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自由な人間はどのように社会を構成するのか(Futurist note第3回)


イントロダクション

こんにちは、VARIETASのFuturistのRentaです! VARIETASは、構造的な問題によ って発生するひとりひとりを取り巻く摩擦(=フリクション)がゼロな社会(=Friction0)を実現することを目指すスタートアップ企業です。Futuristとは、目指すべき未来像を示す未来学者です。

初回のnoteで告知した通り、Futuristは「実現したい未来像」として「自由」を掲げています。そして、自由が実現される社会制度として「平等フィット」がどんなものなのか、このnoteで考察していきます。
ちなみに、平等フィットとは個性学の権威であるトッド・ローズ教授が提唱したものです。具体的には、

「平等なフィット」のもとでは、誰もがその個性に応じた最高の機会を受け取ることができる。(太字は原文ママ)1)

とされています。しかし、平等フィットは現代社会では実装されていません。そのためにFutrist noteで考察していきます。
具体的には以下のスケジュールで進めています。

  • 2023年10月 人間の本質は自然法則からの自由であり、それは社会の構成によって為される

  • 11月 自由な人間はどのように社会を構成するか

  • 12月人間の本質は自由であるにも関わらず、社会的抑圧が確認されている。それはどんなものか

  • 2024年1月 人間の本質は自由であるのに、社会的抑圧が起きてしまうのはなぜか

  • 2月 「何の平等」が平等フィットに大事なのか

  • 3月 就活への提言1(就活共通テストについて)

  • 4月 就活への提言2

  • 5月 Futuristの視点でダークホースを読み直す

Futuristとは何者なのか、どうしてこのようなスケジュールで連載するのかは、初回のnoteで詳しく書いておりますので、こちらもぜひお読みください!

上のスケジュールの通り、今回は「自由な人間はどのように社会を構成するか」ということです。

前回のnoteにおいて、「人間の本質は自然法則からの自由であり、それは社会の構成によって為される」ということを述べました。ここで自然とは生物としての本能と気候や海・山などの自然そのものを指します。
例えば、生物としての本能である食欲に反してダイエットや宗教上の慣習のために断食を行ったり、人口肥料を発明することで大規模な人口を維持することに成功したりしています。

そして、それは人間が社会を構成することによって可能になっているということです。社会が人間の選好をある程度決めているため、時には本能に反する行動を行ったり脳が処理できる人数を越えた協業が可能になっているからです。

自由をもう少し詳細に定義すると、当然人間は依然として生物なので、生物学的な制限や天災によるアクシデントは存在しています。しかし、制限がある中でも主体的に選択出来ている時は自由を感じるでしょう。ですので、「自由とは色んな制限の中で、成就したい欲望を選択し、そこに向かって実現可能なアクションを取れることだ」と定義したのが、前回のnoteの議論でした。

前回のnoteを受けて起こる疑問として「なぜ人間の本質は自由であるにも関わらず、社会的抑圧が確認されているのか?」というものがあります。社会的抑圧の例としては、差別や偏見によって個人の欲望が制限されてしまうことがあります。今回のnoteはこの問いに答えるための準備作業です。人間がどのように社会を構成するのかを、アメリカの社会学者であるバーガー&ルックマン著『現実の社会的構成』(原題Social Construction of Reality)をもとにして考察します。

『現実の社会的構成』に沿って、人間はどのように社会を構成するのかを追跡する

『現実の社会的構成』の位置づけ

バーガーとルックマンは自らの学問を「知識社会学」としました。

現実は、人間が解釈したり、意味を付与したりしなければ、現実にならない。ということは、社会的現実とは、人間の知識に媒介された構築物だということになります。このような現実の理解に立脚しているのが、バーガーとルックマンの「知識社会学」です。2)

ちなみに、ここで知識とされているのはイデオロギーや思想だけでなく、常識なども含みます。自転車の乗り方やテーブルマナー、行政手続きなども知識とされています。3)

