インド旅③ 〜愛とは何か〜
2019.3.8 7:00
今日は朝早く目覚める。
それはなぜか、最初にインドに行こうと思った理由である「マザーハウスでのボランティア」をするためだ。
今日から残り3日間ボランティアを続ける。
そう思っていた。
とりあえず当日エントリーのみの受付を済ませると、その場で施設を割り当てられた。他にも外国人も大勢おり、一緒に施設へと向かう。
向かう施設は「Prem Dan(プレムダン)」という軽度の障がいを抱える大人の方々の施設。
この他にも、通称"死を待つ人の家"と呼ばれる施設や子どもたちや女性専用の施設などがある。
僕は大学生の頃から"死を待つ人の家"か子どもたちの施設へ行ってみたいと思っていた。
3〜40分くらい歩き、施設へと到着した。
参加者名簿に名前を書き、活動を始める。
活動内容の流れは基本的に以下の通り。
洗濯物干し→床掃除→軽食(チャイとお菓子)の準備片付け・食事介助→休憩→昼ご飯の準備片付け・食事介助→終了(お昼過ぎ)というものだ。
僕は施設に着いて活動するまではどこの施設のボランティアに登録しようか悩んでいた。
しかし、施設にて活動を始めるとその悩みではなく、別のモヤモヤが生まれてきた。
「今の俺、集中できていないじゃないか」
それもそのはず、ボランティア初日で利用者とコミュニケーションを取れるわけもなく、ただ指示されたことをこなすばかり。もちろん、初日だからこれが当然である。それは充分過ぎるほど理解できる。
しかし、活動中もそのモヤモヤに対して自問自答を繰り返していた。
それぞれの障がい種も分からない、読み取れないボディランゲージの意図、伝わらない英語。だから指示されたことをこなすだけ。
果たして自分が集中できていない状態でボランティアをしていると言えるのだろうか。
そして、残りの日数別の施設に行ったとて、同じことの繰り返しではないか。
でも、マザーハウスのボランティアに参加するのがインドでやりたいことの1つじゃなかったのか。1日でコミュニケーション取れるわけないんだから。やってみようか。
今の自分の思いと過去の自分の思いがぶつかり合う。
ふと施設の中の看板に目をやった。そこにはマザーテレサの言葉があった。
“Intense love does not measure, it just gives”
(愛は計るものではなく、ただ与えるものです。)
愛って何だ。マザーテレサはただ与えるものだと言葉を残している。
俺は今愛を目の前の人達に与えることができているのか。
出来ていなければここで活動するのは失礼なんじゃないのか。もっと理念を持っている人達が活動に参加するべきでは。
結局活動中にモヤモヤが晴れることはなく、もっと純粋に没頭できることに時間を使おうと判断し、1日でボランティア活動をやめた。
だが、そんな僕でも"愛する"ということにふと自分で気付いた瞬間があった。
それは、利用者の食事の介助をしている時だった。相手とのコミュニケーションは取れないため、相手を観察する。食べ方、飲み込む速さ、声、表情、手の動き。それらに自分の動きを合わせていく。
「どんなタイミングでスプーンを口に運ぶのがいいのか。どのくらいの量がいいのか。どんなスプーンの運び方が食べやすいのか。」
そんなことを考え、色々試しながら食事介助をしている自分にふと気付いた時、分かった。
「あ、マザーテレサの"愛する"ってこういうことか」と。
「愛は自然と相手を思いやることができる心のこと。そして、それは自然と自分から溢れ出てくるものなのだ」
言葉も何もかも通用しない相手を前にして、身を以て実感することができた。
まだまだ僕から溢れ出る愛の量は少ないかもしれない。しかし、この実感は自分の成長を感じられた瞬間でもあった。
大学生の頃に来ていたら、きっと気づくことはなくただ普通にボランティアをしていただろう。
こんな気付きのあったマザーハウスでのボランティアになりました。いい経験をありがとう。