創作におけるジャッジとモノサシの話
前の記事が読まれていたので、創作における上流工程(体制づくり/ビジョン共有)とはなんなのか、自分の考えているところを語ってみる。
ジャッジする人、される人
作家の仕事って、ジャッジされることの連続である。
まずは公募でジャッジされて、企画を提出してジャッジされて、プロットを提出してジャッジされて、本文を提出してジャッジされて、出版したあとは売上でジャッジされて、書評でジャッジされて……と、ジャッジされまくる。
そこをすんなり抜けられるといいんだけども、抜けられずにジャッジされるループを延々繰り返していくと、どうなるかというと。
自分の物差しではなくて、ジャッジする人のモノサシに沿って、考えるようになっていくんだよね。
それで、表面だけ合わせたものを考えるようになって、いい部分を見失って迷走していくのは、新人作家の風物詩みたいになっている。
僕にも経験がある。
ジャッジする人のモノサシに沿って考えるようになって……正確には、モノサシに沿って考えているように見えないようにモノサシに沿って考えるようになって……評価してもらえるようになったはいいけど、さっぱり書くモチベーションが湧かなくなってしまった。
これは、結局さ。
ジャッジする/されるという関係構築しかできていないから、そうなっちまうんじゃねえかな…と思って。
創作における上流工程というのは、その、ジャッジをするときに測るモノサシを、自分たち自身で作っておくこと、なんじゃないかと思って。
モノサシづくり
ジャッジする/されるときに、人が使うものは自分のモノサシだ。
「企画」とか「プロット」とか「本文」とか、作家がそうした形あるものを提出すると、それに対して編集者は自分のモノサシを使って、なんらかの判断を下そうとしてくれる。
そのモノサシは、とっても頼りになるものなんだけど…やっぱりはじめは、「他人のモノサシ」ではあるんだよな。
僕はその、他人のモノサシで測られる!っていう感覚が苦手で。
先生を前にしてビシッと背筋がのびてしまうあの感じ。発想が萎んでいってしまうのだ。
体制づくり/ビジョン共有っていうのは、そうしたジャッジを下す前に、ジャッジするときにどういうモノサシを使うかを、あらかじめ話し合って決めておくことだ。
それは、「何をしたいのか?」「何が好きか?」「なにが面白いと思うのか?」ということを話しあって、個人や組織の求めるところと、うまく噛み合うところを探った上で、「じゃあ、こっちの方向に行くのが自分たちのゴール。なので、こうなっていればOK、そうでなければNGだよ」という決定を下すことである。
それが、作品のクオリティや商業性の判断などをするときの、モノサシとなる。
これはもう、「他人のモノサシ」ではなくて、「自分たちで作ったモノサシ」なので、ダメ出しとか改稿とかが苦にならなくなる。納得感やモチベーションがちがってくるんだよな。
上流工程の握り方をする人の仕事のやり方を見ていて、なるほど、そうやって人を動かすんだ、と感心してしまったりして。
面白ければなんでもいい?
公募とかでよく「面白ければなんでもいい」ってフレーズを聞く。
これは、方向性を示すスローガンとしてはそのとおりだと思うんだけど、現実的な実務としては違うよなぁと僕は思っている。
「面白い」っていうのは、結局は、個々人の好みに属する話だからだ。好みという言葉で語弊があれば、その人の辿ってきた道筋からくるモノの見方の集積、だよな、と。自分も含めて人はみんな、その人の辿ってきた経験からくる主観で物事を判断する。
どこまでいっても、「それってあなたの感想ですよね?」ではあって。
昔は、「どんなに頑張っても結局は、他人の好みで決まるんやんけー!」と、マイナスに捉えていたんだけど。
それってやっぱり、ジャッジする/されるという関係構築しかできていないからなんだろうなぁ、というのはあって。
そこがうまく回ると、逆に、「この人はこういうのが好きなんだよな~」って楽しんで書いて、喜んでもらえると素直に嬉しかったりする。
それって、創作のすごく基本的かつ、核となるところだよなぁと。
なんだろう。土壌の問題なんだろうか。
上流で握る仕事っていうのは、そういう、下地を固めるタイプのやり方なんだろうなと。
新人のころに何人か、上流を握るタイプの人と仕事してみて、そうした「場の温め方」とか「土壌の耕し方」みたいなものって、大事なんだな…と思うようになった。
自分はそれまで「こういうのを書きたい」って気持ちばかりで、人を見ていなさすぎたな…と反省したのだよね。
とはいえ、これはやっぱり上流で握るタイプの人とやるときの仕事の仕方ではあって、そうでない人に押し付けるようなものでもないよなあ、と最近は思っている。
時間もかかるし、互いに気持ちに余裕がないとうまくいかないんだよね。個人によって組織によって、いろいろあるしなあ…。
それはやり方の一つとして、また別のやり方も模索してみたいところ。
どこかキリのいいところで、自分の仕事のやり方を棚卸ししたいなーと思っているんだけど、なかなか余裕がない。来年に期待である。