1週間日記 乱高下
2024/09/14 (土) 「後悔」
はれ
特にできることもないけどいつでもどうにでもなるように実家に帰った。詳しい話を母から聞いても(それでもまた聞きだけれど)実感が湧かなくて、帰ってきた父親から聞いてもやっぱりそれは同じだった。新事実が出てきたことには驚いた。最後に会ったのはいつだっただろうか、連絡して会いに行こうと思うばかりで行動に移さなかったのはバカでしかない。わたしは結局何一つとして学んでいない。もういなくなってしまった。父が、まだまだ生きると思ってた、とこぼしたその一言が、なんだか虚しかった。
2024/09/15 (日) 「やり過ごす方法」
はれ
本当だったら友人とわけもなくフェリーに乗って海鮮丼を食べる約束をしていたけれど、金曜日のうちに事情を説明して延期させてもらうことにした。フェリーに乗っていたら気持ちが良かっただろうなという快晴具合で申し訳なく思いつつも気持ちは全くぼけっとしていてやはり延期を申し出てよかったと思った。
電車で片道2時間以上もかかる道のりを、ぼやぼやしたままの気持ちで母と辿る。目的の駅を降りた時、ああここは10年前に通った駅だったなと思い出した。まだ学生で1人で向かう時心細かったのを、あの頃はお金がなくてカツカツだったのを、あの日も暑かったのを思い出した。
今の私よりも若い父が、それよりも若い母と共に生まれたばかりの私を抱いて会いにきた2人はついにもうこの世を去ってしまった。今思えばなんという短さだろうか。この世に生を受けてから今まで、かなりの長い時間を生きてきたと思っていた。実際私の年齢に2をかけたとて、平均寿命には及ばないし、目的なく生きている私にとってその事実は若干の絶望を孕んだ事実として横たわっている。
ところがこの地球上に私と同時に息をしていた期間がこれだけだった、と考えると途端になんと短いのだろうか、と思うのだ。視点を変えればあっという間に真逆の感想になる。言うなれば人は長く膨大に思える時間をどうにかやり過ごすために、自分以外のものと関わるのかもしれない。
2024/09/16 (月) 「その一瞬のために」
はれ
夕方からのサックスのためだけに化粧をして服を着替えた。ギリギリの電車に乗って二駅分。読むつもりで持ってきた本は一切開かず、携帯を眺めて終わるのはいつものことである。
音が安定しない原因はひとえにアンブシュアが安定していないからに他ならないが、週1回のレッスンのみでやってる身としてはなかなかいい線いってると思う。と思いつつ、昔の私だったら練習したい!とレッスン日以外も教室に通ってレンタル楽器で練習しているだろう、とも思う。全てにおいて省エネになっていることに自覚があるし、それを認めつつもアクションを起こさず毎日をやり過ごしている自分に幻滅してもいる。
さて吹き始めてみるとやはり音は安定しないが、口元が緩んだり力んだりするたびに、フーと息を吹き込むイメージをして乗り切った。課題曲のいわばサビ前の見せ場を初めてスムーズに安定して吹き切れた時は思わず先生を見たし、先生も見ていた。上手くいったこと自体も、それが自分の思い上がりではなく指導者にも認められるほどのものだったことと、それを共有できる程度には自分の耳が育っていることが嬉しかった。
やっぱ練習、するか。
2024/09/17 (火) 「事務作業」
はれ
職場に事情を説明し、急遽休みをもらうための手続きやら準備やら、それから普通に通常業務でバタバタしていた。
2024/09/18 (水) 「偶然の出会い」
はれ
仕事終わりに図書館へ向かった。この図書館は全く大きくないが、階段の踊り場に今月の新入荷コーナーのようなものがあり、そこから適当に手に取った本が意外と必要としていた本だったりする。そういう出会いをくれる。今日はそんな経緯で借りた白取春彦の独学術という本を返しにきた。文章が時々攻撃的で偏屈さを感じつつも主張は同意できることが多く、面白く読めた。人を選ぶだろうとも思った。10年前の私が読んで面白く思えたかと考えると否定せざるを得ないなとも思った。
本を返してから新入荷コーナーに向かうとなぜか撤去されており、なんらかの企画コーナーのようなものになっていた。企画内容は特に興味を惹かれず、新入荷コーナーの移転先を探したものの見つけられなかったため、諦めて通常の本棚を眺めて2冊新書を借りた。
ところで今日はこのあと数時間電車に揺られて明日の予定の近くのホテルに泊まらなければならないのだが、荷物の用意も何もしていない。図書館には本を返すだけの予定だったのだ。気持ちの向くまま生きている。
帰宅後、30分かけて荷物をまとめ、電車に揺られてホテルに到着した頃には大抵の飲食店は閉まる時間だった。街を放浪したのちコンビニでお弁当を買って食べた。
2024/09/19 (木) 「言葉」
はれ
サイレンの音で目が覚めた。昨日のお弁当の容器がテーブルの上にそのままになっている。ふと自分の格好を見ると、昨日の服のままだった。こういう時でも寝落ち。嫌になる。サイレンは鳴り続けている。どうせ火災報知器の誤作動だろうとドアから顔を出すとちょうど向かいの部屋のおじさんも顔を出したところで気まずかった。ドアを閉めて窓から外を覗いたところ特に煙が出ていることもなく、臭いもせず。これが本当だったらもっと騒然としているはずだし、と風呂に入ることにした。今思えばなかなかチャレンジャーである。ホテルを出る時に確認したところ、宿泊者の1人が風呂場のドアを閉めずに入浴してしまい、湯気での誤作動とのことだった。迷惑な客である。
家族と合流して電車に乗り目的地へと向かう。通勤ラッシュから少し外れていること、方向が逆だということを除いてもこの時間でここまでガラガラなのか、と驚いた。思った以上に中心地にしか人間がいないらしい。
喪主である父が、故人に対しての言葉はいつもその人を端的に、だけども無機質すぎない言葉で表していて、いつも泣いてしまう。優しいとか明るいとかそういうありふれた言葉ではなくて、その人の本質が滲み出ているような、誰もが知っているその人の言動を過不足なく掬い上げて言葉に並べているのだ。ありありとその人が浮かんできて、それなのにもういないのだ、と突きつけられる。
2024/09/20 (金) 「放棄」
はれ
仕事終わりに同僚(話したことない)と上司(同い年)が揉めていた。近くで盗み聞きをしているとどちらの言っていることもわかるが会社に所属するということはそれでは成り立たないぞ、と同僚に思った。とはいえこの議論は平行線である。聞いててもハラハラするだけだからとさっさと帰路についた。わたしは何事も揉めている人を見るのが苦手である。穏やかに過ごしたい、私のそれは多分人との関わりを放棄して無理やり成り立っているものだとも思う。