親子別姓だった夫の話・4(全4話)
ぼくは美術大学を志望した。
おふくろからは大反対されたが、教員免許を取得することと予備校に通わずにおふくろが決めた家庭教師を受け入れることで許された。
おふくろは独身時代に教育大の事務をしていた。その教育大の教授との交友関係から美大を卒業後広告代理店に勤務していた林先生を紹介された。
デッサンと色彩構成を中心にデザイン科の受験対策をマンツーマンで指導してもらった。残念ながら第1志望の大学は合格できなかったが、大学生になっても林先生との付き合いは続いた。相変わらずたびたび起きるおふくろとの親子喧嘩の仲裁にもよく入ってもらった。
大学生になると、またバンド活動を始めた。複数のバンドをかけもち、ロックもジャズもR&Bもやった。有名なバンドの地方ライブなどで前座をやったり、他校の学園祭に呼ばれて演奏することもあった。
相変わらずおふくろはバンド活動を大反対していたが、林先生やおばさんはライブハウスにこっそり観に来てくれることもあった。
その後、おふくろとの約束通り教員免許を取得し、大学を無事卒業した。しかし就職は教員ではなくデザイン会社だった。就職後は一人暮らしを始め、電話に出る時も無事
「はい、竹之内です」
と、堂々と出られるようになった(笑)
そんなある日…
おふくろが竹之内さんと結婚する時、間を取り持ってくれたという叔父に連れられて、初めて自分の生家を訪れた。大きなお屋敷だった。かつて負けん気の強いおふくろをノイローゼにした大きな大きなお屋敷だった。そして竹之内さんは、おふくろとの離婚後再々婚をしていた。
とにかく、そっと行ってそっと帰ってくるつもりだったが実際にはそうはいかなかった。
竹之内家の親族が次から次へと挨拶に来た。中には
「君が政夫くんかっ!」
と泣き出す人もいた。誰が誰だか全然わからなかった。全然わからなかったが、唯一ひと目でわかった人たちがいた。
ぼくの2人の姉だ。
父親の棺に寄り添う2人の女性には、凛としたオーラがあった。ぼくは、おじぎをして2人の前を通過しただけだった。姉たちは姉たちで、複雑な人生を歩んできたのだろう。何も会話はしなかったが、凝縮された濃密な時間がそこだけ流れていた。
さてその後、家庭教師だった林先生は広告代理店を辞めて美術大学の助教授になった。
教鞭をとったその年、林先生の初めての教え子の中に妻のさっちゃんもいた。さっちゃんもデザインを専攻し、卒業し就職するまでどっぷりと林先生にお世話になっていた。同じデザイン業界に就職した縁で、ぼくたちは出会い、そして…
林先生を心底驚かせてしまった。めちゃくちゃ驚いた後、冷静になった林先生はさっちゃんに
「政夫くんのお母さん、相当強烈だけど大丈夫?」
と心配していた。
その後、ぼくたちは3人の子どもに恵まれ7人家族になった。そして…
家庭内圧倒的竹之内!!
かつてあんなに孤独だったのが嘘のようだ。
「自分は鈴木でも竹之内でもない」
と思った時、苗字は書類を書くときに必要なただの記号と化した。今でもそう思っている。しかし、与えられたその記号が歴史を刻みルーツとなって新たな意味を持ち始めた。
おふくろが自分の都合ではなく、子どもが意思を持った時に決めさせたいと選べるように籍を残したことは、おふくろらしい考え方だったなと今なら思える。ただ、本当に親子別姓はいろいろ面倒くさかったというのがぼくの本音だ。
(おわり)
※登場する個人名等は全てフィクションです。