雨の日に詩をよむ。「こころをばなににたとえん。」
今日はなんだか疲れてしまっていているようだ。
仕事から家に帰り、いつものように家事をこなす。
今日は雨というのだから洗濯物を家の中に入れて、猫のうんちを掃除し、お昼の弁当箱を洗う。
それらを済ませると、シャワーを浴びる。
スッキリとした後に、僕は現在読んでいる夏目漱石の「こころ」を手に取り、その世界へ入り込むのだ。
しかしリビングで読んでいると、どうもこくりこくりと微睡んでしまっていた。
慣れない仕事の疲れなのか、花粉症の薬のせいかなのかはわからないけど、今日はなんだか眠たくて堪らなかった。
本当は友達とPodcastをやろうと約束していたのだけど、延期してもらった。
たったの6時間程度材木を運んでいるだけなのに、疲れが溜まっているようだ。もう少し身体を労り、鍛えたいと思うようになった。
そんなこんなで僕は少し目瞑って休むことにした。
目を覚ますと、予報通り雨が降っていた。
静かな部屋でじっと耳を立てていると、ぱちぱちと地面を敲く雨の音が聞こえる。僕はそんな音に少しばかりの安らぎを感じてしまう。
雨の音に少しばかりの安息を感じるのは、僕だけであろうか?
そんな雨の音を聴き、僕は高田渡の「生活の柄」という曲を思い出す。
この曲は、山之内貘(ばく)という沖縄出身の詩人の「生活の柄」という詩にメロディーをつけて唄ったものだ。彼は山之内の詩を愛していた。
これは山之内が21歳の時に詠んだ詩。
山之内は19歳で進学のために状況をするも、1ヶ月で退学する。
そこから関東大震災を経験し、複数の仕事を渡り歩きながら生活をしていた。彼は結婚する34歳までの16年間を「一度も畳で寝たことがない」ような生活を続けていて、そんな暮らしの初期に創作した詩だそうです。
僕は今日の雨の日に、高田渡や山之内貘の「生活の柄」を聴きながら旅人たちに思いを馳せます。
彼らは、歩き疲れて、夜空と陸との隙間に潜りこみ、草に埋もれて寝ているのでしょうか、と。いまの旅人は、サービスエリアや橋の下なのかもしれませんが。
彼らは、雨の日、寒さに凍えながらも、こんな雨の日の音を感じて、目を瞑り、寝ているのでしょうか。
彼らは、過去のこと、現在のこと、そして未来のことをどんな風に捉えているのでしょうか。
僕はそんな生活の柄をなんだか羨ましくも思うのです。
そんな経験をしているからこそ、今の生活をより有難く感じているのではないでしょうか。
旅人に幸あれ。
旅人にほんの少し安らぎが訪れますように。
旅人に素敵や出合いがありますように。
そんなことを雨の音を聴きながら、思うのです。
そんな雨の日に、僕は萩原朔太郎の詩集を手に取りました。
萩原さんを知ったのは、ゲド戦記の「テルーの唄」がきっかけです。
僕はテルーの唄が好きで、よく気仙沼の海を眺めながら聴いていました。
そのテルーの唄は、宮崎駿の息子である宮崎吾朗さんが作曲をしているのですが、萩原朔太郎さんの「こころ」に影響を強く受けているのを知りました。
私たちがもっているとされている「こころ」とはなんなのでしょうか。
こころは、うつりかわるものなのでしょうか。
こころとは、なにものにも例えられる一方で、なにものにも例えられないものなのかもしれません。
僕らは、音なき音、声なき声の響きに、耳を傾けられているのでしょうか。
ふと襲いかかる悲しい気持ちや寂しい気持ち、
これらをなんと例えればいいのでしょうか。
なんでもかんでも言語化をする必要性はあるのでしょうか。
なんでも良い方へ捉えようと、切り替えるのはとても素晴らしいことだとは思います。
しかし、なんとも言えないこの心持ちを味わうこともまた、僕には価値があるのだと思いたい。
言葉にはできない、その向こう側の世界を信じてみたくなるのです。
病むのではなく、味わうのです。
雨の日に、詩を読んでみるのもいいですね。