ファッション誌のような服を着よう。
私自らはファッション誌をあまり見ないのですがファッション誌のような装いの奨めです。
平成初期にファッション誌がマニュアル本と呼ばれてファッション誌の真似をするような人は意識が低い、自分というものがない、何を着るか延いてはどう生きるかは自分の頭で考えるべきだというような言説がはやり、以後それが新ゆとり教育とのHYBRID SYNERGY DRIVEで平成時代の主流のような思想になっているかと思います。
その平成時代に大いに支持されて今も根強い人気のUNIQLO…、これは難し過ぎる命題なのでやめときましょう。因みに私はUNIQLOの子分のGUが好きです。GUは平成末期に人気が上がっています。
尤も、平成時代は店頭におけるmerchandisingの発展もあり、ファッション誌を一々予習しなくても店に行けば何を着たら良いかの提案を実地で受けることができるようになっています。そこでは自分の頭で考えなくてはならないのはどの店に行くことを選び取るかと幾つかの提案の内のどれを選び取るかです。
それにつれ、消費のあり方が物よりも場所に、そして場所よりも時間にと変わって来たとの指摘が経済誌などにもあります。
物事を自分の頭で考えるべきなことは言うまでもありませんが、ファッション誌をそっくり真似てファッション誌を出て来たような装いをすることやお店の提案に乗って自分の着る物を選び取らされることは良くないことでしょうか?
例えば今の日本国憲法は色々な事情から日本が選び取らされたものともいえます。
いわば憲法はマニュアル本やmerchandisingのようなものです。
しかしそうだからといえ憲法が良くないものなことにはなりません。
ファッション誌は常にupdateされて時代の最先端(かどうかは分からないけれど少なくともそのつもりとしては。)を提案します。そこで従来の定番や定番にもならないものとは違うものと認識されます。
しかし、従来の定番も過去のどこかで時代の最先端として提案された挙句にそれが広く受け入れられたものです。相対的に旧いだけでファッション誌のような装いなことには違いがありません。
ファッション誌のような格好では自分の頭で考えていることにはならないからいけないという平成初期からの思潮は二流の人々がまんまと騙されたプロパガンダでしょう。
自分のスタイルやポリシーを持っているという人が今やアルコール消毒をしろ、ワクチンを打て、ウクライナを守れなどと異口同音に唱和しています。
それだけstyleもpolicyもない方々はそこで自分が広告塔になっているという自覚はありません。自分はあくまでも自分の信念でやっていると思い込んでいます。
一流の人々は自分が広告塔になることを嫌いません。
例えば一流のスポーツ選手等は企業の広告のあしらわれた制服を着て競技に臨みます。そんな服を着ていたら演技ができないよなどとは思いません。
私服にしても、取り敢えずはファッション誌の真似のような装いでも良いのです。
真似ようとしてもその全ての品を必ずしも揃えられる訳ではないので、代替になる品を見つける能力が身に着きます。
平成中期以降は服においてもネット通販が普及していることから、ファッション誌にもお店の売込にも影響されない自分のスタイルを自分の頭で選び取っているという思い込みが強化されているようです。
尤も、それと同時代に人気のエビちゃんこと蛯原友里さんなどの提案する装いがこの国の経済力が低迷してゆく現実とはやや掛け離れるような高級過ぎるものだったことから、彼が殆ど最後のカリスマモデルとなってしまい、もうそんな夢みたいなのはないよという二流人間の常套句がこだまし続けるようになってしまっていることも影響しています。当時の流行語の一つは「美し過ぎる〇〇」でしたね。
自分の頭で考えろとは、良い話や美しいものは潰せという意味だったのです。
ファッション誌のような格好なんてしないよという人が幾ら頭を遣って考えても良い話や美しいものは生まれては来ないのです。
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