首よみ侍りけるに、
深夜寒月
春秋にあかしなれぬる心ざし、深き霜夜の月ぞしるらむ
松雪夕深
嵐さへうづもれはててふる雪に、松のしるべもなき夕かな
思不言恋
さすがまたかくとはえこそ岩小菅、下に乱れてわぶとしらなむ
むねをかといへる所を通り侍りけるに、夕の煙を見て、
夕けぶりあらそふ暮を見せてけり。わが家々のむね岡の宿
堀兼の井見にまかりてよめる。今は高井戸といふ。 【狭山市掘兼】
おもかげぞ語るに残る、武蔵野や、ほりかねの井に水はなけれど
昔たれ心づくしの名をとめて、水なき野べを堀かねのゐぞ
やせの里は、やがて此の続きにて侍り。
里人のやせといふ名や、堀兼の井に水なきを侘び住むらむ
これよりいるま川にまかりてよめる、 【入間川】
立ちよりて影をうつさば、入間川、わが年波もさかさまにゆけ
此の河につきて様々の説あり。水逆に流れ侍るといふ一義も侍り。また里人の家の門のうらにて侍るとなむ。水の流るる方角案内なきことなれば、何方をかみ下と定めがたし。家々の口は誠に表には侍らず。惣じて申しかよはす言葉なども、かへさまなることどもなり。異形なる風情にて侍り。佐西の観音寺といへる山伏の坊に到りて、四五日遊覧し侍る間に、瓦礫ども詠じ侍る中に、 【狭山市笹井?】
南帰北去一李闌 露宿風食総不安
贏得行金乗詩景 千峰萬壑雪団々
くろす川といへる川に、人の鵜つかひ侍るを見て、 【入間市黒須】
岩がねに移ろふ水のくろす川、鵜のゐる影や、名に流れけむ
故郷の事など思ひ出で侍りて、暁まで月に向ひて、
吾郷萬里隔音容 一別同遊夢不逢
客裡断陽何時是 西山月落暁楼鐘
◆
ささいをたちて、武州大塚の十玉が所へまかりけるに、江山幾度か移り変り侍りけむ。其の夜のとまりにて、
山攣唆険海波瀾 到処多其行路難
踈屋終宵風雪底 凍鶏喚夢月西寒
ある時大石信濃守といへる武士の館に(*)、ゆかり侍りて、まかりて遊び侍るに、庭前に高閤あり。矢倉などを相かねて侍りけるにや。遠景勝れて、数千里の江山眼の前に尽きぬとおもほゆ。あるじ盃取り出して、暮過ぐるまで遊覧しけるに、
(*)大石信濃守と道興『廻国雑記』(ウィッキ)👉太田道真入道助清
一閑乗興屡登楼 遠近江山分幾炎
落雁斗霜風颯々 自沙翠竹斜陽幽
十玉が坊にて、人々に二十首歌よませ侍るに、
閑庭雪
跡いとふ庭とて人のつれなくば、とはぬ心の道もうらみじ
霰妨夢
ふしわぶる笹のしのやの玉霰、たまさかにだにみる夢もなし
年内待梅
春をまつ心よりさく初花を、いつか冬木の梅にうつさむ
別後切恋
消えにける玉の行方とけさはみよ。別れし君が道芝の露
河越といへる所に到り、寂勝院といふ山伏の所に一両夜やどりて、【川越市最勝院】
限りあれば、今日わけつくす武蔵野の境もしるき河越の里
此の所に、常楽寺といへる時宗の道場侍る。日中の勤聴聞のために罷りける道に、大井川といへる所にて、 【大井町】
打ち渡す大井河原の水上に、山やあらしの名をやどすらむ
此の里に月よしといへる武士の侍り。聊か連歌などたしなみけるとなむ。雪の発句を所望し侍りければ、言ひつかはしける、
庭の雪月よしとみる光りかな
これにて百韻興行し侍りけるとなむ。これより武士の館へ罷りける道に、うとふ坂といへる所にてよめる、【】
うとふ坂こえて苦しき行末を、やすかたとなく鳥の音もがな
すぐろといへる所に到りて、名に聞きし薄など尋ねてよめる、 【】
