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皆様へ

我が家のチワワ二匹、バニラとモカの闘病をずっと応援してくださった皆様、本当にありがとうございました。さきほど長い旅を終えたモカをいま清拭して冷やしているところです。さいごまでほんとに!つよかった!ここ数日はもう内臓なんて機能していないはずなのに心臓のポンプ力だけで生きてた感じです。全く泣かずに旅立っていきました。

床ずれを起こしていた時に手編みのレッグウォーマーを贈ってくださった方、給餌のコツをアドバイスしてくださった方、ペットを飼ってらっしゃるフォロワーさん、応援のリプライをくださった方々、この数年ほどの介護期間心が折れそうな日々の大きな支えでした。

二、三年前の自分は介護のド素人だったなあとつくづく思います。今だってたった二匹分の経験値しかありませんが、若くて健康な犬しか知らなかった頃とはやっぱり全然違います。一匹いっぴきのそれぞれの病に寄り添っていろんなことを知りました。バニラもモカも尋常ではない「生きたさ」をさいごまで手放すことなくそれぞれ一年以上の闘病をやりきりました。飼い主としては突然死ではなく、お別れまでの時間をたっぷり用意してくれた犬の計らいにただただありがとうの気持ちでいっぱいです。

悲しいお知らせをするにあたり、ひとつ我がままがございます。他者と関わり続けるだろう生活の中ですごく大事だと思っていることなので書きます。

「あなたにはあなたの看取りや死の経験、私には私の看取りや死の経験があってそれは簡単には共有できるものではないということ。

死というたった一つの個性を持つもの、そしておそらくもっとも強い喪失に直面している当事者の哀しみ、寂しさにかんたんに相乗りしてこないでほしいというお願い」です。


家族の死を二つ経た今、私が恋しく思う具体は私にしか分かりません。これは同じ家の中で同じ犬の介護に携わってきた夫とも完全には共有できないささやかで大切な具体です。たとえば給餌のときにわたしの脇腹に置かれていた前足の重みとか、おしっこをした後ウェットティッシュで拭う股間の体温とか、歯磨きされているあいだの顎の力の強さとか、痩せてしまった体を抱っこして手のひらに感じる肋骨のとんがりとか、そういうディテールは私の体にしか存在しない恋しさです。そして夫の抱えている寂しさはまた別の具体を伴っていることでしょう。言葉にして話すことである程度の思い出は共有可能ですが、完全に分かり合うことは無理です。

個人的な経験として、これまで知人のご家族の訃報に接した際お悔やみをうまく伝えられず後悔するというような失敗を何度もしてきました。良かれと思って言い過ぎてしまう言葉たち。励まそうと焦って聞かれてもないのに自分の経験を語ってしまうこと。そのたび反省しました。混乱の只中にいるその人に「そうですか、あなたも死のご経験が。それはさぞつらかったですね」と言わせてしまう(マナーとしてそう返信せざるを得ないよう仕向けてしまった)言葉を投げてしまったことに。死に、死を悲しむ人に寄り添うのはいつも難しいです。なぜなら私自身、死ぬまで死のリアルを体験できないのですから。

私はもう、その人の悲しそうな素振りにどれほど心をゆさぶられても同情してもそれは伝えません。自分の家族の死の話もしません。そんなのその人にとってわざわざ今聞かされる必要があることとは思えないからです。

慰めるつもりだろうが何だろうが疲れている人に気やすく自分の気持ちをぶつけてしまわない理性を。同情という湿っぽくて重たい毛布をかけない慎重さを忘れないでいたいです。

こういうことは死に限らずご病気の方、手術前後の方、なんらかの辛さを抱えている方全員に言えることだと思います。その人の辛さに自分のストーリーや思い出をかぶせるのは酷だということ。他人の不幸に乗じたただの自慰であるということ。自慰をするのは全く構わないし、他者に想いを寄せて自分も落ち込むことは優しい人ならではの心の動きなんですけども、わざわざそれを相手に伝える必要などないこと。「一緒に悲しんでほしい、慰めてほしい」と頼まれていない限りは。

バニラを亡くしたとき、充分に喪に服すことができないままあれよあれよとモカの病気が発覚し介護生活に突入してしまいました。モカとの時間を楽しもう!と思った矢先でしたが、今振り返ればそれはそれでよかったです。というか本当はモカだってずっと具合が悪かったのにバニラの看取りが終わるまで自分のことはじっと我慢していたんですよね。犬の気遣いたるや、人間の心のはたらきをはるかに上回ります。慎ましさに頭が下がります。

犬というのは本当に心が美しいです。薬の副作用で脱毛しようが、衰えて寝床の出入りだけで息切れしようが、お尻にうんちをつけていようがその肉体から湧き出るオーラは写真加工アプリを通したかのようにきらきら光っていました。病気の犬の姿は第三者にはみすぼらしく映るものですけれど、飼い主や医師看護師にとってはすべてが「可愛い」の要素でした。
正直、モカは発病以降ずっと苦痛との闘いでした。膵炎、腎臓病、たびたびの下痢嘔吐、膀胱炎、膣炎、貧血、尿毒症、発作、膀胱炎の再発に次ぐ再発。あらゆる苦難が降ってきて、ただそれに耐えるしかないモカを見ているのが歯がゆく申し訳ない気持ちでいっぱいでした。週に六回点滴治療をしていても(皮下点滴は心臓が丈夫な犬だけができる治療です。心臓病を併発している犬はもっと予後が厳しくなります)ちっとも穏やかな腎臓病末期じゃなかったですね。それでも地上にとどまる時間を命を削って紡いでくれたモカに感謝しています。

28歳で迎えて42歳まで、ちょうど人生の三分の一を一緒に暮らした家族を立て続けに亡くすという経験をした今、きちんと喪というものに向き合いたく思います。

二匹が一匹になるのと、一匹がゼロになるのとでは気持ちが全く異なります。喪失感とか燃え尽き感はバニラを亡くした時よりも今のほうが断然強いです。老犬のいない暮らしって何?と変な気持ちです。自由になったからってやりたいことが一つも思い浮かびません。どんなに腱鞘炎が痛くてもモカさえゆるしてくれるならあと何度でも給餌をしていたかったし、寝顔を見ていたかったです。トイレシーツだってウェットティッシュだってあともう何十枚も汚して捨てたかったです。サステナビリティなんてどうでもよかった。介護のある生活が当たり前になりすぎました。

不在を受け入れて、哀しみも後悔も飲み込んで、家族が半分になり広さばかりが目立つ部屋に違和感をおぼえなくなるまで、自分の心を観察し続けたいです。ペットロスの症状は全然軽いほうだと思いますが、私には私の悲しみ方と立ち直り方がありますのでどうか温かく見守ってくださいますよう心よりお願い申し上げます。

繰り返しになりますが、たくさんの応援とお心遣いを本当にありがとうございました。そのうえこんなまとまりのない長文にまで目を通してくださり感謝感謝です。皆様の健康と幸せ、穏やかな日々をそっと願っております。そして私がまた犬という素晴らしい仲間と暮らす日が来ることを静かに期待していてくださると嬉しいです。バニラとモカという最強にキュートなチワワがいたことを時々思い出してくださればなお嬉しいです。

犬は最高。