このような知識の集まりが、私たちが生きている世界を形成しており、それは人間の主体的な解釈や行為によって成り立っているということです。
補足として、バーガーとルックマンの時代の社会学の潮流を簡単に表した図を添付します。彼らの位置づけがよくわかるはずです。


20世紀社会学の潮流

バーガーとルックマンの立場はFuturistの立場に似ています。というのも、Futuristも社会が所与というわけではなく、人間が構成するものであると考えているからです。

また、バーガーとルックマンの『現実の社会的構成』では、社会の生成過程や社会秩序がいかにして維持されるかも論じられています。
そのため、Futuristの今後の問に回答するためにも有効な議論だと考えました。

人間はどのように社会を構成するのか

『現実の社会的構成』そのタイトル説明

では、『現実の社会的構成』の内容に入っていきましょう。
『現実の社会的構成』の主張は以下のようにまとめられています。

現実は社会的に構成されており、知識社会学はこの構成が行われる過程を追跡しなければならない。4)1

キーワードである現実と知識について整理しておきましょう。

<現実>とは、われわれ自身の意志から独立した一つの存在をもつと認められる現象(われわれは<それらを勝手に抹消してしまう>ことはできない)に属する一つの性格として、そしてまた<知識>とは現象が現実的なものであり、それらが特殊な性格をそなえたものである、ということの確証として、定義しておくだけで十分であろう。5)1

ここでは、現象とは日常生活の中で起こる事象や事柄という意味です。
たとえば、私たちが「これが現実だ」という言葉を使う時、現実は「如何ともしがたい現状」のようなニュアンスで使います。バーガーとルックマンが言う現実は、このニュアンスに近いです。つまり、私たちの意志から独立しているということです。

そして、「知識」とは、日常生活の中で起こる事象や事柄(現象)が現実的(つまり自分の意志では動かしづらい)で、それらが特別な特性を持っているという理解のことを指します。

好例として、言語学習が挙げられます。言語は、日常的に聞いていること・話していることで、文法と言う規則に従うしかないので現実的(意志から独立している)です。
ここで言われているのは、「社会は自分たちで作るものだと言われるけど、そうはいってもその社会が押しも押されもしない」という感覚のことです。バーガーとルックマンはその感覚を説明するために、社会の生成過程を考察します。

社会の生成過程

前提条件:人間には本能がないので、代わりに社会を作る
バーガーとルックマンは社会の生成過程を追う際に、人間とは何か考えました。

バーガーとルックマンによると、人間の動物界における特異な特徴として、環境に縛られないという点があります。言い換えると、人間が自身の行動を選択し、自身の生活を創造する能力を意味します。
つまり、人間には本能によって定められた居住に適切な環境や生存戦略が存在しません。
なぜそのようなことが可能なのかでしょうか。

人間の本能的構造は他の高等哺乳類動物のそれと比べると、むしろ発達が遅れているといえるのかもしれない。もちろん、人間も本能的欲求をもってはいる。しかし、これら諸々の欲求はその分化が極めて遅れており、しかも方向性を欠いている。6)75

人間は、生まれたときにはまだ成熟していないため、本能的に行動することが難しいようです。そもそも行動を規定する本能が未発達だからです。
このように本能によって規定される行動が少ないからこそ、未熟児のうちに外部環境に柔軟に適応することができるのが人間の特徴となります。
とはいえ、個々の人が自然環境に適応するためには、社会的な環境が必要です。

例えば、極寒の地に突然放り出された赤ん坊が自力で適応することは不可能です。その赤ん坊が極寒の地に生き抜くためには、その地域の文化に参加し、そこで既に培われている知識や技術を学ぶことが最も効率的です。具体的には、

  • 狩猟の技術を学ぶ

  • 忍耐力を身につける

  • 動物の体を最大限に利用する方法を習得する

などが挙げられます。これらはすべて、社会的な環境から学ぶことができる知識や技術です。
人間は本能によって定められた行動を持たないため、環境に柔軟に適応することが出来ます。その結果、様々な環境に適応した多様な文化が誕生します。