旅ならぬ袖もやつれて武蔵野や、すぐろの薄、霜に朽ちにき
また野寺といへる所ここにも侍り。これも鐘の名所なりといふ。この鐘、古へ国の乱れによりて、土の底に埋みけるとなむ。ぞのまま掘り出さざりければ、 【新座市野寺】
音にきく野寺をとへば、跡ふりて、こたふる鐘もなき夕かな
此のあたりに野火どめのつかといふ塚あり。今日はなやきそと詠ぜしによりて、蜂火忽にやけとまりけるとなむ。それより此の塚をのびどめと名づけ侍るよし、国の人申し侍りければ、 【新座市野火止】
わか草の妻も籠らぬ冬されに、やがてもかるるのびどめの塚
これを過ぎて、ひざをりといへる里に市侍り。暫くかりやに休みて、例の俳諧を詠じて、同行に語り侍る、 【朝霞市膝折】
商人はいかで立つらむ。膝折の市に脚気をうるにぞありける
◆武蔵
ある所に一宿し侍りけるに、たて侍りける屏風、扇蓋しにて侍り。そのうちに、ほねばかり書きたる扇侍りけり。其の上に書きて置き侍る、
破崩本来非破扇 銀餞工有飾丹青
今何零落只残骨 見此人間生滅形
ある僧和韻とて後日に人の見せ侍りける、
取破扇猶見玉扇 従来正色又非青
雖今茲残骨零落 豈比人間八苦形
或時旅宿にて二十首の歌皆々よませけるに、
暁更雪
草も木も、わがまだしらぬ程ながら、花に明け行く東雲の雪
雪中鷹狩
ふり紛ふ雪のの原にたつ鳥は、白ふの鷹に身をや捨てなむ
池水鳥
池水につがはぬをしや、友とみて、片われ月の影に鳴くらむ
契二世恋
沈むべき後をもしらで、みつせ川、水漏さじと契るはかなさ
ある夜故郷の人を夢に見侍りて、さめて後なごりおほかりければ、
客牀夢覚故人帰 空夜悽然独湿衣
不識回期其底日 洛陽千里信音稀
十玉が坊にて、三十首の歌詠み侍りけるに、
冬地儀
おしなべて草木に変る色もなし。誰かはむつの花とみるらむ
月前雪
すむ月のみふね静かによわたるや。千里晴れ行く雪の白浪
浪上千鳥
網人のうけの綱手をよそにみて、千鳥も友をひく波路かな
初尋縁恋
たよりふく風に靡かば、初を花、ほのめかしつつ、いざ心見む
おなじ宿坊にて、よもすがら炉辺に粛吟して、
寒燈桃尽夜沈々 独臥空牀思不禁
為我詩神如有感 松風生砌助愁吟
雪のあした、ある所の高閣にのぼりて偶作、
危楼朝上百花鮮 交友無憐詩酒筵
此地逍遥似何処 乱山畳嶂雪嬋娼
十玉か同宿十仙といへるもの、連歌に数寄侍りて、切々に興行し侍りけるとなむ。ある時発句所望しければ、
待つ日のみ山につもりて雪おそし
人々十五首のうたよみ侍りけるに、
川千鳥
はまな川や風さえぬらむ行き帰り氷をつくるさよ千鳥かな
懸樋水
柴の戸ははや出でがての冬さわにかけひの水も氷とぢけり
炉火似春
埋火のはひかきわけて向ふよは春の光りを手に任せつつ
依涙顕恋
せきかぬる我が衣手の涙ゆゑ、人のうきなも流れやはせむ
山海眺望
渡津海の波の千里を隔てきて、山にもみるめ刈らぬ日はなし
旅天歳暮、いつしか引きかへたる式にて、雪月の夜、寒梅に封して偶作、
歳云晩急若吾何 白髪蒼顔愁又加
風雪還如慰旅懐 野梅映月影横斜
◆武蔵・所沢
ところ沢といへる所に遊覧に罷りけるに、福泉といふ山伏、観音寺にてさあえをとり出しけるに、薯芋といへるもの肴にありけるを見て、俳諧、 【所沢市】
野遊びのさかなに山のいもそへて、ほり求めたる野老沢かな
