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人間の本質は自然法則からの自由であり、それは社会の構成によってなされる(Futurist note第2回)


1.0イントロダクション

こんにちは、VARIETASのFuturistのRentaです! VARIETASは、構造的な問題によ って発生するひとりひとりを取り巻く摩擦(=フリクション)がゼロな社会(=Friction0)を実現することを目指すスタートアップ企業です。Futuristとは、目指すべき未来像を示す未来学者
です。

前回のnoteで告知した通り、Futuristは「実現したい未来像」として「自由」を掲げています。そして、自由が実現される社会制度として「平等フィット」がどんなものなのか、このnoteで考察していきます。
ちなみに、平等フィットとは個性学の権威であるトッド・ローズ教授が提唱したものです。具体的には、

「平等なフィット」のもとでは、誰もがその個性に応じた最高の機会を受け取ることができる。(太字は原文ママ)1)

とされています。しかし、平等フィットは現代社会では実装されていません。
具体的には以下のスケジュールで進めていきます。

  • 2023年10月 人間の本質は自然法則からの自由であり、それは社会の構成によって為される

  • 11月 自由な人間はどのように社会を構成するか

  • 12月人間の本質は自由であるにも関わらず、社会的抑圧が確認されている。それはどんなものか

  • 2024年1月 人間の本質は自由であるのに、社会的抑圧が起きてしまうのはなぜか

  • 2月 「何の平等」が平等フィットに大事なのか

  • 3月 就活への提言1(就活共通テストについて)

  • 4月 就活への提言2

  • 5月 Futuristの視点でダークホースを読み直す

Futuristとは何者なのか、どうしてこのようなスケジュールで連載するのかは、前回のnoteで詳しく書いておりますので、こちらもぜひお読みください!

このスケジュールの通り、今回は「人間の本質は自然法則からの自由であり、それは社会の構成によって為される」ということを述べます。

そもそもなぜ人間の本質について考える必要があるのでしょうか? それは、このnoteが平等フィットについて考察していることと関係しています。 新たな社会構想である平等フィットが、人間の本質に合致していなかったら運用は難しいでしょう。だから、このnoteでは人間の本質について考察していきます。

タイトルにある通り、Futuristは自由を人間の本質と捉えています。それを検証するため、このnoteは以下の流れで進んでいきます。

  • 人間の本質の候補の比較検討

  • 自由とは何を指すのか

  • 自由の概念の問題点

2.0人間の本質とは何なのか

2.1人間の本質の候補の比較検討

それでは、人間の本質を示していると思われる様々な概念を比較検討してみましょう。
人間の本質は、人間とはどんな存在かという問いに置き換えることができます。 そこで、それを端的に表現した「ホモ・○○」という概念を見ていきましょう。

  • ホモ・サピエンス(知恵のある者)

  • ホモ・ルーデンス(遊戯人)

  • アニマル・シンボリクム(シンボルを操る動物)

  • ゾーン・ポリティコン(ポリス的動物)

それぞれ検討してましょう。
まずは、ホモ・サピエンス(知恵のある者)です。人間が賢い(Sapient)とは思います。
しかし、知恵を持つ生物は他にも考えられます。例えば、イルカです。
イルカは、仲間内でコミュニケーションが取れたり他の生物の死を理解したりすることができます。以下の動画では、イルカの賢さが紹介されています。

ということで、知恵があることは人間の特徴ではありますが本質ではなさそうです。
ホモ・ルーデンス(遊戯人)について見てみましょう。 遊びは文化に先行しており、人類が育んだあらゆる文化はすべて遊びの中から生まれたと言われます。

人間にさまざまなものをもたらし, 日常生活における仕事を支える基礎となるのが遊びであり,人間は「遊戯人」(ホモ - ルーデンス)なのである。2)

これは、人間は生活様式を遊びから変えていくことができることを示唆します。確かに、人類は世界中に居住し、様々な文化を持っています。遊びから文化が生まれるとしたら、環境に合わせて色んな遊びが生まれ、そこから環境に合わせた文化が出来ていったと考えることが可能です。

