あふれすぎな社会
就活を済ませたこの時期、同時に学業も終わりを迎えようとしている。
こんな節目の時期に私は、少し視野が広くなって、自分の小ささと自分を取り巻く社会の仕組みが気になる。
自分はこの社会の中でどんな役割を持っていて、どう生きていくべきかと。
最近読んだ本には、「供給が需要に先行している」と書かれていた。
私たちは、私たちが欲しいものを買うのではない。
生産者が作り出した”私たちが欲しいもの”を買うのだ、と。
つまり欲しいと思ったものは本当に自分が欲しいものではなく、欲しいと思わされているということだ。
この考察に私はハッとした。
現代では、食べ物に困ったりすることも少なく、誰かとすぐに意見交換もできる。
しかしながらそれらは需要に対しピッタリの量供給されているわけではない。余りが必ず出ている。
コンビニの弁当などは一番わかりやすい。
レジでスキャンされると賞味期限が5分切れているがために廃棄される。
こちらがすぐ食べるからいいと言っても店員は決まって「規則ですので」と言って売ってくれない。
おにぎりを買うにしても、数多くの具材が用意されている。
コンビニなのに塩結び一択ということはまずなくなった。
2、3種類ならばおそらくそこまで悩まずに決められるだろうし、みんなそれらを買うしかないのだから、売れ残りも減るだろう。
こんな悩みができるのも、この便利で豊かな国や社会の中にいるからであって、決して不満を言っているのではない。もちろん感謝している。
しかし、冷静に考えて、そこまで必要なのか。
慎ましくというと説教臭いが、ものを大切にするとか、食べ物を粗末にしないということを考えると、この大量生産の社会には甚だ疑問が残る。
競合他社との売上レースに勝つためにいつでも品切れを起こさない努力をするがあまり、道徳心に欠けるところはないだろうか。
食べ物だけではない。アーツアンドクラフツ運動のような製品が今は売れない。
規格化され、どこでも同じものが手に入るものが圧倒的に多い。
私たち消費者にも責任がないとは言えなそうだ。