香炉掃除に死と生活を見た
実家に帰った時に、香炉の灰の掃除をした。
母親から「もうお線香立たないかも」と声をかけられたからだ。
聞けば1ヶ月は掃除していないとのことだった。
それが少ないのか多いのかわたしはよくわからないけれど、それならばと掃除を承ったのである。
割り箸で香炉の中を探ると夥しい数の線香の端が埋まっていることがわかった。
灰が溢れないよう注意をしながら、割り箸を介して伝わるざらざらとした感覚を頼りに取り除いていく。
除けども除けども出現してくる線香に、毎日線香をあげている母の背中を想像した。
ここで母の背中を想像したのは、別に父がどうという話ではなく、この仏壇は母方の家系のものだからだ。
仏壇を置いている台には、関係のない様々なものが置かれていた。
仏壇が実家に来た時は、香炉と線香とライター、花瓶とそれから写真が置いてあるだけだったのに、供えてあるんだか置いてあるだけなのかわからないお菓子とか、ペンとか、ちょっとした物置きになっていた。
それがなんだか仏壇が、ひいては中に眠る祖父母曽祖父母他(一応親戚らしいがよく知らない人もいるらしい、仏壇が実家に来ることになった経緯も踏まえて大雑把な家である)の死が、特別なことではなく生活に溶け込んだ証のような思えた。
こうやってひとは、気づけば誰かの死を乗り越えていくようだ。
「当人にとって死は全ての終わりだが、周りの生きている人間にとっては死として残る」
という旨のセリフを少し前に観劇した舞台で聞いた。
生きている人間にとっては誰かの死として残って、そしてゆっくりと生活の一部になっていくのだな、と安心とも寂しさとも少し違う気持ちになった。
今のところわたしには自分が結婚して子供を産む未来が見えない。
父も母も順当にいけばわたしより先に死ぬ。
数少ない友人たちはどうだろうか。
わたしは、わたしの死が誰かに死として残る未来が見えない。
けれど、わたしにとってのわたしの死は全ての終わりだ。
わたしの死が誰かに死として残る未来がないことは、わたしの死と同時にわたしにとっては関係のないことになるのだ。
だから、まぁ、どうでもいいか。
かき混ぜても何にも当たらなくなったふわふわの灰に火を灯した線香を立てた。
あまりにも柔らかくて、立てた線香は少しだけ左に傾いて煙を上げる。
過去の線香の残りによって上手く支えられていた現実があるようだ。
過去によって支えられて今、わたしはここに立っているのだ、と線香を見て思った。