アニマル・シンボリクム(シンボルを操る動物)はどうでしょうか。
人間は、言語どころかシンボル(象徴)を操ることができます。

人間はあたえられた現実の世界を, 言語・科学・神話・芸術・宗教といった象徴の世界へとつくり変えてゆ く。人間は,事実の世界にだけ生きるのではなく,想像・希望・夢のな かに生きることができる「象徴的動物」(アニマル - シンボリクム)なのである。3)

言語を使える生物は他にもいます。しかし、それを通して精神世界を作ることが出来るのは人間だけではないでしょうか。

ゾーン・ポリティコン(ポリス的動物)はどうでしょうか。 ポリスとは、古代ギリシアの共同体のことを指します。ポリスを構成するのは、奴隷を持っているギリシア人です。ならば、ポリスにいることができる人間がそもそも限定的なのではないでしょうか。現代から見れば、奴隷も人間ですしギリシア人以外も人間だからです。

また、人間は善に向かうものでありポリスも善に向かうから、人間がポリスを作るのは当然なことだともされますが、それならば人間がポリスによって規定されるポリス的動物と定義するのは違和感が残ります。

ここまでの評価をまとめます。
人間のように賢い動物はいますので、知恵がある、というだけでは人間の本質とは言えないでしょう。また、すべての人間がポリスを作るわけではありません。

その一方で、人間は文化や精神世界など、自然による規定から逃れるという特徴を持っています(もちろん完全にはないにせよ)。

ホモ・○○以外の形式も見てみましょう。
例えば、ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』では、「人間はstoryを作る生き物」だとされています。story、もしくはfictionと呼ばれますが、私たちは実体のない国家や貨幣を、実在するstoryだと認知します。そのことによって、人間は大人数での連携や生殖範囲の拡大、イノベーションを可能にしました。

ここまでをまとめると、人間は自然からある程度独立した存在だと考えることができそうです。
つまり、人間は、ハラリのいうstoryを作ることで文化や精神世界を作ってきました。その結果、本能という、一定の自然環境への反応のプログラムを超えた行動が可能になっています。

マルクス・ガブリエルはそのような人間の状態を自由とします。
以下の引用で、「固い原因」とは本能や自然環境などの行動を決定づけるものと捉えてください。

私たち人間は、文明と精神史のおかげで、もはや基本的に固い原因に操られないことを目指し、積極的かつ意識的に働いているという意味で、他の動物種より自由です。私たちは、いわば行為のやわらかい条件を作り出すことで、自分たちを原因から部分的に解き放っています。4)

もちろん、人間も諸生物の進化の結果生まれたものなので、当然神経の反応や天気などの自然法則に規定される存在ではあります。ある程度規定はされているけれども、上記で示されたように、社会や文化を構成することによって、様々な行動を想定できるので人間の本質は自由だと考えることができます。

つまり、「人間の本質は自然法則からの自由であり、それは社会の構成によって為される」ということです。

2.2自由とは何を指すのか

これまでの議論で、人間の本質が自由だということを示しました。
しかし、自由は非常に難しい問題です。なぜならば、自由という言葉には様々な定義やイメージが当てはまり、文脈によっては正反対な意味を持つことすらあり得えるからです。

政治の例で言うと、リベラリズムとネオ・リベラリズムがあります。どちらも(新)自由主義と訳すことができます。しかし、リベラリズムが国家による積極的な財政政策を指すのに対して、ネオリベラリズムはそれを抑制する立場です。

同じ(新)自由主義なのに、まったく反対の主張をしてしまうのです。
これは、「自由」という言葉が様々な文脈で使われるからです。
「自由」はなまじ好ましいニュアンスを持っているがために、様々な文脈で使用され意味がズレていきます。
しかし、無限にズレていくわけではありません。
例えば、現在の北朝鮮を見て、自由な社会だと思う人はまずいないと思います。

