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2023/02/27 田中慧日記 #4

日記を適当に書き始めて4日目だ。俗にいう三日坊主は超えた。「三日坊主」というくらいだから、3日の壁みたいなのがあるよなあなんて今思った。きっと奇数なんじゃね?いや3のつく数字なのか?3日、30日、3ヶ月、3年なんて思ったりしている。とにかく自分で自分のハードルを上げてはいけない。何を書くかも決めない。今打ちたいことをただ記録するだけ。この作業に関しては意味なんて考えてはいけない。とにかく打ちたいことを打つ。そうやって小さな成功の体験を積み重ねいく。そういう積み重ねなんだと思う。これは日記だけじゃない。運動というのも最初から、目標設定高くすると窮屈になってしまう。だから最初は親が身体痛いと言っていたから、親の健康改善の建前でいいことをしている感を出して、モチベーションを上げて、一緒に運動をしている。一人できないんじゃいのか、みたいなのは考えない。きっと僕も含めて、現代人は考えすぎなのだ。情報社会で無意識に考えさせられている。だから考えないで続けるのだ。これだ。きっと。ただ考えると意識的に、主体的に考えると決めたことは考える。それが僕の現段階の処方箋であり、坂口恭平さんに学んだことでもあるし、というか考え方を盗んだことであるから、やるんだ。そんなことはもとより、今日は郵便局に行き、記帳をして、自分の通帳のキャッシュの流れを可視化させた。いい天気だった。ただ花粉症なのか、くしゃみが止まらなくなった。春の訪れを感じた。このままだ厳しいので、家に帰って、花粉症の薬を飲んだ。幾分か、よくなった様に思う。いつものように、図書館へ車で向かったが、休館の2文字。今日は月曜日だ。ゆっくり休んでください、司書の皆さん。それでどうしたもんかと思ったんだけど、ただ車を走らせることに決めた。ドライブのお供は、坂口恭平さんの音楽だ。今書きながら聴いてもいる。音を楽しむ。生の喜びを噛み締める。ありふれた日常や環境のささやかな幸せを認知できるような音楽なのだ。芸術なのだ。芸術とは、生き方、生きている態度なのだ。artはラテン語のars、ギリシア語のtechnから由来されていて、「学問」と「技術」の2つの意味を内包している。これは「藝術」もそうだそうだ。学問は勉強ではない。その人が経験から何を学んできたのか、どんな哲学を持っているのか、何を考えているのかの集合知なのだとふと思った。それすなわち知性だ。学術的にはわからない。が、そうだと仮定しておこうと思う。技術は、その名の通り技術。技術ってなんだ?言葉でうまく説明出来合い。技だ。何ができるのか、みたいイメージなのだと思う。つまり、生みだせる、創り出せるということなんだと思う。そういう風に考えると、藝術や、創作のようなものは、職人やクリエイターと呼ばれる人の特権ではない。私たちの生き延びるための技術や態度そのものが藝術である、artであると言えるのではないのか?と思うんだ。だから坂口恭平さんは様々な創作活動を行なっているが、私が今まさに聴いている音楽は、彼の生きている技術や態度、世界への表明なんだと思う。そんな坂口さんの生き方、生きている態度そのものに尊敬と畏敬の念がある。惹かれているのだ。そんな音楽に半ば陶酔した感じで、ドライブしていた。それでドライブしながら、坂東市にあるミュージアムパークという自然科学館の表札を見かけ、小学生ぶりに行ってみようかなと思い向かった。そしたら「休館」の2文字。あああ、ゆっくり休んでください〜と半ば発狂じみた感じで後にすることになる。それで守谷市の方へ車を進め、喫茶店を発見し、そこへお邪魔した。コーヒーが250円の価格に驚愕したがそこそこ居心地が良かった。そこで芥川の「地獄変」を読んでいたのだが、なんだか今日は集中力がなかった。それで3月に林業を学びたいと漠然と思ってふるさとワーホリなんかを色々探していた。3月はどの様にしてお金を稼ごうかなあなんていうのが頭をよぎったためである。期間工に受かったとしても4月4日が最短の入寮なので3月はフリーなのだ。なんとなく不安というか、3月どうやってお金稼ごうかななんて思っていた。タイミーでもいいんだけど、時給1000円程度の労働であれば、外へ越境し、自分の課題意識や好奇心からくる現場を学びながら働かせていただく方が自分にとって長い目でいいと思ったからである。だから、ソワソワしていた。