此の所を過ぎて、くめくめ川といふ所侍り。里の家々には井なども侍らで、ただ此の河を汲みて朝夕用ひ侍るとなむ申しければ、 【東村山市久米川】
里人のくめくめ川と夕暮になりなば、水はこほりもぞする
◆武蔵~
ある夜、ちご若衆など、隣国よりしるよしありて訪ひ来り侍りて、酒宴の隙に二十首の歌すすめ侍る中に、
樵路雪
をりたかむ心を賎がたのまずば、拾ふにたへじ。雪のした柴
深夜寒月
更け行けば流れぬよはもなき月のこほれる影ぞ。人頼めなる
惜歳暮
老のかずそはで春まつ身なりせば、何かは年の暮を慕はむ
祈不逢恋
つれなしと人をばなどかゆふしでの我に靡かぬ神や恨みむ
述懐涙
うき身にはともなふ人もうとき世に、忘れず袖をとふ涙かな
ある江山を過ぎ行きけるに、遠村に鐘の響きて、勤の声幽かに聞えければ、
西泊東漂分幾州 天涯流路屡吟遊
踈鐘遥度野村晩 清梵声残江寺秋
閑緒を慰めむがために、夜坐して十五首の歌よみ侍りけるに、
宿鳥驚雪
月にだにおどろく杜の村烏、ねぐらの雪に声さわぐらし
沢畔水鳥
葦鴨の青羽は霜につれなくて、沢べのみくさ、枯れも残らず
契不来恋
契りしも、今はかひなく更け過ぎて、鐘より後は我ぞねをなく
社頭松
すみよしの神代も遠き言のはの尽きせぬ種や、松となるらむ
ある人、旅天の鄙懐を一絶吟し侍るべきよし所望しければ、扇に書きて遣しける、
一別長天西又東 残生蹤跡転飄蓬
傍山臨水労吟歩 詩肺辛酸難得工
これかれ炉下に集りて閑吟のついでに、野径乾草、
かげろふのをのの冬枯、見渡せば、あるかなきかの雪のした草
従門帰恋
うしつらし、真葛にとづる松の門、跡吹きおくる袖のおひかぜ
鶴翔天
沢べより雲ゐにのぼるあしたづの声もしられて、高き空かな
旧里の音信もなきことを述懐して、徒然の余りに、寒梅を尋ねに罷りて、ある夕暮月に乗じて、
冷衣歩月出寒村 幽処探梅風雪昏
郷信不臻春信到 臘前惆悵憶中原
武州大塚といへる所に住み侍りける時、近衛前関白殿下より、初めて御書到来し侍り。これをひらきて、一度は喜び、一たびは恋慕の憂へに沈みて、
従兼君別始看書 異国天涯千里余
忽憶帰期涙先落 待春遊子数居諸
連日雪いたくふり侍りければ、野遊の興さへ叶ひ侍らで、いとど都の事も思ひやりて、
向来投錫掩幽扉 平野陰崖片雪飛
想見旧庭残臘底 記春草木記吾非
越年の式、右にいへる如く、ためしなきありさまどもなり。さるからいとなむこと侍らぬのみ心やすく侍りけり。早梅を翫びて春の至れることを覚え侍るばかりなり。
歳晏無営旅客情 在身寒餓憶華京
柴局半掩夜来雪 一点梅開使我驚
焚火のもとにて、十五首の歌よみ侍りけるに、
疎屋聞霰
ぬる玉はまたもかよはで、終夜、ねやもるあられ、枕もるなり
寄琴恋
ひく琴にわがねをそへてたぐへやる風は、心の松よりぞ吹く
寄夢恋
人しれぬ枕のしたの海河に、かけてかひなき夢のうき橋
浜辺旅泊
夢ぞなきもしほの草の枕より、跡より、波のあらき浜べは
老後懐旧
見し人のなきは、津守のうらめしく残るかひなき老の波かな
ある時、故郷にあまた侍る連枝のことなど思ひやりて、
雲路隔蹤鴻雁行 他郷何耐想家郷
暗香吹断故園雪 唯有梅花似洛陽
春色漸く揺ぎ、いづくも風まづおくれる日、その興多く侍れども、更に詩人墨客の是を賞する類ひ侍らぬことのみ念なくて、
辺塞曾無風騒ノ 窓梅牆柳独其春
為誰黄鳥出幽谷 淑気迎晴一曲新