つまり、「自由」という言葉がズレることが出来る範囲があるはずです。それを「自由」の本質と言うことは正当だと思います。
だから、自由の代表的な定義を批判的に比較検討し、自由の本質を考えてみましょう。
検討するのは以下の3つです。

  • 因果関係からの解放としての自由

  • 我儘勝手でやりたい放題としての自由

  • すべての束縛からの解放としての自由

2.2.1因果関係からの解放としての自由

まずは最も一般的な概念として、因果関係からの解放としての「自由」について考えてみます。

哲学的な言葉を使えば、自由意志の問題とも言えます。
コトバンクによると、「外的な強制・支配・拘束を受けず,自発的に行為を選択することのできる意志のあり方」のことを指します。5)

通常、私たちは様々な因果関係が重なって行為を選択しています。この行為の選択には、「行為をしない」という選択も含まれます。 その根拠として、個々人の思考が社会的に決定されているという社会決定論や、全ては遺伝子によって決まってしまっている、という生物的決定論が挙げられます。 そのような決定論とは関係なく、人間は行為を行うことが可能だから自由だ、というのが因果関係の解放としての「自由」です。

しかし、この「自由」の概念は人間の行為に絡む様々な要素を切り捨て過ぎだと思います。
前節で述べた通り、人間はある程度自然法則に規定される存在です。これは、人間が身体を持って活動する以上避けられないと思います。これは、遺伝子などの自然科学によって説明される法則からの自由だ、というものに反論するものです。

次に、社会決定論からの自由についても成立しません。そもそも社会決定論という考え方自体が破綻しているからです。
具体例として、ボードリヤールの消費社会論について考えてみましょう。
ボードリヤールは20世紀のフランスの哲学者です。彼は、資本主義の発展を観察する中で、その本質は生産から消費に移行したのではないかと考え、『消費社会の神話と構造』を著しました。
彼の「消費社会論」は以下のようにまとめられます。6)

  • 消費することの意味は、その商品が単独で示しているものではない

  • ある商品を消費する自分と、別の商品を消費する他人を比べ、そこにどのような違いがあるのかという点に意味が見出される

  • 商品は、広告や宣伝などによって、使用価値とは別に、恣意的な意味を加えられる

  • その記号的なメッセージが創りだす、モノ同士の差異が意味となる

ボードリヤールは、私たちの消費を客観視する時に有益な議論を提供してくれています。
確かに、服やアクセサリーを選ぶ時、他人と被りすぎないことを意識することはありますし、ブランドにこだわらない自分がクールだ、と感じることもあると思います。
他人との差異化は、強烈な消費の動機ですね。

しかし、もしボードリヤールの理論を社会決定論として捉えてしまうとどうでしょうか?
言い換えると、人々の消費の動機はすべて他人との差異化によって決まるとなったらどうでしょうか?
そんなことはあり得ないと思います。なぜなら、そうすると消費財の大量生産が成立しないからです。当然ながら、私たちが消費を行う背後には様々な理由があるはずです。

例えば、

  • 価格

  • 有用性

  • 個人の好み

  • 家族の伝統(階級に関係なく)

  • その場のノリ

  • ネガティブな出来事があってとりあえずパーッとお金を使いたかった

などなどが考えられますね。
まとめると、私たちの行為は神経の反応が大きな役割を及ぼしていることや遺伝子的な傾向があることが認められます。だから、ある程度は自分の身体に規定されているし、社会決定論によってすべてを説明することはできないので、因果関係からの解放としての自由という考え方は破綻していると言わざるを得ません。

これに関して、マルクス・ガブリエルは以下のように述べます。

私たちの行為は、常に何かの原因があってその行為が起こる訳では無いから、自由なのです。それにもかかわらず、あの行為ではなく、この行為へと導く、必要で、すべて揃って十分になる諸条件をすべてリストアップすることによって、行為を完全に理解することができます。7)

この引用において、マルクス・ガブリエルは「原因」を決定論的な因果関係、「諸条件」を私たちが行為を行う様々な理由(もちろんこれは生物学的に説明される神経の反応も含まれます)として使っています。

引用したマルクス・ガブリエルの文は、因果関係からの解放としての自由への批判をうまくまとめていると思います。しかし、理由を持って行動したから自由と言えるのか?という疑問が残ります。
例えば、お金がもらえる+上司が怖いという理由で、上司にいやいや従うことに自由はあるのでしょうか?

