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#77 エルサレム旧市街散策!🇮🇱
7/2 嘆きの壁&黄金のドーム/マハネ・イェフダ市場散策
早朝7時に「嘆きの壁」へと向かう。英語では「The Western wall(西の壁)」と呼ばれている。ホステル横のチェーンゲートからはイスラム教徒しか入れないらしく、兵士に止められてしまった。少し戻ったところに観光客用のゲートがあり、金属探知機に荷物を通して入場する。
まだ早朝とあって観光客はほぼ自分一人。残りは朝から熱心に祈りを捧げるユダヤ人たちだ。彼らの格好は興味深い。つば付きの黒帽子に黒いローブを白ワイシャツの上に着ている。腕に黒い紐状のロープを巻き付け、ズボンからは白い紐の束をオシャレに出している。もみ上げは生まれた時から切らないそうで巻き髪にしている。嘆きの壁の前で旧約聖書を開き、目を閉じて、頭を上下に揺らしながら祈っているのだ。
ちなみに「嘆きの壁」とはヘロデ大王時代に造られたイスラエル王国のエルサレム神殿外壁の現存部分である。
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イスラエルの歴史を話すと長い。二千年以上前、パレスチナ地方にユダヤ人の王国があったが、その王国が滅ぼされ、ローマ帝国が支配することになった。ユダヤ人は抵抗を試みるが弾圧され、各地に離散する(ディアスポラ)ことになる。ヨーロッパ全体がキリスト教国家になっていく中で、ユダヤ人は自分達の宗教を棄てなかった為に各地で迫害されてきた。その中でも「いつか祖国に戻りたい」という思いを持ち続ける。しかしユダヤ人がパレスチナ地方から出て行った後の地にはオスマン帝国の人たちが住み着いている。
そこに目をつけたのが大英帝国だった。有名なイギリスの三枚舌外交である。
第一次世界大戦当時、オスマン帝国と対立していたイギリスはパレスチナに住んでいるアラブ人の人たちに、「自分たちに協力してオスマン帝国内で反乱を起こしてくれたらアラブの独立国家の建設を認める」と密約した。(1915年フサイン=マクマホン協定)
一方でイギリスは戦争資金を援助してもらう為、ヨーロッパにいるユダヤ人に対し、「オスマン帝国を滅ぼしたらナショナルホームを創ることを認めるぞ」とも約束していた。(1017年バルフォア宣言)
そしてこの二つの密約の裏で、イギリスはフランスとの間で、「オスマン帝国を滅ぼしたら、領土を山分けしよう」と協定を結んでいたのだ。(サイクス=ピコ協定)
この結果、イラク・クウェート・パレスチナ地方はイギリスに、シリアやレバノンはフランスのものに。アラブ人の国としてヨルダン、世界中のユダヤ人が大挙して入植してきた。カオスな状況である。よってこの辺りでは、ユダヤ人とアラブ人の争いが次々に起こるようになってしまったのである。困ったイギリスは国連に丸投げした。それからも国連のパレスチナ分割決議案に反対したアラブ側が戦争を仕掛けるという流れ(第一次中東戦争)となり、火種が燃え広がっていった。
イスラエル国旗と嘆きの壁とを同時に写真に収めたあと、今度はイスラム教の聖地「黄金のドームの方へ向かおうとした。行き方が分からず、一旦出てきてしまったのだが、嘆きの壁の右側にある木組みの橋を渡ると行けるそうだ。再度手荷物検査を受けて入場した。
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黄金のドームは朝日を浴びて文字通り金色に輝いていた。美しいのは幾何学模様の細かさである。アラビア文字は全く読めないのだが。東側を覗くと山の全体がお墓で埋まっている光景が見られた。おそらくオリーブ山のジューイッシュ墓地だろう。
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一旦宿に帰ると、オーナーの奥さんから朝食のサンドイッチを手渡してくれた。今日の昼飯にしよう。朝早かったので少しベッドで仮眠を取った後、ユダヤ人居住区に遊びに行った。中心には立派なシナゴーグ(会堂)があり、中央の広場では無料Wi-Fiが飛んでいたので、休憩がてら子どもたちのサッカー動画を観る。
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イスラエルには徴兵制がある。エルサレムのユダヤ人地区では若い男女の兵士を見ることが多くなる。面白いのは彼ら彼女らが機関小銃を肩に下げながらアイスを食べていたり、スマホを触っていたりすることだ。そしてノリの良い若者が多いのか、自分が町の写真を撮っているとピースをしてくる女性兵士たちもいた。
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エルサレム旧市街の区画にはサッカーコートのような大きな運動場はおそらく無い。子どもたちが遊ぶのは小さな広場の一角だ。それだけのことなのだが、何かとても深いことのように感じた。
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もう一度聖墳墓教会を見学してから、旧市街に一旦別れを告げて、今日はダウンタウンの方の宿に移ることにした。バックパックを背負って30分ほど移動する。今日泊まるホステルは「Cinema Hostel 」といい、西洋人が多く泊まっていた。ホステル前にアジア人向けのスーパーがあり、フィリピンのインスタントラーメンを4つ10シェケル(400円)で確保できた。他の店は水の値段から高くて入る気にもなれない。
マハネ・イェフダ市場にも足をのばしてみたが、市場なのにパンも果物も全てが高かったので何も買わずにホステルに戻ってラーメンを食べた。