これも、骨肉のことどもゆかしく思ひやりて、
野水海漂鴻雁影 天風頻動春令枝
暮来其会知帰路 旧里山花落後時
正月朔日試筆の歌、
あづまより今日たつ春は、都にて花さくころぞ、我をまちえむ
今朝雪太降。祝豊年之嘉瑞、裁短冊一章矣。
青陽朔旦日 瑞雪示豊年
料識萬邦土 歎娯正決然
同じき六日、雪聊か降し侍りければ、武蔵野に出でて若菜をもとめて、
武蔵野に今日つむ若菜、行末の限りしられぬよの例かも
此の野より帰るとて、馬上にて、ある同行に申しかけける、
のる駒に武蔵鐙をかけぬれば、流石に名ある野にもなづまず
ある所にまかりて、一両日すみ侍りけるに、山深き所なれば、鴬も花も未だ春をしらざれければ、
寒鴬幽谷棲吾家 一曲朝来出靄霞
簷外厭梅半籬雪 何時乗月見横斜
武蔵野に出でて、酒など飲みて遊びけるに、はじめて雲雀の揚るをみて、
若草の一本ならぬ武蔵のにおつる雲雀も、床まよふらむ
浅ましげなる田夫の屋に、一両日泊り侍りけるに、野嬢草席などいひし姿なりければ、感緒に堪へず、口にまかせける、
吾此幽棲似謫居 従渭城別絶音書
淡雲流水随行処 自■黄梁手煮蔬
旅宿に梅の咲きたりけるを一技手をりてよめる、
梅が香をやどすのみかは、春風の都をうつす袖とこそなれ
鈴寒ことの外に侍りけるあした、鴬のなけるを聞きて、
花ゆゑに谷の戸いでし鴬も、梅も、雪にや冬ごもるらむ
武州に山家の勝地侍り。罷りて十日ばかり逍遥し侍りけるに、ある夜筆にまかせ侍りし、
一旬此地上遊迸 雲水森然山有霊
残夜無眠聴春雨 簫々深院短檠青
次の夜、雨散じて、月いと面白きに、軒近く梅の薫りければ、和漢第三まで独吟、
まくらとふ梅に旅ねの床もなし
月引古郷春
山とほくかすむかたより雪消えて
翌日、雨にふり籠められて、野遊の興も叶ひ侍らざりければ、徒然とながめ暮し、花鴬を友として口すさみける、
旅亭暮雨日如年 回野逍遥絶往還
贏得嘯吟戦間緒 黄鳥交語問詩筵
またの日、雨晴れて雪になりければ、霞立ち消えて余寒甚しく侍りければ、
淡雪のふりさけみれば、天の原、消えて跡なき朝霞かな
十玉が方より、紅梅の色こきをはじめて見せければ、
こころざし深くそめつつながむれば、なほ紅の梅ぞ色そふ
かの老僧扇の賛を所望し侍りき。かの絵に、山路に雲霧を分け侍る行人、橋に行きかかりたる所、
同遊相引歩徐々 靄霧阻山前路処
独木橋辺人不見 松間鐘勤夕陽初
おなじ心を和にて書きそへ侍りける、
山もとの村のタ暮。こととへば、まだ程遠し。入あひの声
野遊のついでに、大石信濃守が館へ招引し侍りて、鞠など興行にて、夜に入りければ、二十首の歌をすすめけるに、
初春霞
かさならぬ春の日数を見せてけり。また一重なる四方の霞は
帰雁幽
霞みつつ、しばし姿はほのみえて、声より消ゆる雁の一つら
浦春月
藻塩やく浦わの煙、つらき名をかすみてかくせ。春のよの月
夢中恋
さめてこそ思ひの種となりにけれ。かりそめぶしの夢の浮橋
後朝恋
かきやりし浜の床の朝ねがみ、思ひのすぢは我ぞまされる
大石信濃守、父の三十三回忌とて、さまざまの追修を致しけるに、聞き及び侍りければ、小経を花の技につけて贈り侍るとて、
散りにしはみそぢ三年の花の春。今日この本に、とふを待つらむ
武蔵野の末に、浜崎といへる里侍り。かしこにまかりて、 【朝霞市浜崎】
武蔵野をわけつつゆけば、浜崎の里とはきけど、立つ波もなし
