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哲学忌避学生によるちょこっとヘーゲル

ゼミでFeminist Standpoint Theoryを改めて解説されたけれど、この理論に影響を与えたと言われているヘーゲルの理論の方に私的には興味を削がれてしまった。

といっても、わたしは哲学には疎いので、大した知識はなく。とりあえず、気になったことをアウトプットしておきたいなーというレベル。修論やれよ、と思う。誰も読まないでしょう、これ。

とりあげたいのは、「相互承認論」「主と奴の弁証法」

自分と他者(相手)は同等ではない。普通の、一般社会の人間関係においても。家族、会社、学校だけでなく、友人関係、恋愛にまでおよぶ。親友といっても相手の全てを知っているわけではないし、片想いなんてざらだし。相互承認というか承認?は一方的なことのほうが多いよね、というのがわたしの理解(限界)。当たり前と言われればそうなんだけど、これを理論化しているのがさすが哲学だなあ・・・と思う(適当)。

人と人の間に力関係が生まれることを「主と奴の弁証法」とヘーゲルは名付けた、らしい。当然、主>奴の力関係だけど、奴のほうが人類の歴史を作ってきた、というのがみそ(たぶん)。主より奴のほうが全体が見えているよね、ということ。個人的にはそう思わないけど、、まあ歴史的にみれば、支配されている側は支配者の言語やスキルを覚えるのだからそうなのかな。

力関係でいえば、主人が強いけれど、相互承認論に戻ると、奴隷によって主人として承認されてはじめて主人となる。主は最初から充足しているから欠乏感もなければ達成感もない、らしい。

D/s、というよりSMや「主従」に照らし合わせてみると、承認の面は同意できる。奴がいなければ主にもなれない。受け手がいなければプレイもできない。ただ、主は最初から充足しているのかはわたしにはわからない(主側じゃないし)。

奴は主側になろうと努力する、というヘーゲルの言い分にも首を傾げる。歴史に立ち戻っても、皆が皆、支配する側にいこうとはしていないのでは?と。

この自立的意識は、最初は確かに自己の外に[主人に]現れ、自己意識の真理としては現れない。しかし、支配の本質が、支配がそうなろうと欲したところのものの逆であることを支配が示したように、おそらく隷従の方も、それが徹底して行われるならば、隷従が直接そうであるところのものの逆になるであろう。隷従は、自己内へと押し返された意識として自己へと立ち帰り、真の自立性へと逆転していくであろう。

Hegel, Georg Wilhelm Friedrich. Phänomenologie des Geistes. 1807. Felix Meiner Verlag. ed. Johannes Hoffmeister. p. 147-148.

これにもうーんとなる。自立性・・・これはわたしの個人的なものになるけれど、主の支配下にあって努力を続けても自立に結び付くのか、は謎。支配関係にあるってある意味依存しているし。加えて、主側の自立性が損なわれるのであれば、それは関係が破綻していると思う。主が奴の自立によって恐怖することなんてあるんだろうか。等々と思うと、ヘーゲルの理論といわゆる「主従」ってあんま嚙み合わないわ・・・。

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