効率・合理な話
先日友人と会話してたら「こんな漫画みっけてん」とオススメされて読んでみた。
挨拶は10円の価値らしい。よくよく読んでみると陽キャと陰キャのユージョー的なキャンパスライフ?な話だった。
確かに10円投資という考えはアリですね。こんな発想はなかったなぁ。
どこぞの国では挨拶しないと不審人物としてピックアップされるとかなんとか。挨拶が敵意のない証になるんですって。
10円の挨拶で向こうが返さなかったら10円の損害、でも実際は妄想通貨であるし、労力も微々たるもの。ただ陰キャが挨拶するのはけっこうな労力なので10円以上かかるけどね。
その辺を加味したら陰キャが挨拶返してくれたら絶対10円以上の価値あると思うんよな。また挨拶したくなるし嬉しいと思うよ。それで漫画の陽キャも陰キャと友達なのかもね。確実に10円以上のものを提供してくれる人なんて最高やん。
たぶん10円(妄想通貨)に幸せコイン(妄想通貨)を足してくれるからだと思う。それならこちらも、となるなぁ。それで信用とか信頼が生まれて、という流れになるやもね。
そういう10円に付加価値をつけていく事こそが効率・合理の考えだと思うんだけど、実際にイメージされる効率・合理はコストやタイムパフォーマンスなんですよね。算盤たたいて儲かるならみんなやってますし、数学者はかなりのステータスになってるはずです。
でも現実は理不尽な出来事や不測の事態によりパフォーマンスが低下して~となり、数学者も心理学同様に一部の人にしかわからない領域から出れていないです。
社会、というか世界は以前の記事じゃないけど理不尽や欺瞞に満ちています。理不尽に耐性というか何等かの処し方が身につかないとただただ消耗して精神を病んでいくのみです。
それを打開する手段としての「自己投資」「他者投資」ではなかろうかと。投資する亊こそが効率・合理ではないかと思うのです。
確かにそれには算盤が必要ですが、計り方、目盛りは違うのではないかと。
痛い目を見ずに痛い目にあわない方法なんて存在しないし、A・Bの選択肢どちらが正しかったかどうかなんて判別・証明する亊なんてできないのだから痛い目を見る亊が利益になったり、選択肢を熟考するのが損害になったりする事もあります。
自分の算盤で「効率・合理」を追うのが重要な亊で、他人の「効率・合理」は無視していいと思います。他人の指示で良くなったら自分が実行できたおかげです。他人の指示で悪くなったら自分が実行したせいです。これは不文律としてあるのではないかと。
要約すると自分の算盤を見直したほうが自分に役に立つ、という亊です。自分にとって利益とは何か?その利益は何に関与してどういう影響を自分にもたらすのかをちゃんと定めてこそ効率・合理ではないかな。
目先のパフォーマンスだけだと効率・合理とは離れていくのでは?
という亊です。
IQだってあれが人類の知能全てを表現している訳ではない。IQ20の差でも会話は可能です。