◆甲斐国
此の程長々住みなれ侍りける旅宿をたちて、甲州へおもむき侍りけるに、坊主のことの外に名残を惜み侍りければ、暫く馬をひかへてよみつかはしける、
旅立ちてすすむる駒のあしなみもなれぬる宿にひく心かな
かくて甲州に到りぬ。岩殿の明神と申して霊社ましましけり。参詣して歌よみて奉りける、
あひ難き此の岩殿の神やしろ。世々に朽ちせぬ契りありとは
猿橋とて、川の底千尋に及び侍る上に、三十余丈の橋を渡して侍りけり。此の橋に種々の説あり。昔猿の渡しけるなど里人の申し侍りき。さる事ありけるにや。信用し難し。此の橋の朽損の時は、いづれに国中の猿飼ども集りて、勧進などして渡し侍るとなむ。然あらば其の由緒も侍ることあり。所から奇妙なる境地なり。
名のみしてさけぶもきかぬ。猿橋の下にこたふる山川の声
同じ心を、あまた詠じ侍りけるに、
谷深きそばの岩ほのさる橋は、人も梢をわたるとぞみる
水の月なほ手にうとき猿橋や、谷は千ひろのかげの川せに
此の所の風景、更に凡景にあらず。頗る神仙逍遥の地とおぼえ侍る。
雲霞漠々渡長梯 四顧山川眼易迷
吟歩誤令疑入峡 渓隈残月断猿啼
同じ国はつかりの里といへる所を過ぎ侍りける折節、帰雁の鳴きけるを聞きて、
今はとて霞をわけてかへるさに、おぼつかなしや。初雁の里
かし尾といへる山寺に一宿し侍りけねば、かの住持のいはく、後の世のため一首を残し侍るべきよし、頻りに申し侍りければ、立ちながら口にまかせて申し遣しける。かし尾と俗語に申し習し侍れども、柏尾山にて侍るとならむ。
蔭頼む岩もと柏。おのづから一よかりねに手折りてぞしく
花蔵坊といへる山伏の所に、十日ばかりとどまりけるに、武田刑部大輔礼に来りき。盃とり出でて、暫く遊覧し侍りければ、愚詠を所望しければ、翌日使をつかはすついでに、
消えのこる雪のしらねを花とみて、かひある山の春の色かな
また此の国の塩の山、さしでの磯とて、並びたる名所侍りければ、
春の色も今一しほの山みれば、日かげさしでの磯ぞかすめる
此の二首を遣し侍りき。其の後さしでの磯にて鴬を聞きてよめる。
はる日影さして急ぐか。しほの山。たるひとけてや、鴬のなく
宿坊の軒に梅いと面白く咲き薫りて、月影朧なる夜もすがら、かりねの夢も忘れはてて、
梅かをり、月かすむ夜の旅まくら、夢に都をなにか忍ばむ
武田が館に梅あまた侍り。宿所へのことは憚りありとて、祖母の比丘尼の寺へ招引し侍りて、さまざまの風情をこらし侍りき。此のあたりに菊島といへる名所侍り。一首所望し侍りしかば、
吹き匂ふ花の春風うらやみて、秋をよそにもきくかしまかな
今日のみちに、笛吹川といへる川侍り。馬上にてよめる、
春風に岸なる竹も音そへぬ。ふえふき川の波のしらべに
同じつづきに、花鳥の里といへる所を過ぎ侍るとて、
色にそみ、声にめでつつ、やすらひて永き日暮す。花鳥の里
是より七覚山といへる霊地に登山す。衆徒山伏両庭歴々と住める所なり。暁更に至る迄、管絃酒宴興を尽し侍りき。宿坊の花やうやう吹き初めけるを見て、
蕾技の花も折りしる此の山に、七のさとり、ひらきてしがな
翌日、此の山を出でて、同じ国吉田といふ所に到る。富士の麓にて侍りけり。今夜は二月十五日、いとかすみて、富士の嶺さだかならざりければ、
きさらぎや、こよひの月の影ながら富士も霞に雲隠れして
かた柳といへる所をとほるとて、