と同時に、お金の可視化はしていたものの、3月はどれかくらい稼ぐのか。、最低限いくらなのかなどの具体的な数字ベースで理解はできていなかった。だから喫茶店を後にし、僕は公園へ向かった。公園へ向かう前に自分の鏡を見たときにほぼ寝起き同然の姿がなんだか滑稽で、床屋も行きたくなったので床屋も予約した。公園には小さな山が真ん中にあった。公園では子どもたちがちらほらいて、各々遊んでいた。自転車レース。遊具で遊んでいる。砂場で遊んでいる。中間層が住んでいるであろう住宅街の真ん中にある公園。公共空間で、こうやって遊んでいる姿がとても嬉しい気持ちになった。設計した人すごいなあと思った。その山に僕は登った。少し高いところから見渡すと、俯瞰できる。街にいる自分。公園で遊んでいる子どもたち。抽象化できる。これから何か息苦しい時は、高いところにのぼり、抽象化してみようと思った。何より高いところで吸い込んだ空気はなんだか美味しく感じた。心地いい風を感じた。空はただの青ではなく、グラデーションで、時間と共に赤く、青く、オレンジで、白で、それが美しいなあと思った。とても気持ちよかったんだ。そんな感じで気持ち良くなった後、ベンチに座り、2月の収支を洗い出し、勘定科目を再定義し、固定費と変動費に分けた。それだかで今の自分を見える化できて、客観的に判断できる材料になる。たかがこれだけだけど、されどこれだけだ。明日に3月の戦略を立てようと思う。子どもたちが突然、こんにちは!と元気よく挨拶してくれた。反射的に挨拶を返した。いい教育をされているんだなあ、純粋だなあなんて感心した。挨拶しましょうね〜っていうのを体現している。挨拶されるのって悪くないよね。僕も挨拶を元気にできる様にしようと思ったよ。その後、床屋に行った。床屋の人が面白かった。1on1だから丁寧で、会話も弾んだ。僕は敏感肌・乾燥肌の皮膚質で、髪に油分がそこまでない。毛量が多い。だから弱酸性でアミノ酸がたくさん配合されたシャンプーがいいらしい。そして、髪が薄くなるのを機に始めた今が予防をする時期なのだそうだ。僕の母型のお父さん、つまりおじいちゃんがいわゆる禿なので、僕も禿げる可能性が高い、だから2択だ。ハゲを受け入れて、ハゲに似合う男になること。あるいは、しっかり予防して、ハゲを遅らせるということだ。まだ剥げたくないと思っているので、予防しようかなあなんて思った。だって後からAGAとかで金払うのバカじゃん。今のうちから受け入れる準備をしておこう。そうすれば怖くないんだ。店主とマネーロンダリングの話から税金の話、将来の話や海外の話などをして盛り上がった。今思ったんだけど、今日は書きたいことが多いらしい。またあの理容室行こうと思った。帰ってから母のご飯を食べて川嶋と久しぶりじゃべった。彼はやはり友達だと思った。友達とは?なんだろうね。まず僕は知り合いは多いと思うんだよね。だけど友達は数えるくらいかなと思った。こうやって、僕が土地を離れ茨城に戻ったときに、「あいつ元気にしているかな?あの方にはお世話になったよなあ」と思いを馳せる人は意外に少ない。友達にもランクがあるのかもしれない。ランクとか言いたくないけど。友達+的な。その上に親友などがいる感じなのかな。ただ川嶋の声色聴いて、僕は嬉しくなった。彼ともっと喋りたいと思った。彼の声に懐かしさを感じた。まず、声が重要だと直感的に思った。彼のことは僕はずっと応援したい。何か助けになれるような人間でありたい。彼の悩む心、不安を感じる心、私は痛いほどわかる部分もあるんだ。彼自身ではないからわからないんだけど。彼はラベルから見ると、高学歴・医者の息子とか生徒会長とか、団体の代表とかそういうやつだ。普通に隙がない様に見える。でも彼は隙を出すが、実は出さない。そして他人優しい。というか一部には優しい。友達を大事にする。断らない、いや断れない、分からないがそういう間にいる。彼の時間をみんなは共有し、受け取っている。彼はよく笑う。彼は真剣に言う時は言う。ただ結構白黒つけるところもある。意外に臆病ものだったりもする。悩む時はちゃんと悩むが、笑っている。発散というより、抑圧されている。彼の心はもっと解放されることを願っている。正解で生きてきたからこそ、正解がない社会は、まるで砂漠だ。さあご自由にどうぞ。そんなことを突如言われても困る。ただ彼は選んだ。それを選んだ。その選択は正解か分からない。誰もわかるはずがない。未来の現実にそれがわかる。time will tellだ。だから今を問われている。