#146 「オキナワ移住地」資料館訪問!🇧🇴
11/22 コレクティーボ(乗合タクシー)でサンタクルスターミナル→経由地モンテロ→オキナワへ
サンタクルスから車で2時間ほどの場所に「オキナワ移住地」という日本人街があるようだ。太平洋戦争後の沖縄では、過度な人口増加と土地不足に悩まされていた。戦前からボリビア・リベラルタ市に移住していた沖縄出身の移民が、郷土で喘ぐ同胞を救おうという計画を立て始めた。そこに先述した背景から琉球政府の移民推進もあってこのサンタクルス郊外の土地に入植させようと画策したらしい。そのような経緯を詳細に記録した資料館があるということだったので行ってみることにした。
ホステル御用達のランドリーサービス店に洗濯を頼んでから、通りがかりのターミナル行きバスに乗った。運賃は2ボリ(42円)。サンタクルスバスターミナルには9時に到着した。
朝飯としてチーズ入りエンパナーダとバナナを四角状に固めて上にチーズを乗せたものを合計9ボリ(191円)でテイクアウトした。ここからまずは中継地であるモンテロという町に行く必要がある。コレクティーボ(乗り合いタクシー)があり、自分が乗り込むとすぐに出発してくれた。モンテロまでの運賃は12ボリ(255円)という破格の料金だ。
高速道路の料金所みたいなところで飲み物や果物を手に持った売り子のおばちゃんたちが車を覗き込んで売り歩いているのが印象的だった。10:20、モンテロ到着。ここでオキナワ行きのコレクティーボに再度乗り込む。「オキナウア、オキナウア!」呼び込みの声が面白かった。まさかこのボリビアに地で沖縄の名前を聞くことが出来るとは。運賃12ボリ。人数が集まるまで30分ほど待たされたが、無事に出発してくれた。
ここからの道は東へと伸びる一本道で、あたりは畑や雑草が生い茂っている。30分走ると、「めんそーれ オキナワへ」と日本語で書いてある(笑) ここからがオキナワ移住地のようだ。車窓から「釣り堀倶楽部」という漢字も見えた。11時半、オキナワ第一移住地に到着した。第三移住地まであるそうだが、役所などの中枢は第一に集まっているらしい。ボリビアの田舎で日本語に触れる感覚は少し変な感じがした。さっそく資料館に行くことにした。途中に「オキナワ第一日ボ学校」と書かれた学校を見つけた。何人かの子供が迎えに来たお母さんと一緒に車で帰宅するところだった。お母さんが子どもに「サヨナラって言うんだよ〜^_^」と言うと、子どもが先生に「サヨナラ〜」と言う。何という微笑ましい光景だろう。
オキナワ移住地日ボ協会の窓口で日本の顔立ちのお姉さんに「すみません、資料館を拝見したいのですが」と尋ねると、11時半から14時半までの3時間はお休みらしく、「14時半にまた来れますか」と日本語で言われた。丁度良いので昼食を取ることにした。
歩いていると、「比嘉食堂」と書かれた店を見つけたので入った。サラダとミラネサデポリョ(鶏のカツレツ)を25ボリ(531円)で注文した。醤油が置いてあったのがいかにも日本らしい。
食事の後は睡魔が襲ってきたので公園のベンチでひと眠りした。なぜだか疲労が溜まっているらしい。木陰での昼寝ほど気持ち良いものはない。
気づいたら14時半になっていたので、再度文化会館に赴いた。文化会館前には、小室さんと結婚された眞子内親王殿下が植樹された「アメリカデイゴ」の木が美しく花を咲かせている。職員の方に頼んで資料館の鍵を開けてもらった。
「右側から一周するように見ていってください。資料も良かったら持って行ってください」「ありがとうございます。終わったらまた声掛けます」
資料館にはこのオキナワ移住地の歴史年表が手書きで書かれて貼られていた。字体的に子どもが作成したのだろうか。細かく記載されている。
「打ち込みポンプ完成。二ヶ月ぶりに汚水、塩水生活を脱し真水にありつく」という一文が、開拓がどれだけ大変だったかを物語っている。もともと住民に与えられた土地は木々が雑草が生い茂り、移住者たちは斧一本で開拓しなければならなかったそうだ。年表とともに貼ってあった、「父母会の趣意書」の文言を読んだ時には自然と涙が出てきた。
当時使用していた道具や衣類、写真が展示されている。川の氾濫や干ばつの大災害にもへこたれずに開拓し続けた様子を映したそれらの写真をみて、当時の人たちの開拓精神、開拓魂、その想いが肌で伝わってきた。気づけば1時間半が経過していた。終わりに来訪者名簿に記帳させて頂いた。元外務副大臣、佐藤正久氏のサインメッセージもあった。
商店の入ると黄色いたくあんが売っていた。ボリビアの地で沢庵が食えるとは!自分へのお土産として買って帰った。