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■【より道‐61】戦乱の世に至るまでの日本史_王政復古の野望「建武新体制」

1185年(文治元年)に鎌倉幕府が開かれて、1221年(承久三年)の「承久の乱」で北条・平氏が鎌倉と京都を統治したことで、全国的な武家政権がはじまることになりました。

それから百年の時を経て「元弘の乱」で勝利した後醍醐天皇がついに「武家」ではなく、「朝廷」が天下を治める新体制をつくりあげます。ついに、王政復古の夢が叶ったのです。

しかし、いつの世も戦をするよりも、戦後処理が何よりも重要です。「関ヶ原の戦」で全国を統一した徳川家康も、日本に原爆を落としたアメリカも、戦後の処理が上手く平和な時代が長く続きました。

太平洋戦争で敗戦した後の日本は、国家の体制をGHQに変えられて、昭和天皇が「人間宣言」をして憲法が改正されました。戸籍制度では、当主の権利もなくなり、武家政権として大切にしていた「家」と「血筋」の価値観が失われてしまいました。

そして、個々人を尊重する、自由主義、民主主義社会に変わったのです。

戦後、多くの文学者や思想家が、日本の文化や伝統が失われてしまうという将来を憂い、日米安保論争から、学生運動に発展して、あわや革命が起きそうにもなりました。それでも、いまのところは、一度も戦争に加担していません。

喜ぶべきことなのか、恥ずべきことなのか、どちらの思想が正しいのかすらわかりませんが、隣の国と同じように、専制主義の体制を固持した結果、民族が滅亡する危機に瀕したことだけは確かです。

その思想の礎となった「建武新体制」について調べてみたいと思います。


■ 公家一統の新体制
後醍醐天皇が伯耆国の「船上山の戦」で勝利して、足利高氏あしかがたかうじ佐々木道誉ささきどうよは京都六波羅を制圧しました。新田義貞にったよしさだは、鎌倉を攻め落とし、北条高時をはじめとする北条一族は自害をして、鎌倉幕府は滅亡しました。

源頼朝が鎌倉幕府を開いて約百五十年。北条氏が執権となってから約百十年。1333年(元弘三年)に武家政権の幕がここに閉じたのです。

もともと、「元弘の乱」は、大覚寺統だいかくじとうの後醍醐天皇が、自らが正統な後継者だと主張したことからはじまり、北条・平氏ではなく、源氏のまつりごとに戻して、貧しい民たちが溢れる世を正そうと考えて行動したことがはじまりでした。

後醍醐天皇は、北条氏が後継と定めた持明院統じみょういんとう光厳天皇こうごんてんのうの皇位を否定して新政を開始しだします。その内容は、天皇や公家が人々の上にたち、世を治めるという公家一統くげいっとうの考え方です。

この思想により「元弘の乱」で命を懸けて戦った武家たちは冷遇されてしまいました。例えば、「船上山の戦」で活躍した名和長年なわながとしなどは、厚遇されましたが、後醍醐天皇の息子護良親王もりよししんのうと共に兵をあげた赤松則村あかまつのりむらは、恩賞をほとんどもらえませんでした。

この背景には、皇位の皇族争いといわれています。後醍醐天皇の側室、阿野廉子あのれんしが、自分の息子を後継者にするべく、護良親王の勢力を弱体化させるために、後醍醐天皇にうまくお願いしたみたいですね。

護良親王を支える、赤松一族の軍事力を強化させるわけにはいかなかったということです。

その、護良親王は、足利高氏を危険視します。足利高氏は、後醍醐天皇より「尊」のいみなを授かり、足利尊氏と名乗り源氏の頭領として、武家のまとめ役を命じられますが、北条氏のように再び幕府を開き武家の世にするのではないかと案じていたそうです。

そこで、穏便にすませたい後醍醐天皇は、征夷大将軍、すなわち武家の長官に息子である護良親王を任命しました。この対応に納得のいかない武家たちがうまれるわけです。

さらには、北条氏の残党が挙兵している東北の征伐に、護良親王の叔父である公家の北畠氏に命じます。公家が文武を統治できるということを世に知らしめるためといわれていますが、はてさて、公家が、武家をまとめられるものかと、不満に思う者もいたそうです。

一方、各地所領は、鎌倉時代を支えた、武士の道徳や道理と呼ばれた武家社会の慣習で善悪を判断する「御成敗式目ごせいばいしきもく」と呼ばれる法令も廃止され、従来の土地所有権などを一旦無効として、土地の所有権や訴訟の申請は、天皇が決定を下す綸旨りんじという命令書が必要となりました。

この、綸旨の内容に不満を持つものが多く出ました。その内容は、百年前の「承久の乱」で武士のものになったはずの土地でさえも、公家のものだと認められる綸旨が多くでたそうです。

さらには、新しい内裏を造営するために、税の取り立てを強化します。もうこうなると、国民中が、北条氏の世の方がよかったと感じるわけです。武士たちは、公家のために命を懸けたのではないと不満をもつ始末。

百年以上続いた、武家の思想やしきたり「御恩と奉公」という概念を捨てさせて、「公家一統」という、専制の考えを押し付けたことで、国中が混乱したわけです。

その種火は、北条氏の残党の反乱から火がつき、後醍醐天皇の王政復古の野望は、わずか3年で潰えてしまうことになりました。

さて、この頃のご先祖様を想像すると、三木一草さんぼくいっそうとよばれた、後醍醐天皇の建武新政下で重用された、結城親光ゆうきちかみつ名和長年なわながとし楠木正成くすのきまさしげ千草忠顕ちぐさただあきがいました。

そのなかの、名和長年や金持景藤かねもちかげふじと「船上山の戦」でともに戦った長谷部信豊さんの恩賞で伯耆日野の隣にある、伯耆国久米郡矢送庄、現在の鳥取県倉吉市を知行したのではないかと、個人的には思っています。

なので、この時代は、大覚寺統の南朝派ということになります。しかし、実際はどのように思っていたのでしょう。名和長年は、伯耆国の守護職。金持景藤は、新田義貞と同等の役職、武者所の役職を得ました。

一方、討死した、長谷部信豊の子孫は、日野の隣の小さな領地をもらっただけ。この時代から、ご先祖さまの動乱がはじまったと予想されます。


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