社会ー文化的形成物の可変性を決定する生物学的に固定した土台、という意味での人間性などというものは存在しない、ということだ。そこにあるのは人間の社会ー文化的形成物を限界づけ、かつまたそれらを可能にする、人間学的変数(たとえば本能的構造の世界開放性と柔軟性)という意味での人間性だけである。7)76-77

ここまでをまとめれば、人間は自然環境に対して適応していくために社会的環境に入る必要があるということです。

ちなみに、人間は社会秩序を作ることが出来なかったらどうなってしまうのでしょうか?その答えは、カオスです。
以下の引用で、安定性とはパターンやルーティンのことを指します。

人間の身体は人間の行動に安定性をもたらすのに必要な生物学的手段を欠いている。人間の存在は、もしそれが身体的資質によって身体的資質のもとに投げ返されたならば、ある種の無秩序のなかでの存在になるであろう。8)80

つまり社会秩序がない場合、人間は出来ることが多すぎて却って何をすればいいかわからなくなる、ということが起こります。確かに選択肢の多さに不安に感じる人もいるでしょう。

上記のような生物学的条件が、人間に社会秩序を作ることを要請します。

人間は自分自身で自らの衝動を特定化し、それに方向づけを与えなければならない。こうした生物学的な諸事実は、社会秩序の創造にとって必要不可欠な前提条件として作用する。9)82

社会秩序はどのように作られるか?

制度の始まりとしての習慣と、習慣と制度の差異
この節の内容をまとめると、「社会秩序は制度によって成り立っており、制度は習慣に歴史性と統制性が付与されたことである」ということです。

  • 社会秩序=制度の集まり

  • 制度=習慣に統制性と歴史性が付け加わったもの

  • 習慣=行為の反復、ルーティン

バーガーとルックマンが考える習慣とは、ルーティンのことを指しています。 ルーティンは一度為されると、次回からはほとんど思考することなく行うことができます。ルーティンなので、やり方が決まっているからです。10)

どんな行為も反復される傾向にあり、反復が繰り返されるとルーティン化されます。ルーティンになると、二つの意味で負担が減ります。まず、ルーティンはやり方が決まっているので、一度身に付ければ反復が容易であること。次に、ルーティンは、ルーティンが行われる環境も往々にして考慮されています(緊張したら人の字を書いて飲み込む、と言う風に)。条件が決まっているので、意思決定の負担も減らすことができます。11)

極論を言ってしまえば、習慣自体は無人島に流れ着いた個人でも成り立ちます。生き延びるために必要な食料を獲るためには何時にどこで待ち伏せればいいのか、火を起こすための方法は何かなどなどと、1人で生きていくためにも習慣化は欠かせません。

つまり、習慣はそれだけでは制度や社会秩序とは関係ありません。
それでは、習慣と制度の違いは何なのでしょうか。それは行為と行為者が相互に類型化されることです。

制度は2人以上で生活を共にする時に発生します。
制度化とは、特定の行動が繰り返されて一般化し、その行動が特定のタイプの人々によって行われると認識されるようになる現象を指します。そして、制度そのものが個々の行動や行動者を類型化します。つまり、制度は、「Xというタイプの行動はXというタイプの行動者によって行われる」という前提を持つことを意味します。12)

例えば、消火活動(特定の行動)を行うのは消防士(特定の行動に対応する行動者)であり、社会全体がそのことを認識しているような状態を制度化と呼びます。

このようなあらかじめ規定されたさまざまな行動範型を提示することによって人間の行動を規定する制度の性質を統制性と言います。13)

また、制度は歴史性を持っています。言い換えれば、習慣のように個人がその場の思い付きで変えられるものではないということです。

制度は常に歴史をもっており、それらは歴史の産物なのである。制度はそれが生み出された歴史的過程を理解することなしには、正しく理解することはできない。14)