行為がある程度柔軟に行えるからといって、自由と言い張るのはオーバーだと感じます。
それでは、今度は自分の理由がすべて満足いくものだとしたらどうでしょうか?
いわゆる「我儘勝手」という意味での自由を検討してみましょう。

2.2.2我儘勝手でやりたい放題としての自由

我儘勝手でやりたい放題である、ということは、「自己のあらゆる欲望を叶えること」と言い換えることができます。しかし、これは原理的に不可能です。それには2つの理由があります。

1つ目は、人間は有限な存在であるからです。私たちが身体を持つ限り、時空間的な制限はどうしてもあります。私はこのnoteをマレーシアで書いていますが、同時に日本にいるということはできません。また、私たちはいずれ死んでしまう存在なので、1000年生きたいという欲望を叶えることは出来ません。

2つ目は、欲望の中には互いに対立するものがあるからです。対立する欲望がある場合、どちらを叶えたいか選ばないといけません。どちらかを選ぶということは、選ばれなかった方の欲望は叶えられません。例えば、たくさん食べたいという欲望と、痩せたいという欲望を同時に叶えることは難しいでしょう。

また、あらゆる欲望を叶えることにはまだ問題点があります。それは次のすべての束縛からの解放としての自由と関連しているので、次節で論じます。

2.2.3すべての束縛からの解放としての自由

すべての束縛からの解放としての自由は、欲望の成就を妨げるあらゆる制約をなくすことを指します。つまり、我儘勝手でやりたい放題としての自由と裏表の関係にあります。

この自由も原理的に不可能な面を抱えています。
というのも、欲望の成就を妨げる要因として他者の存在が想定されますが、自由は他者がいるから可能だからです。

まず、欲望の成就を妨げる要因としての他者の存在について考えます。
私たちの欲望は他者による制限を受けます。誰かに愛されたいと思っても、相手の好みの問題で愛されないということは当然あり得ます。また、お気に入りのサンドイッチが誰かに買い占められたら、自分が購入することは出来ません。また、価格の変動もそうですね。

つまり

他者の行為は、誰が決定しているかは分からないけれども、少なくとも私によって確定できないような不確定性を有している。8)

ということです。
ということは、自分の欲望を妨げる他者を退ければいいのでしょうか? そのことによって、自由を達成するのは原理的に不可能です。
理由は以下となります。

そのため、どの個人も、少なくともその個人に他者として現れるような個人によって「自由 である」ことを意識される。(中略)なぜなら、どの個人も、その個人に対して他者として現れる個人の視座を取れば、他者であるからだ。そして、基本的前提の相互性から、ある個人にとって他者として現れるような存在は「自由である」と意識されることを、私は意識できる。つまり、私は、他者に対して他者と現れるが故に、自由な存在であることを自覚できる。9)

言い換えると、他者こそが自由の条件なのです。まず、他者とは思い通りにならない存在です。だから、何らかの形で自由だと意識されます。その一方で、私はその他者から見れば、他者として現れます。だから、私の自由を保証するには他者の存在が必要です。
よって、己の欲望を成就するために他者を破壊することは自己矛盾に陥ってしまうのです。