一しほのみどりになびく糸はけに、春のくるてふかた柳かな
道すがら故郷の花を思ひやりて、
東路の春をしたはば、故郷の花は我をや恨みはてまし
すくもの渡りといへる所を行き侍りける。朝霞いと深く靡きあへるを見て、
里人の夜半にたく火の煙かと、すくもの渡り、今朝かすみつつ
◆上野国・下野国
三月二日、とね川、青柳、さぬきの庄、館林、ちづか、うへのの宿などうち過ぎて、佐野にてよめる、 【館林、館林市千塚町、佐野市植野町】
古への跡をばとほくへだてきて、霞かかれるさのの舟橋
字津宮慈心院といへる聖道所に、花あまた侍り。人々誘ひ侍りければ、社参のついでに門外までみやり侍りけり。いと尋常なるすまひにて侍り。児などのはづれみえければ、ゆかしくおぼえて、帰りていひつかはしける、
立ちよりてみる程もなき木のもとの心にかかる花の白雪
此のあたりの人、百韻興待して、社頭に奉納すべき宿願ありて、発句を乞ひ侍りければ、
ちらぬまはあらしや花の宮木もり
うつの宮を立ちて行く道に、塩のやといへる所侍り。暮れ行くままに、里々の煙立つを見て、 【宇都宮】
旅衣うらぶれて行くしほのやに煙さびしき夕がすみかな
狐川といへる里に行暮れてよめる、
里人のともす火かげもくるる夜に、よそめあやしき狐川かな
朽木の柳といへる所に到る。古への柳は朽ちはてて、その跡にうゑつぎたるさへ、また苔に埋れて朽ちにければ、
みちのくの朽木の柳、糸たえて苔の衣にみどりをぞかる
(*)大石信濃守と道興『廻国雑記』(ウィッキ)
大石氏は武蔵国人で山内上杉家の有力宿老の一つ。代々上杉氏重臣として武蔵守護代を任されていた。
応仁元年(1467年)、大石憲儀の庶子として誕生。遠江守家4代目は伯父・源左衛門尉で、源左衛門尉は文明9年(1477年)5月8日の武蔵針谷原合戦において戦死している。
定重の初見史料は道興『廻国雑記』で、長享元年(1487年)に亡父の三十三回忌を供養した「大石信濃守」として登場する。「信濃守」の受領名は遠江守家の歴代には見られず、定重が庶子であるためと考えられている。
万里集九『梅花無尽蔵』では、同年に集九に対して亭名「万秀斎」を求めた「武蔵目代大石定重」として登場し、この時点で家督を継承し武蔵守護代に就き、「定重」を名乗っていたことが確認される。「定」の一字は上杉顕定からの偏諱であると考えられている。
永正7年(1510年)6月、上田政盛が権現山城で挙兵した際には、上杉憲房・上杉朝良軍として成田顕泰・長尾氏と共に参加し、援軍の伊勢宗瑞(北条早雲)を撃退し乱を平定した。大石顕重の代より高月城を本拠地に構えていたが、後北条氏の勢力が武蔵まで拡大し高月城では防備に不安があるとして、永正18年(1521年)、定重は高月城の北東1.5kmに滝山城を築城、本拠を移した(ただし、滝山城の築城を永禄年間とする有力な新説[3]がある)。
大永7年(1527年)、死去。
二 大石信濃守と観応の擾乱(南一揆との関係)
永山諏訪神社(東京都多摩市諏訪1丁目)。
永山諏訪神社は、室町時代に武蔵国守護代で由井城主の大石信濃守顕重(おおいし しなののかみ あきしげ)が諏訪大社(長野県諏訪市・茅野市・下諏訪町)を勧請し、大風除けの守護神として崇敬されたと伝わります。