習慣は個人的なものなのでいつ・誰がどのように始めても差し支えありません。習慣と制度の違いは習慣と慣習の違いという風に言い換えることができます。

制度の発生過程

社会秩序の発生過程を追うため、歴史的に何の文脈もないAとBを考えてみましょう。歴史的に何の文脈もないので、ふたりのあいだに制度は発生していません。
AとBが相互関係に入った途端、お互いの類型化が始まります。以前見た通り、個人は1人で過ごしていたとしてもルーティンを持っています。だから、お互いの行為に動機を認め、それが繰り返されるのを見ることになります。となると、「ああ、相手がまたあの行動をしているな」という観測が可能になる。

このことの効果は以下です。

最も重要な成果は、それぞれが相手方の行為を予測できるようになるであろう、ということだ。これと平行して、両者の相互作用が予測可能なものとなる。<またやっているな>は<われわれはまたやっている>となる。こうした予測可能性は両者をかなりの程度の緊張から解放する。15)88

ここではまだ制度は発生していません。
というのも、AとBの行動と行動者には統制性はある程度付与されているが、それらの行動はAとBが自発的に始めたものなので、歴史性を獲得していないからです。

ではいつ制度が発生するのかというと、例えばABが子供を持っていた場合です。子供にとっては、制度は自分たちで作った意識がなく、はじめからあった世界という感覚です。実際にそのように振舞ったり反抗したりします。そんな子供を見て「これがしきたりだ」と言い聞かせることを通して、親であるAとBもこの世界が強固なものだという認識になっていきます。16)

子どもたちにとっては、両親から受け継いだこの世界は完全には透明なものではなくなっている。この世界を形成することになんら参加してきていない以上、それは彼らにとってはあたかも自然のように、少なくともその位置づけが不透明な、一つの与えられた現実としてあらわれる。17)

バーガーとルックマンは言及していませんが、子どもだけでなく新参者であるCがAとBが形成していた習慣に参入した時も同じことが起こるはずです。
つまり、習慣は新参者が既存の人間関係に参入した時に歴史性を帯びて制度になると考えることができます。

社会化を促す具体的な装置

こうして社会には新参者をうまく取り込み、秩序を維持するための装置が組み込まれています。
これは社会化の装置と言い換えることもできます。
そもそも社会の維持が困難になる状況とは、具体的には以下のような時です。

  1. 社会の構成員から社会秩序に対して異議が申し立てられた時

  2. 外部の社会秩序の情報が入ってきて、現在の社会秩序が絶対的なものではないとされたとき

これらの状況は、明治維新を例に挙げると理解しやすいでしょう。
明治維新の時代、日本は初めて近代社会というものを知りました。これはロシアやイギリスからの圧力やアメリカのペリー提督の来航によるものでした。それと同時に、薩摩藩や長州藩が幕藩体制に反抗し、天皇を中心とした中央集権体制の国民国家という新しい社会秩序を作り上げました。
しかし、このような社会秩序の変革は必ずしもスムーズに進むわけではありません。明治維新が西南戦争や戊辰戦争で血が流れることを避けられなかったように、社会秩序の変革には混乱が伴います。それは人間が社会無しではどのような行動を取ればいいのか分からない不安から来るものです。新たな社会秩序を作ることが決まっていたとしても、過渡期の不安は避けられません。そのため、抵抗することは当然あり得ます。

しかし、明治維新を成し遂げた高杉晋作や大久保利通・伊藤博文などの偉人たちを見ていると、変革に抵抗した者たちこそが常識人であった可能性があります。しかし、アジアにおいて近代化に成功した国家がほとんどいないことが示すように、社会秩序はそう簡単には崩れません。社会秩序を維持するための装置が存在するからです。それは一般的に「治療」と「無効化」です。