つまり、欲望をただ解放するのは原理的に不可能だし、無理して行おうとすれば悲劇が待っているということです。

2.4自由とは何か

自由の代表的な概念を批判的に検討したところ、以下の結果が得られました。

  • そもそもこの世に決定論は存在せず、私たちは可変的であり多様な理由によって行為を行っている。

  • 相反する欲望たちを欲望することはできない。原理的に不可能である。

  • すべての束縛から解放されようとすれば他者の破壊にたどり着いてしまい、自由を可能にしている条件が失われる。

さて、ここまで自由の概念を比較検討してきたのは、様々な文脈で使われてしまう「自由」の概念の本質をある程度定めるためでした。
上に列挙した批判を受け入れた上で、「自由」の本質と見られる特徴を挙げてみましょう。

  • そもそもの大前提として、私たちは決定論を免れていること

  • 欲望の成就とそれを妨害する束縛の除去が大事であること

  • しかし、あらゆる欲望の成就と束縛からの解放は原理的に不可能だったり矛盾したりしてしまうこと

しかし、これだと欲望の制限で終わってしまっているので、共感しづらいと思います。もう少し考えてみましょう。
上に挙げた自由の特徴を言い換えれば、自由にとって欲望の成就が重要だが、様々な理由である程度の規定は受けるということです。これはどんな人物でも同じです。

たとえ、長者番付でトップになろうとも自分の身体から自由になることはできません。体は病にかかるし、やがて老いて死にます。
それが嫌だから精神を電子バンクにアップロードするというプロジェクトもあるにはありますが、電子バンクは結局はハードウェアとエネルギーがどこか必要なので、やはり規定性はある程度の制限は受けます。
お金持ちはマイノリティなので、世の中のマジョリティはもっと規定されていることが多いはずです。それでも、私たちは自由を感じることがあるはずです。

例えば、志望校に合格した後の束の間の春休みや、ずっとやりたかったプロジェクトに任命された時の高揚感です。 しかし、よくよく考えればこのタイミングでも私たちは何らかの形で規定されています。身体活動やお金、他者との約束、労働時間、所得税の上限などなどです。
そんな中でも自由を感じられている状況を一般化した形で言い換えたものを引用します。

わたしたちは、確かに常に諸規定性の中に投げ入れられている。しかしその上で、それでもなお「規定されていない」と感じられる時がある。わたしたちが「自由」を十全に実感するのは、その時だ。10)

ここの規定と言うのは制限と言い換えて差し支えないです。引用元の著者はヘーゲルの自由論をもとに議論を展開しています。ヘーゲルも欲望の成就を重要視したものの、すべての欲望を叶えることの不可能さや、他者の破壊に行き着いてしまうことに気づいていたはずです。
それでは、ヘーゲルを通してわかる自由の本質とは何か。 それは、「諸規定性における選択・決定可能性」です。

諸規定性の中にあって、わたしたちはなお、選択・決定可能性を感じることができる。「自由」の本質は、ここに存する。「自由」とは、諸規定性から完全に解放されているということをいうのではなく、ヘーゲルの用語を使ってわたしなりにいい換えるなら、「諸規定性における選択・決定可能性」のうちにあるものなのだ。11)

言い換えれば、自由とは諸規定性の中で、成就したい欲望を選択し、そこに向かって実現可能なアクションを取れることを指します。夢や目標に向かっている時、幾ばくかの自由を感じることが出来るのはそのためで、夢や目標が叶った直後に自由を感じるのは言うまでもありません。

ここに、人間(精神)の本質は自由であるというテーゼが成立します。というのも、動物は(恐らくは)本能によって生きているに過ぎないからです。それに対して、人間は様々な欲望を持ちます。個人個人で持つ欲望は異なるが、欲望の成就が諸規定性の克服にあるため、人間は自由を追求することになります。ゆえに、人間の本質は自由であり、それは諸規定性の中で、成就したい欲望を選択し、そこに向かって実現可能なアクションを取れることを指すのです。

3.0自由の幸福論的な検討と現実社会の問題点

最後に、上で見出した人間の本質としての自由は本当に幸福につながるのか検討します。
というのも、自由が幸福につながるものでなければ、平等フィットの中に実装しても参加する人は少ないはずだからです。
古代ギリシアの哲学者であるアリストテレスは、幸福を「人間に固有の働き」を成し遂げることだと述べています。

