#95 【前半】チュニス5日間滞在!風邪をひく🇹🇳
8/9〜13 チュニス観光/日本人の青年とチュニジア料理堪能🍳
発券ハプニングがありつつも、チュニス・カルタゴ空港に降り立つことはできた。さて、これから入国審査に向かうわけだが、滞在期間を説明された場合はどう答えれば良いのだろうかと思案した。正直に答えるべきか、搭乗の為一時的に購入したリヨン行きの日付までの期間を申告するべきか。そんなことを考えているうちに自分の番が来てしまった。幸い、何も質問されずに入国スタンプを押してくれたので杞憂に終わった。
今日の宿までは徒歩で40分のところにある。ここでタクシーなんぞは使わないのが金なし旅行者の掟である。トイレを済ませ、昇ったばかりの朝日を左手に浴びながら歩いていく。何台ものタクシーが通り過ぎていくのでチュニジアもタクシー大国なのだろう。空港前の道は一直線で、スピードを出す車が多いので気をつけて歩いていく。🛣️
ところで、チュニジアの言語は第一がアラビア語、第二がフランス語だ。通る人たちに「ボンジューh」と挨拶をすると、ちゃんとフランス語で挨拶が返ってくるのが新鮮だった。
チュニスの住宅はどれも白を基調としていて、カイロからやってきた自分の目にはかなり清潔に見える。太陽熱を反射させる目的なのだろうと勝手に推測する。今日のホステルもモダンな白い住宅で、インターホンを押すとヨーロッパ系の女性がドアを開けてくれた。彼女も旅行者らしい。「スタッフはまだ寝てるみたい。ソファーに座っててね」という。先客には飛行機内で見かけた若い女性が到着していた。
テラスの椅子に腰掛けていると、日本人の青年が起きてきた。彼の名前は島本さん。海外のジムを巡るという変わった趣味があるらしい。訪れた国はトータル80か国以上に及ぶとのことだが、それぞれの旅は短期間が多いらしく、チュニジアにもにも2泊しかせずに次の国、アルメニアに向かうらしい。曰く、
「旅をし過ぎて、遺跡とか観光も面倒くさくなってしまう」とのことだ。
この感覚は自分にはよく分かる。一週間程度の旅行ならば、多くの観光地を回れるように効率よいルートを事前に調べて旅の経験を最大化しようと努めるが、長期旅行者にはタイムリミットがない。「思い立った時に行けば良いや」と思ってしまうが故に熱が入らないのだ。もしも人間が不死ならば、これと同じ事が人生という舞台でも起こってしまうのだろうから、寿命という概念は人類には必要なものなのだろう。
彼と一緒に昼食を取ることになった。歩いて30分のところにチュニジア料理のレストランがあるらしい。「スルタナ」というレストランで、ボロネーゼ、ツナサラダ、そしてオジャという伝統料理を頼んでシェアする。量の多さに驚いた。チュニジア料理には唐辛子やししとう、ハリッサという辛味調味料がよく使われていてかなり辛かった。残念ながらオジャに旨みはあまり無かった。隣に座ったチュニジア人と英語での会話を挟みつつ、予想外の量のため、最後の方はフードファイターのようになっていた。
食後、彼はトラムで旧市街へ行き、自分はホステルび戻った。ハンモックが付いていてこれがかなり気持ちよかった。
翌日、喉の調子が良くなかった。エアコンの調節がずれていた所為と、旅の疲労もあるのだろう。午前中はホステルでダラダラ過ごしていた。ホステルのスタッフは女子大生の「シャイマ」で、現在夏期休暇の間、バイトとしてホステルのスタッフをしているそうだ。
午後、明日の動線確認も兼ねて、15時に路面電車に乗って中心街に行こうとしたが、待てども待てども電車が一向に来る気配がなく、2時間も駅で待たされることになった。
町の中心は並木道がしっかりと整備されていて、古着屋の露天商が多くあった。もう少し見て回ろうとしたが、微熱も出てきていたので、フランス門近くの食堂でチキンライスを食してからホステルへと戻った。戻る途中の町で子どもが縄跳びをしていたので自分もやってみたが、そのせいで頭痛が一層酷くなってしまった。EVEクイック頭痛薬を服用してすぐにベッドに入った。
次の日、美人スタッフのシャイマにチェックアウトを告げ、中心街へと向かった。「Hotel Dar Ali」というホテルに今日から3泊する。風邪気味だから個室は有り難かった。夕食を取りにフランス門近くに行った。昨日とは別の食堂に入り、マルゲリータピザを注文したのだが、これが相当不味かった。チーズの塩味もなければトマトペーストの味もしない。こんなピザは初めてだった。果たしてピザと呼べるのかすら疑問だ。
風邪は本格的になっていった。喉が痛い。しかし頭痛や熱は無かったので、それだけは幸いだった。このような体の不調をきたしたのはインドで腹を壊した時以来だ。考えてみれば、あれはもう3ヶ月前のことである。もうずっと昔のことに思える。
この旅に出て良かったと思える一つは、学生時代や社会人時代と比較して、体感的に時を経るのが遅く感じれていることだ。
一刻一刻、一日一日が違って新しいからであろう。少年時代に感じた、小学校が永遠に続くのではないかと思えたあの時間の流れくらい長く、ゆっくりに感じるのだ。この幸せを存分に、もう少しだけ浸っていたい。