見出し画像

■【より道‐51】戦乱の世に至るまでの日本史_運命を分けた「承久の乱」

室町時代に征夷大将軍であった足利一族や、四職である山名氏、京極氏との血縁戦略をとっていたご先祖さま。

決して日本のトップではないですが、なかなか良い立ち位置にいたんじゃないかなと想像していますが、ある大戦をキッカケに衰退したことは間違いないと思います。

それは、室町幕府を終わらせるほどの大ダメージを負った「応仁の乱」です。「応仁の乱」は、登場人物や因縁関係などが複雑なので覚える気にもなりません。戦国時代の戦とは違い現代の人たちには、あまり人気のない戦だと思います。

自分も、中年のオジサンになるまで学ぶ気が一切なかったのですが、ファミリーヒストリーにつながるとなるとやむを得ません。我々一族のターニングポイントとなった戦ですので、なんとなくの流れだけでも整理していきたいと思います。


■ 鎌倉武家政権
「応仁の乱」を理解するためには、室町幕府について理解する必要があると思いますが、そのためには、武家政権の歴史を知る必要があるはずです。

平安時代末期におきた「源平合戦」は、源氏の天皇二十一流派の血筋をもつ武士たちが、平氏の四流派の血筋をもつ武士たちに勝利したことで、武士たちが政治を行う鎌倉幕府を開くことになりました。

源氏の頭領、源頼朝は、朝廷より「文治の勅許ぶんじのちょっきょ」と呼ばれる、諸国の守護職を任命する権利を得ると「源平合戦」で活躍した一族たちに所領を与えていきます。

1186年(文治二年)に長谷部氏の祖である、長谷部信連は伯耆国日野に流浪の身となっていましたが、「源平合戦」のきっかけをつくった、後白河法皇の皇子、以仁王もちひとおうを救ったという功績を称えられ、鎌倉殿より能登の大屋庄を賜りました。我々は、そのときに伯耆に残された一族の末裔ということになります。

鎌倉幕府は、守護職を設置することで諸国の治安維持を担当したものの、最初の頃の支配地は限定的でした。しかし「承久の乱」や「元寇げんこう」などを経て、全国的に支配権を確立するようになったそうです。

ちなみに自分が学生の頃に覚えた「いいくにつくろう鎌倉幕府」の1192年(建久三年)は、源頼朝が征夷大将軍という武士のトップに任命された、現代で言うと軍隊のトップに任命されたときのことを指すそうです。

なので、現在では鎌倉幕府は、「壇ノ浦の戦い」で平氏を滅亡させて、朝廷より「文治の勅許ぶんじのちょっきょ」を任された1185年(文治元年)に成立したといわれています。


■ 北条氏の台頭
源頼朝が1199年(正治元年)に亡くなると、幕府内はごたごたしたそうです。源頼朝の息子は、政治に興味をもたなかったので、名ばかりの征夷大将軍となり、代わりに源頼朝の妻である北条政子が、有力御家人13人と政治体制をつくりました。「十三人の合議制」と呼ばれています。

その後、源頼朝の二人の息子が殺されてしまいまして、とりあえず、源頼朝の遠縁にあたる藤原氏を征夷大将軍に任命しますが、この状態に不満をもった第82代・後鳥羽天皇が、政権を朝廷に取り戻そうと討幕を企てます「承久の乱」です。

この頃の、日本の状況を整理しますと鎌倉時代といっても、1221年(承久三年)「承久の乱」が起きるまでは、東日本は鎌倉殿、西日本は朝廷が統治していたそうです。

そもそも鎌倉幕府は、「源氏の血を引く一族」と「平氏の血を引く一族」との戦で源氏が勝利したのにもかかわらず、執権は平氏である北条氏が握るようになってしまいました。そこで朝廷は、平氏政権の打倒と日本全土の統治回復を目指したということになります。

「承久の乱」は、近江源氏の佐々木氏一族などをはじめ、西日本の有力御家人が、後鳥羽天皇に加勢し、朝敵となった北条氏討伐に向かったそうですが、まさかの、北条政子尼将軍の涙の演説で坂東武者たちが立ち上がり幕府側が勝利しました。そして、この勝利によって鎌倉幕府は西日本にまで影響力を広げることになります。

【北条政子尼将軍の演説】

「皆心を一つにしてお聞きなさい。これが私の最後の言葉です。故・源頼朝公が朝敵を征伐せいばつして、鎌倉幕府を草創そうそうしてから、官位といい、俸禄といい、その恩はすでに山よりも高く海よりらも深いのです。

恩に報いようという志が浅くはありませんか。しかるに今回、逆臣の讒言ざんげんによって、道義に反した天子の命令が下された。名を惜しむ者は、早く上皇方の首謀者らを討ち取り、三代将軍の眠る、この鎌倉の地を守りなさい。ただし院方に参ろうとする者は、ただ今申し出るとよい」

「承久の乱」は、我々、長谷部家のファミリーヒストリーに重要な戦でした。なぜなら、長谷部氏の親戚である三浦氏や山名氏は「承久の乱」で鎌倉幕府方に味方をすることで勢力を伸ばし「尼子の落人」と呼ばれている我々の「DNA」のご先祖さま。佐々木氏の大半は、後鳥羽天皇に味方して粛清されているからです。

桓武平氏の血族である長谷部氏。宇多源氏の血族である佐々木氏(京極・尼子)。源氏と平氏の血筋のはざまでなんとか命が繋がりいまの自分があることを不思議に思う、今日この頃です。


<<<次回のメール【154日目】本領安堵

前回のメール【153日目】年代記>>>

いいなと思ったら応援しよう!