「治療」とは、実際または潜在的な逸脱者が制度化された現実定義の枠内に留まることを確保するための概念機構の適用です。具体的には、「この行動は常識外れだ」とレッテルを貼り、逸脱行動を説明する様式を提供し、規範に従えるよう処方箋や治療方法も提供します。18)

一方、「無効化」は社会的に構成された世界に合致しない現象やその説明を否定することです。具体的には、「存在論的否定」と「否定的対象の象徴的世界の理論による説明」の二つの方法があります。「存在論的否定」では逸脱行動を単純に否定し見下します。「否定的対象の象徴的世界の理論による説明」では逸脱も社会秩序の1パターンとして位置づけます。19)

「治療」と「存在論的否定」は似てしますが、前者は逸脱行動を「正しい」行動に向かわせる手立てであるのに対して、後者は逸脱行動にネガティブな印象を与え、社会の構成員が逸脱行動に走ることを防ぐ、という違いがあります。

「否定的対象の象徴的世界の理論による説明」がこれだけだと難しいので、祝祭を具体例にして考えてみましょう。
祝祭は、通常の社会秩序から一時的に逸脱する行為や行事を許容する特別な時間と空間です。例えば、カーニバルやお祭りでは、通常は許されないような振る舞い(大声で歌う、踊る、仮装するなど)が許容されます。これらの行為は通常の社会秩序から見れば逸脱行為とも言えますが、祝祭という特別な文脈では許容され、楽しまれます。

このように、「否定的対象の象徴的世界の理論による説明」を用いると、逸脱行為も社会秩序の一部として理解できます。それは社会秩序が全体として機能し、維持されていくための重要な要素であり、その存在が社会秩序を強化し、安定させる役割を果たします。つまり、祝祭は一見すると社会秩序からの逸脱に見えますが、「否定的対象の象徴的世界の理論による説明」を通じて見れば、それ自体が社会秩序を維持し強化する一部と捉えることができます。

以上によって、社会秩序はそれを脅かす逸脱的な行動を抑え込むようになっています。

『現実の社会的構成』への批判と擁護

ここからは『現実の社会的構成』の問題点を指摘し、その改善点や擁護を提示します。このことで、今後のFuturistの考察に役立てるためです。

批判

特にバーガーの来歴に即して『現実の社会的構成』の批判を行うと以下のようになります。

バーガーは自らの初期的取り組みにおいて,当時の理論的パラダイムである機能主義理論に対抗すべく,人間の主体的側面に注目した社会学を構想していた。しかしその後に発表される彼の現実構成論は,必ずしも人間の主体性や社会の動的側面を十分に捉えうる社会理論となり得ていない。20)

つまり、社会システム論の客観的な説明に抗して、人間の主体性から社会を説明しようとしていたのです。
実際に、バーガーは『社会学への招待』という本で以下のような主張を行っていました。

バーガーは『招待』の中で,社会の中に生きる人間の諸規定が社会的に形成されたものであることを確認しつつも,なおかつそのような世界―内―存在としての人間がいかにして社会に働きかけ,その変動に積極的に関わっていく存在となりうるかついて論じている21)

しかし『現実の社会的構成』での議論は、個人が社会の規範や価値観を、同化によって内在化することが語られています。これによって社会秩序の維持が可能になります。具体的な装置としては治療や無効化があります。

しかし、このような立論では個人と社会との間に矛盾を想定することができず,新たな有意味的行為そのものが構想できなくなってしまいます。個人が社会とまったく同じであるのならば、個人が社会に働きかけていく運動は起きようがないからです。

擁護

上記の批判から『現実の社会的構成』を擁護するには、個人の内側では社会と同化するプロセス(内在化)が起きているけれども、同時に社会から逸脱するようなものが発生することを主張すればよいことになります。

まず、バーガーはそもそも人間の意識には社会化される部分と社会化されない部分があるとしました。言い換えれば、個人が社会に完全に同化することはまず起こりません。
ここに、社会に同化した部分と同化していない部分の対立が個人の内部に現れます。このことによって、人間は以下のような主体化のプロセスをスタートすることができます。

