国際女性の日に寄せて:啓発だけではなく実行へ。
今この題名を打つ時に一発目の変換で「国際女性の卑」と出ました。Windowsさんもなかなか男尊女卑なようです。
今年は数日前からネットにこの日の予告が出ていたのでそれが今日3月8日であることを初めて憶えました。
前年のはコンビニの新聞を見て当日に知り、そしてもう一年が経つのかと軽く途方に暮れるような感じがします。
語呂合わせを考えるなら、「産婆さんも気になる 国際女性の日」なのか「さあ、やっつけよう!男性を 国際女性の日」なのか「さっぱり分からない 国際女性の日」なのか?或いは「争いは鞘に収めて 国際女性の日」なのか?
ただ、「さあ、やっつけよう!男性を」とか「さっぱり分からない」となってしまうのも或る意味ではし方のないことかもしれないと思ったりします。
これはいわゆる陰謀論でも何でもなく、「国際なんちゃらの日」という設定のし方、何を設定するのかというと啓発の機会の設定ですが、そういう形式(format)が今の世の中にはもはや通用し難くなって来ているのではないかと思うのです。
「国際なんちゃらの日」という形式は紛れもなく、国際共産主義労働者革命運動の形式を踏襲しています。
女性の人権や幸福という命題は必ずしも労働者革命との関係はないですが少なくともその形式を取り入れている。形式と精神は鶏と卵のようなもので、精神が形式を作ることもあれば形式が精神を作ることもある。労働者革命運動の形式を取れば精神もそのようになってゆくことは多かれ少なかれ考えられる。
で、人類世界の多くの人々が国際女性の日を知っているかといえば、多分知らない人が過半数を占めます。世界における名誉ある地位を占めたいと思う日本国民も、ともすればというか必然にというか、知らない人が三分の二を占めたりするのではないでしょうか。
知っていても意味がない、知らない人こそが良いなどという庶民的戯言を言うつもりは毛頭もありません。知っていて損をするものではありません。しかし知っていて得をするかというとどうも心許ない。
「三分の二を占める」とか、何で何かにつけて安倍を連想させるような表現をするのかというと、阿部さんが好きだからです。
もうあと三週間でフジテレビの『めざましテレビ』を卒業する阿部華也子さん。卒業式は取止めでいつの間にかいなくなってしまうのでしょうか?番組としては少し考えどころになるかもしれません。
阿部さんは毎朝Cancamとの提携により服の紹介をしていますが、その八割以上はださい。昔の言葉で言うと「イモ」。
しかしそれが阿部さんの心技体に掛かるとぴしっと魅力に映るんです、はい。
このインスタグラムの服はその八割には当てはまらない私から見て良いと思うのを引張り出したもの。ほんまいつも阿部さんの服には疑問なのです。多分、だ埼玉女カトパン愛――加藤綾子さんは2015年までの『めざましテレビ』の主役。――が冷めやらない人達を対象にしているのではないかと勘繰たりします、確信犯なのではないかと。
因みに私は先月まで阿部さんと同じ髪形でした。私が阿部さんを見て真似たのではなく、偶々同じ頃に阿部さんが私と同じ髪形に変えていたのです。
阿部さんはこの4月から新卒の社会人になりますが、新卒とその後に関して光と影の色濃い私にとっては阿部さんはとても気になる存在で、故にも阿部さん愛が止まないのであります。
で、どうも「国際なんちゃらの日」というのは啓発の費用対効果、即ちコスパが乏しいよう。
人類はメーデーを何度繰返して、労働者の地位が改善されているでしょうか?
労働者にせよ女性にせよ、逆に気分だけを一時的に盛り上がらせて現実の改善はないという風にしか作用して来なかったのではないでしょうか。改善がないだけではなく、逆にそれに抵抗しまたは圧迫を増す勢力を助長しているだけなのではないでしょうか。
啓発だけではなく、実際の実行が必要です。
努力義務ではなく、罰則のある遵守義務に落とし込む。
努力義務というものを一概に否定するものではありませんが、何をどう努力するかということについて努力義務というものはそれぞれの勝手な思い込みや自己満足を助長する余地もある。特に業績ではなく労働者の地位や女性の地位などという具体的結果の測りにくい事柄はひたすら思い込みに始まり自己満足に終わりがちです。
うちの会社も前社長がそのような思い込みと自己満足を専らとするような人だったと断定できるので女子は多いし障碍者やその筋では発達障害に該当すると思しい人或いは単に頭の弱い人が多くなっていますがそれが彼らの地位や幸福の向上になっているとは到底に考えられないのです。
何でそう断定できるかというと、「前の社長が良かった。」とぼやく人が何人かいるからです。
仮に前の社長が今の社長に優っていたとしても、本当にそうであったらそのような言辞が出ては来ないものです。前の社長が駄目で今の社長が少なくともそれよりはかなりましなのでそのような言辞が出て来るのです。少なくとも前よりはましになっているという状況は彼らにとっては受け入れ難いことなのです。
彼らのようなならず者が良かったと思う会社てどんだけ甘いのだ、会社といえる代物なのかということです。サッチャー以前の労働党にも劣るかもしれません、とスコットランド国民党の地に生まれた当地産のスコッチウィスキーを呑みながら思っています。
女子が多ければ女性の地位と幸福が改善向上するとは限らない。それは近年に日本においても鮪がまな板に載るように検討されているクォーター制についてもいえます。
クォーター制そのものは私は必要という考えになって来ています。初めは懐疑的でしたが、女子の任命ということに関し努力義務よりも遵守義務とするべしやということです。
但し、その比率は弾力的というか、現状からして無理のない、そう大きな困難なく達成され得る水準に設定されるべしという考えです。
それが女子の社会進出の度が高い西洋諸国並の水準にいきなり設定されても、その意味が十分に理解されないまま形式だけが調えられて有名無実になる虞があります。
またそもそも、人類は男と女だ、ならば社会の男女比は50:50にすべきだという二等分の発想はその取組が50:50という形式を死守することのみに向けられて男女を等しく不幸にする虞があります。
人間の認識は二等分というものには弱いもので、それは例えば車輛の前後重量比を50:50にした日産GT-Rが鳴かず飛ばずになったことからも窺えます。鳴り物入りで登場した日産GT-Rですが、2007年の登場から13年、一度も○モされることもなく早くも絶滅歓迎種となり果てています。カルロス ゴーンさんもGT-Rの企画を却下したらまだまだ日産の最高指導者であり続けられていたかもしれません。あんなものは現実には必要とはされないのです。元トヨタマンの私はラフェスタや初代ティーダが大好きです。
男子が多い社会や女子が多い社会、それぞれの現実に応じてあってよいのです。
寧ろうちの会社のように現実を勘案することなく無理矢理女子を多数にすることが少数の男子がその片隅でホモ社会を形成することになったりします。そのような路線を敷いた前社長もホモだったのではないかと疑われます。
国際女性の日はとりあえず女性というものについて考える日なので、いわゆるLGBTについては捨象します。私はLGBについてはそれがhomosocialism、同性社会主義とは無関係ならば全然OKだと思いますがTについては大筋では否定的です。ただ、私はLGBTという用語は属性主義、genderismを助長する余地があるのでHBT, homosexual, bisexual and transgendersと呼び改めるべきだと思います。HBT48が結成されると面白いと思います。
女子の差別については罰則を以て懲戒する。啓発だけや思い込み一杯の心掛けではなくそのような実行が必要な時代になっているのだと感じます。そのためには「国際なんちゃらの日」ではなくそれぞれの国がその権威を以て啓発と法制に積極的に取り組むことが望まれます。