永山駅周辺は由井領(国衆大石氏の領国)に含まれ、戦国時代の1559(永禄2)年11月には、北条氏照(北条氏康三男)が養子縁組の形で大石氏の家督を譲られ、氏照の奉行人として付けられた家老の狩野泰光(かのうやすみつ)らが由井領の支配を行いました。その後、大石氏の被官は北条氏照の軍団に編入され、1590(天正18)年7月24日の八王子城合戦で北条氏と運命を共にしています。
永山諏訪神社は、江戸時代には連光村の真言宗豊山派寺院の医王山 薬王寺(東京都多摩市諏訪3丁目、現在は廃寺)が別当寺として祭祀を司りました。
大石信濃守:
「高月城」山岳信仰と高月城
享徳3年(1454)、鎌倉の公方であった足利成氏(しげうじ)は、関東管領(本来は公方の補佐役)の上杉憲忠を鎌倉の成氏屋敷に呼び出され、殺害されてしまった。これによって足利氏と上杉氏との対立抗争は本格的に発展した(享徳の乱)。幕府(京)は、今川範忠を成氏討伐に派遣。もともと京の幕府と鎌倉府は対立関係にあって上杉氏を後押ししていた。成氏は鎌倉御所から江ノ島に移り、さらに、下総(茨城県)の古河に拠点を移した。このため、成氏のことを古河公方とも呼ぶ。上杉方は五十子(いか大岳山こ埼玉県)に陣を構え、利根川を挟んで公方と上杉氏はにらみ合いの形となった。この対立によって上杉配下にあった武蔵地方では盛んに城郭構築が行われた。北武蔵の名城と言われるような城もその多くは、この時期と重なるようである。
「大石系図」には、長禄2年(1458)3月1811、高月に移り居住したとある。どこからか移ってきたのかは記されていない。大石顕重(あきしげ)が高月城を築いたとされる長禄2年の頃は、両上杉氏が勢力争いを演じている時期だった。扇谷上杉氏の重臣だった太田道灌は、勢いを増して川越城(埼玉叫)を強化していた。山内上杉氏もこれに連動するかのように、配下の大石氏に対しても高月城の構築を命じたものと思われる。
高月の地が選ばれた理由は、鎌食道の渡河地点にあったことが上げられる。秋川を渡河すると、二宮から青梅に至り、さらに、秋父方皆野から上州(群馬県)に細く脇往還道が存在していた。上州の白井城(北群馬郡)は山内上杉氏の本拠地であり、そこは越後方面と武蔵方面をつなぐ要衝でもあった。鎌倉道は高月城と白井城とを結ぶ役日を果たしていた。
高月城にはもともと御岳神社があり、滝山城を築くときに移したという伝承がある。『風土記』
の記述なので何ともいえないが、大石氏が山岳信仰と深く関わっていたことは確かである。
同じ大石氏の城であった埼玉県志木の引又城は十玉坊があり、また浄福寺城には千手観音が祀られている。さらに、大石氏は修験の名家とも婚因関係を結んでいたし、定久(道俊か)の法名は英
厳道俊で、金峰山永林寺本願となっている。金峰山は吉野金峰山のことであり、御岳蔵王権現信
仰はここからきていた。
その大石氏と山岳信仰の深い関係を継承したのが氏照ということになる。氏照がやってくる以
前から、大石領は山岳信仰関係一色だった。地域に古くから定着していた信仰を氏照が継承して
いくのは在地支配において当然のことだった。
文明18年(1486)、山岳信仰の総本山、京都護院門跡道興准后は、修験に関わる盟地や館を訪ね廻っていた。このとき、大石信濃守の屋敷を訪ねたというのである。『風上記』などの地誌類は、その屋敷が高月城だったと言い伝えてきた。しかし、これには諸説があって断言できないが、高月城も山岳信仰と深く関わっていたことは確かである。
