ある歌の鑑賞文010(遠藤健人さん)
この人はいつ、どんな風に作歌してるんだろう?と不思議に思う人がいる。今日はそんな一人である遠藤健人さん。
遠藤さんは強引に一言でまとめてしまえば俯瞰の人だと思う。情緒が薄い。短歌が短歌としてエモーショナルになりすぎないように慎重に言葉を選んでいるのかなと想像する。
先日もうたの日で俯瞰みにあふれる一首を詠んでおられたので鑑賞していきたいと思います。
この国の歪(ひず)みがぜんぶわたくしの外反母趾に集まっている/遠藤健人さん
やばいですね。国、持って来ちゃってる。国 vs 足の指。二物衝撃というものでしょうか、これは。
一定の条件を満たせばわたしたちには参政権(選挙権被選挙権)がある。それでも国とか政治とか、そういうものはひとりの人間にとってとてつもなく巨大な存在だ。本来ならそこにやさしく包まれているべきなのに、今の国は高すぎる壁だとかひび割れをこちらに見せてくる。全然親しみを持てないし味方になってくれていない感じ。
平等なんてものが本当はないことを(あったとしたら逆にそれは疑わしいということを)私たちはうすうす気づいているけれど、それでも可能な限り平等に近づける努力すらしてくれない政治家の偉い人たち。
遠藤さんのこの歌に描かれているひとの唯一の個性は外反母趾。外反母趾という言葉だけでそのひとがどういう暮らしをしているのか想像できるというのがこの歌のすごいところ。きっと、靴に押し込まれた足指のように自分自身も満員電車に詰められて汗臭い毎日を送っている。逃げたくても「主」の許可が下りるまで逃げられない。そうしなければ生活が成り立たない。労働、労働、また労働だ(学校という枠に日々嵌められているという観点で読めば労働の代わりに通学でも成り立つ)。
有名すぎるあの歌を思い出しますね。
はたらけどはたらけど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざりぢつと手を見る/石川啄木
啄木は手をじっと見た。遠藤さんの描くひとは足指をじっと見た。どちらも綺麗な見た目ではない。疲労と我慢の蓄積が人間の体の末端にあるということ。
それにしてもこの国の歪み「ぜんぶ」がたったひとりの足指に集まってしまうだなんて。日本列島の地図からひとりの足指にぐーーーーーーっとカメラがフォーカスする勢いの強さを一首から感じました。
なんて哀しい世の中なんだろう。せめてわたしはわたしの足指を湯舟の中でほぐしてあげようと思うのだった。誰もがのびのびと暮らせない国にいて頼れるのが自分しかいないのであれば。
遠藤さんには今回この鑑賞文を書かせていただくにあたり許可をいただきました。知る限りではうたの日以外の歌会に参加されている様子もなく、無所属で淡々と遠藤ワールドを築いておられますよね。その孤高の佇まいが好きです。思いもかけない角度から言葉を紡いで見せるマジックを一読者としてこれからも楽しみにしています。
俯瞰の人、遠藤さんの名歌をふたつ紹介して終わります。わたしには到底真似できそうにありません。
性欲が消えた私は小さめの犬小屋として余生を送る/遠藤健人さん(2020年5月10日 東京新聞東京歌壇東直子選特選一席)
神さまの弱みをいくつ握ったら億万長者になれるのだろう/遠藤健人さん(2021年NHK短歌6月号佐佐木頼綱選「握る」佳作)