アリストテレスの倫理学では、「幸福」とは単純に、身体的に、あるいは心理的に苦痛の無い状態を意味するだけではなく、人間が自らの「人間としての善」としての「徳」を発揮し、「人間に固有の働き」を成し遂げることをいう。12)

アリストテレスにとっては、人間に固有な機能とはロゴス(思考)でした。というのも、動物は本能に従って行動する。思考をここまで広く行うことが出来るのは人間なので、人間に固有な機能はロゴスだと考えることができます。

そして、思考が機能だということは、それには何か目的があるはずです。
19世紀イギリスの哲学者であるJ.S.ミルは、アリストテレスの「人間に固有の働き」を「人間としての機能」と言い換えて、以下のように考えました。

一貫して「人間としての能力」を活用することや、「人間としての機能」を果たすことが論じられており、それらが、個人の精神面での幸福の問題に直結し、更に、「個性の自由な発展」は生き方としての幸福の問題に直結していることが分かる。13)

つまりJ.S.ミルは、「人間としての能力」に思考を置き、思考を通して個性に合うように活動することに幸福を見出していると考えました。
言い換えれば、人間に固有の働きであるロゴスを成し遂げた結果欲望が叶うから、幸福につながるということです。

ここで、自由とは諸規定性の中で、成就したい欲望を選択し、そこに向かって実現可能なアクションを取れることを指すので、自由を突き詰めた結果幸福につながると考えることができます。
1人1人欲望は異なるので、「自ら進んで自分自身の生活を営む」ということは、それぞれの欲望を叶えることを意味します。
ということは、以下のことが言えます。

そう考えると、本人に関わる事柄に対して、選択の余地を与えない社会には、個人一人ひとりにとってのキャラクターが形成されることができない。従って、そのように、人々に選択の余地を与えない場合には、人々に活力にかけた状態に陥れ、更に、彼らから生き甲斐と人として生きる意義を奪うこととなる。14)

本編で考察した自由の達成には、社会の構成が不可欠です。なぜなら、様々な欲望を満たすことができる選択肢は社会によって生まれるからです(様々な欲望が社会から生まれているところもありますが)。となると、上の引用のように個人の選択を阻むような社会は矛盾します。
なぜこのようなことが起きてしまうのでしょうか?

一般化すれば、人間の本質は自由であるのになぜ社会的抑圧が生まれてしまうのか?という問いが生まれます。この問いは数回に分けて考察が必要なものだと思います。
そこで、次回のnoteはその予備的考察として、人間はどのようして社会を構成するのか見ていきます。
最後までお読みいただきありがとうございました!

参考文献
1)トッド・ローズ、オギー・オーガス. Dark Horse(ダークホース) 「好きなことだけで生きる人」が成功する時代. 三笠書房. 2021. p.284
2)清水 高等学校 新倫理 2023 p.7
3)同2)
4)マルクス・ガブリエル. 私は脳ではない 21世紀のための精神の哲学. 講談社. 2019.p.329
5)コトバンク ”自由意志” https://kotobank.jp/word/自由意志-526250#:~:text=じゆういし【自由意志,freedom of will〉ともいう。 Accessed: 2023/10/01
6)リベラルアーツガイド ”【消費社会の神話と構造とは】背景・内容を要約してわかりやすく解説” https://liberal-arts-guide.com/the-consumer-society/ Accessed: 2023/10/01
7)マルクス・ガブリエル. 私は脳ではない 21世紀のための精神の哲学. 講談社. 2019.p.305
8)数土直紀 「社会学的基礎概念としての自由」『ソシオロゴス』No.16 : 20-35.1992
9)同8)
10)苫野 一徳、自由はいかにして可能か. NHK出版.2014.p.77
11)同10)
12)香 春. ”個人と社会の関係性における自由について―ミルの『自由論』に関するアリストテレス的考察―”.名古屋大学大学院人文学研究科編『人文学論集』.2021
13)同12)
14)同12)

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