だけどそりゃ悩む。新しいこと、新しい道を選んだら、きっと悩む。怖い。きっと痛い。今も痛い。ほんとは泣きたいはずだ。大きく見せる必要もない、かといって小さくみつもる必要もない。今が、彼だ。これは僕に言っているのかもしれない。これはとても孤独だ。孤独との戦いなんだ。ただ奎は孤立していない。だから孤独と向き合っていく、うまく付き合っていく必要性があるんだ。遠い道のりだ。きっとそうなんだ。これは真っ暗な道を歩き出す勇気があるかの問題なんだと思う。でも彼はそれを選んだ。僕はそのことにとてもリスペクトしている。怖いよな。でも選んだんだ。きっと暗闇でも、君自身が照らしている。その道を。まだ懐中電灯にもいかない、豆電球くらいかもしれないよ。けどこれから懐中電灯になり、LEDになりってどんどん照らせる範囲が広くなっていくんだ。きっとそうだよ。そして、誰かを照らす存在になりえるんだ。俺は何様なのかわからない。まじで急になんなんだと思った。僕は友達と思っているから、おせっかいを言いたくなる気持ちがあるんだよ。これはおせっかいのよう見えて、実は応援歌だ。あくまでも僕は見守るスタンスだ。そういう間柄だ。なんでも与えてはいけないんだ。与えるなんて上からかもしれない。そもそも何もあげれない。お金を上げることはできない。だけど、何かをあげる、というか、自分の想いをシェアしたいという衝動に駆られているんだ。彼が考えることに意味がある。彼が考えたから意味がある。僕は今になって、お世話になってきた尊敬する人が僕に言っていたことが少しだけ分かる様な気がするんだ。自分で決めることが大切なんだ。ただ大切に思う人ほど、見守りたい一方で、口を出してしまいたくなるものだ。きっとそうなんだと思う。人の心配はするものなんじゃなくて、してしまうものなんだ。きっとそれが真実だ。だからしてしまうまで、僕は自分の心配をし続けようと思う。あえていう、川嶋頑張れよ。俺も頑張るから。一緒に頑張ろうなって、彼には直接言わず、僕は心の中で声を大にして言った、共感はするけど、同情はしないからな!って。絶対にお前を憐れんだりしないからな。ライバルなんて思ってもない。土俵が違う。一緒に何かを生み出す仲間だ。奎といい景色を見てたいんだ。俺だいぶ奎のことが好きなんだと思う。好きになったんだと思う。等価交換みたいで癪だけど、俺がきつい時に一緒にいてくれた。一緒にランニングをしてくれたあの時間が僕には必要だった。僕はとにかく正解を求めていた。誰かからの承認、他人からの尺度で自分を秤にかけていた。それの顛末が自分で何かを決めることができなかった。本当に苦しかった。自分を決めることを延ばした後に待っていたのは、自己責任と他者の残念そうな顔だ。これがとても苦しかった。どれを選んでも、誰かが苦しむ姿が思い浮かぶ。誰かを悲しませる即ち、僕自身の価値が揺らぐんだ。そんなわがままな論理で、相手を、自分を苦しめてたんだ。何度もここじゃないどこかへ行きたいと思ったか。自分が変わらなくては、と何度自分を奮い立たせようとしたか。でも僕は変われない自分を恥じたし、自分が情けなくて何度も泣いた。現実でも、心でも泣いた。そんな時に、奎の一緒に時間を共有してくれたことに救われた。何も聞かないで、走ってくれたことが今思えばとても有り難かった。そんな奎だから僕は好きになったんだと思う。わかりやすい奴ですまん。僕は今は誰もを愛すことは出来ない。全員に良くすることも疲れるのでやめる。無理に友達をたくさん増やそうとするのもやめた。きっと友達というのは、友達になっていくものなのだと思う。奎とは4年ぐらいの付き合いで、友達になっていたんだ。そんな友達である奎へのスタンスはなんだろうと思った僕の頭の中を丸裸にしてみた。これが僕の友達としての態度、姿勢だ。ここで表明しようと思う。そして、いつも楽しい時間をありがとう。君がいるから僕の人生は豊かになっているんだ。ありがとう。そして明日は瀬田に会い、あおいと会う。とても楽しみだ。めちゃくちゃ楽しみだ。やばいAM1:21なってしまった。これは日記の書く時間で区切った方がいいかもしれない。でも文章を書くのがとても時間のかかる人間だったけど、人に見られる前提を省き、正解なく、かっこよく書かず、ただ書くだけなら、約30分で4000字かけることがわかった。いい学びだった。少しだけギターをやって寝ようと思う。

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