このような意識内での緊張関係がたとえ十全なかたちで認知できなくとも,個人のなかでなにがしかの違和感として知覚されることはあるのであり,これを契機 として,その違和感を言語化したり行為を起こしたりという局面が立ち現れると考えるからである。すなわち,個人の意識内における内的自己の対話や,その対立としての自己葛藤に,人間の意識レヴェルでの「主体化」の端緒を見いだしうると考えるのである。22)

つまり、個人は社会に完全に同化されるわけではないからこそ、そこに主体性を発揮して新たに社会をつくり変えていく余地が残されているということです。

しかし、もし意識の社会化されていない部分から来る違和感を受け取ったとしても、社会は変えることが出来る、という意識が持てなかったら社会変革は起こりません。このような状態を物象化と呼びます。『現実の社会的構成』の批判への回答として、バーガーが提示した物象化に防ぐ条件を考慮することもできるはずです。

バーガーが『現実の社会的構成』以前に出した論文によると、以下が物象化を避けるための条件として試み的に挙げられています。23)

  • 既存の社会の崩壊

  • 異文化や異世界とのカルチャーショック

  • マイノリティからの申し立て

もしくは、余所者・若者・馬鹿者が社会にいることが物象化を防ぐことができる条件だと言えます。これらは今後のFuturist noteの考察に取り入れられる要素です。

まとめ

バーガーとルックマンのメインの主張は「現実は社会的に構成されており、そのベースには知識がある」というものでした。
そもそも人間には本能によって規定された行動や環境がありません。それゆえどんな行動もとれるのですが、選択肢が多すぎて却って不安になってしまいます。

そこで、行動をルーティン化する習慣が生まれます。この習慣が複数人に共有されるとその人の役割と行動が結びつけられ、習慣が統制性を帯びます。また、新参者に習慣が強制されると習慣は歴史性を帯びて、制度となります。この制度が社会秩序を可能にしています。
そして一度構成された社会は秩序を保とうとします。この側面が強調されたために『現実の社会的構成』は主体性へあまり注目できていないという批判を受けています。

しかし、個人は完全に社会に同化するわけではありません。個人の内部で社会に同化している部分と同化していない部分の対立が、新たな社会構成の契機となります。まとめると、余所者・若者・馬鹿者がいると、社会は変動し続ける可能性が高いということです。

このnoteは「人間の本質は自由であるのにも関わらず、なぜ社会的抑圧が生じてしまうのか?」という問いに答えるための準備でした。次回もその続きで、「実際にどのような社会的抑圧が存在しているのか」を考えていきます。
最後までお読みいただきありがとうございました!

出典
1)トッド・ローズ、オギー・オーガス. Dark Horse(ダークホース) 「好きなことだけで生きる人」が成功する時代. 三笠書房. 2021. p.284
2)大澤真幸、社会学史. 講談社. 2019.p.383
3)同)
4)P.L.バーガー、T.ルックマン. 現実の社会的構成.新曜社. 2003. p.1(以下『構成』と示す)
5)同4)
6)『構成』p.75
7)『構成』p.76-77
8)『構成』.p.80
9)『構成』P.82
10)同9)
11)『構成』 P.83
12)『構成』P.84
13)『構成』P.85
14)同13)
15)『構成』P.88
16)『構成』p.91
17)『構成』p.92
18)P.L.バーガー、T.ルックマン. 現実の社会的構成.新曜社. 2003. P.172-173
19)23)P.L.バーガー、T.ルックマン. 現実の社会的構成.新曜社. 2003. P.173-175
20)吉田幸治、’P.L.バーガー「現実の社会的構成」論における問題性と可能性’. 『立命館産業社会論集』.2002
21)同20)
22)同20)
23)Peter Berger, Stanley Pullberg. ‘Reification and the Sociological Critique of Consciousness’. History and Theory.1965.

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