高月城は秋川に対して、舌状のごとく張り出していて、秋川の流れを大きく変えている。ちょうどその場が広い湖のような景観になる。ここを「秋之洲」と呼んでいるのも頷ける。そして、湖状態の天空に眺糾するのが大岳山である。大岳山は御岳山の奥の院とも言われ、やはり、山岳信仰の聖山だった。高月城以前にはこの地に修験坊があったという言い伝えがあるが、景観を考慮すれば山岳信仰の聖山を遥拝する地として、それも自然な事だったと思われる。
「高月城下集落」
鎌倉道(脇往還道)は城下中里の中央を通って秋川に向かう。「里」はもともと多くの人たちが寄り集まっている集落を意味する。渡河地点の中里集落が城下集落である根小屋に相当する。家臣たちの中には屋敷地を与えられ、常駐していた者もいただろう。『土地法典』を参考にすると、中里集落にはブロック状地割りが多く、道筋も地元の歴史研究家沢井栄氏が指摘されたように、カネ折れ(直角になった道)がいくつか認められ(広報「加住」19号)、城と同様に防衛機能を備えた空間だったようだ。ここは滝山城の内宿に相当し、城と一体化した家臣居住区である。
一方、土地法典を見る限りでは、高月城下には短冊型地割りらしきものは認められない。この
ことから、外宿としての商業的な町場を求めるとすれば、鎌倉道と南北につながっていた秋川対
岸の二宮の地ではなかろうか。二宮は、二宮明神の門前として古くから発展していた町場だった。現在、鎌倉道は、円通寺の前で大きく方向を変え、やがて中里の中央を通って渡河地点へと向かう。中里の中央に正八幡宮(八幡神社)があり、高月村の村社となっている。地誌類は、この宮にかつては大きな槻の木があり、そこから高い槻、高槻(たかつき)になったとしている。しかし、円通寺の造営のときに槻は伐採して本堂、庫裡(くり)の川材にしたという。八幡宮の社内には板碑があり、板碑の上部には弥陀の梵字、その下に貞和5年(l349)と刻まれ、弥陀八幡を祀り本地として碑石を造立したと伝えている。円通寺は観音院とも称することから、山岳信仰と深い関わりがある寺院であったことがわかる。寺には人石氏奉納の木面三つがあったそうだ。また、境内の墳墓にも古碑があって元弘2年(1332)の銘が記されていたという。
高月城はこれだけでは終わらない。殿沢(大火殿沢)を越えた南方の蜂も無視できないのである。というのは、殿沢には明らかに人工の土塁が残っていて、南方の峰に行く虎口(出人り口)を形成していた。つまり、南方の峰も城郭の一部だったのである。視在そこの一部は工場の敷地になっているが、高槻城を見下ろす高台になっている。高月城でもっとも安全な場所が南側の蜂だった。領主はこうした安全性の闘い空間は避難場所として聞放していただろう。峰は平坦になっていて土塁とか堀といったものは何もないが、高月城の裏側という安令性に恵まれている。現在、殿沢は残土堆積地と化し、当時の景観は全く失われている。かつては殿沢からも水が流れ、その一部は溝になっていた。高月城も避難場所や水源の確保といった公的な空間が、私的空問の中に併存していた。
行尊、大僧正
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