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サマリー:人間の本質が自由であるのに、社会的束縛が起きてしまうのは何故か(Futurist note第5回)


イントロダクション

こんにちは、VARIETASのFuturistのRentaです! VARIETASは、構造的な問題によ って発生するひとりひとりを取り巻く摩擦(=フリクション)がゼロな社会(=Friction0)を実現することを目指すスタートアップ企業です。Futuristとは、目指すべき未来像を示す未来学者です。

今回は「人間の本質は自由であるのに、社会的束縛が起きてしまうのはなぜか」という問いに取り組みます。
前回のnoteにおいて明らかになった機会均等がもたらす社会的束縛は以下のようなものです。1)

  • 抑圧:個人の個性を表現したり活かしたりする場が用意されていないこと

    • 搾取:個々人の個性や能力が、本人の意志や好みと異なる場にあてがわれていること

    • 周辺化:個性を生かして活躍する場へのアクセスが制限されていること

    • 無力化:活躍の場を手に入れても個性の活かし方が分からなかったり裁量の問題で活かしきれないこと

    • 文化帝国主義:一様の能力や個性のみが評価され、それ以外は評価されなかったり受け入れてもらえないこと

    • 暴力:上記を通じて、個々人が個性を活かす気持ちを失うこと

  • 支配:抑圧がなくなるような場を作るための意思決定権が個々人に与えられていないこと

椅子取りゲームで例えると以下のようになります。

機会均等は椅子の数が限られており全員が座れるわけではない椅子取りゲームとなります。しかも、椅子を用意するのはプレーヤーではありません。ここで椅子に座れない人が出てきますし(周辺化)、座った椅子と自分の体格が違いすぎてかえって疲れる人も出てきます(搾取)。体格が合っていたとしても、自分の癖が出てしまって椅子では落ち着いてられない人もいるかもしれません(無力化)。そして、椅子に座れなかった人を馬鹿にする人もいればうまく座れない人を評価しない人もいるでしょう(文化帝国主義)。こんな雰囲気の悪い椅子取りゲームには参加したくなくなるかもしれません(暴力)。かといって、ゲームマスターにお願いしてルールや椅子のオーダーメイドをお願いすることもできません(支配)。2)

社会的束縛の原因

今回はこれらの社会的束縛の原因を探るために、以下の2つの視点を採用します。

  • 生物的な側面と社会的な側面

  • ミクロな(個人の内面に留まる)側面とマクロな(個人の内面を超える)側面

これらの視点を用いると、以下のような4つの象限が形成されます。

  • 生物的でミクロ的な側面:感情や脳の構造についての考察

  • 生物的でマクロ的な側面:コミュニケーションについての考察

  • 社会的でミクロ的な側面:思想や規範についての考察

  • 社会的でマクロ的な側面:資本主義や機会均等などの社会制度についての考察

4つの領域は独立しているわけではなく、以下のように繋がり合って前回のnoteで見たような社会的束縛を生み出しています。

感情や脳の構造としては、人間は世界を正しく捉えたいという欲求、集団の中で恥をかくことに対する不安を持っています。「王様は裸だと断じて、実際には間違っていたらどうしよう…」という不安です。その不安を解消するために、他者の行動を模倣したり、社会規範(一定のルールやパターン)を求めたりします。よって社会規範に従うことで多数派になると、心理的に快感を感じるのです。

その一方で、人間は多様な側面を持っているため集団と個人のアイデンティティが完全一致することはまずありません。この不一致は個々人の個性や能力が本人の意志や好みと異なる場所に配置されるという意味での搾取、または活躍の場を手に入れても個性の活かし方が分からないという意味での無力化につながります。

集団と個人のアイデンティティの不一致を引き起こすのは、相互的な他者への信頼の欠如(相互不信)です。排除の恐怖から集団の規範に無理やり従うことによって相互不信が発生します。自分が信頼に値しないと感じると、他人も自分に誠実に接してくれないと考えがちです。その結果、他人を信用できなくなります。これがコミュニケーション面から見る束縛です。
相互不信によって個性を活かす機会を得られないという意味での周辺化が発生していると言えます。

そして、このような状況が続くと、誰もがおかしいと思っている社会規範が破られずに存続します。つまり、社会規範は個々の不安や不信感を緩和するための手段であり、それ自体が問題を引き起こす可能性があるにもかかわらず、それが存在し続ける理由となります。

マクロな面に接続すると、資本主義や機会均等における果実の占有を正統化するために、能力主義が存在します。この論理において、競争がおかしいと主張してエネルギーを消費するよりも、競争に勝つために努力する方が個人としては合理的です。ここで、文化的帝国主義によって理性的で競争に勝てる個人「のみ」が理想化されているのです。

そして、マクロで社会的な側面は感情やコミュニケーションにフィードバックします。競争に向かう資本主義によって、相互不信が生じます。みんなが競争を望んでいる一方で、自分は競争を望んでいないが、勝たなければ生き残れないと感じます。そして、「競争をやめよう」と提案している人々さえも、自分を出し抜こうとしているように見えます。これにより、誰もが問題だと感じている社会規範が破られずに存続する状況が生まれます。

ここで大事なのは、この競争は文化的帝国主義によって理想化された特定の個性(理性的で能力主義的な個性)にのみ適合した競争だということです。もしその個性に合っているならば競争は奨励されるべきでさえあります。競争により個性に磨きがかかる可能性があるからです。しかし、適合していない場合は支配が起きていると言えます。なぜならば、個性を活かす社会制度をなくすための意思決定権が実質上失われているからです。

今回のnoteで発見された社会的束縛を解決するために平等フィットとはどんなものかを次回以降論じていきます。最後までお読みいただきありがとうございました!

出典

  1. サマリー:人間の本質は自由であるにも関わらず、社会的抑圧が確認されている。それはどんなものか(Futurist note第4回), VARIETAS, note https://note.com/varietas_iverse/n/n806ccd1f1784

  2. 同2

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