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「どこか遠くへ🇩🇪ミュンヘン編③」負の遺産・ダッハウ強制収容所

もしあなたが愛煙家の犬好きで、加えてビール党ならばすぐにでもドイツに行くべきだ。タバコ嫌いの俄然猫派、酒がほぼ飲めないわたしにとっても、そこはとてつもなく心地よい場所だったのだから。

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前回はミュンヘンレジデンツでの小言を書いてしまった、反省しつつも今でもあの時の言い返せなかった自分を思い出しては苛立ち、少し苦々しい気持ちになる。とはいえ異国にいるということは、きっとそういう不自由だったり理不尽をより多く感じるということかもしれない。もちろん日本で暮らしていても、同じにざらりとした感情になることは多いけれど。

15時間に及ぶロングフライト改めデスフライトの疲れにより、滞在一日目の夜はシャワーも浴びず、泥のように眠りについた。ちなみに5月のミュンヘンの日の入りは20時半ごろ、21時台でも夕方のように明るく、ヨーロッパと日本との日の違いを感じる。
翌朝前日の早い就寝のせいか、ばっちりと時差ボケを喰らった私は朝4時ごろに目覚めてしまう。シャワーを浴び、リフレッシュした頭で「さて出かけよう!」と意気込んでみても、当然外は暗く、家から送られてきた愛猫の写真を見ながらSpotifyでジェーン・スーと堀井美香のオーバーザサンを聴きホテルの一室で時間を潰した。異国で耳にするおばさんたちの笑い声は、ひんやりと冷たいミュンヘンの朝の空気を和らげてくれた。
※ドイツと日本との時差は8時間、日本の方が進んでいる。

柱のオレンジ色が鮮やか、マリエンプラッツのホームは地下にある

さてホテルの朝食を済ませた私は朝のマリエン・プラッツに向かい、お馴染みの改札のない駅からSバーンに乗り込んでいく。この日私が目指したのはミュンヘンから見て北西に位置するダッハウ(Dachau)という街だった。マリエン・プラッツ(MarienPlatz)からSバーンに乗り込み30分ほど行った先の街ダッハウには、第二次世界大戦期前にナチスの強制収容所が作られていた、今でもその一部が保管され記念館として公開されている。

強制収容所の場所を示すパネル展示(のはず、英語が苦手で・・・)
ダッハウは中央下、アウシュビッツは右側に位置する

無知な私は「収容所」と聞くと、どうしても現在のポーランドにある「アウシュビッツ」を浮かべてしまう。私もこの機に知ったのだが、第二次世界大戦下ではドイツおよび周辺諸国で大小含め千単位で収容所が存在していたという(※ユダヤ人居住地区のゲットーを含むと万にも上る)。
ちなみにダッハウは強制収容所とされるが、アウシュビッツは絶滅収容所ともされ、つまり一応の目的が異なる場であった。アウシュビッツは知っての通りガス室を有し、多くのユダヤ人を断絶することが目的とされていた、言わば最後の場だ。ダッハウはというと強制収容所で、労働に従事することを目的とする場であった。もちろん環境や衛生管理は劣悪で、粗末な食事により十分な栄養も取れない中で過酷な労働を課せられ、多くの収容者が死に至った。
(※使用については定かではないがダッハウもガス室を有していた)

この日の私はそんな「負の遺産」とされる場に向かっていたが、歴史に造詣が深いわけでも意識が高いわけでもない、ただ私の旅のメンターである「地球の歩き方」を手に取りパラパラとめくっていた際に、このダッハウについて紹介するページが目に留まった。そんな理由からだった。
目的なく訪れた初めてのドイツ、負の遺産ともされる歴史にも目を向けておこうという好奇心まじりの生温い気持ちで、私はダッハウに向かうSバーンに乗っていた。

ボックス席の窓際に陣取ってぼんやりと車窓を眺めていると、ミュンヘン中央駅でかなりの数の客が乗り込み私の前や隣に腰掛けた。彼らの交わす言葉の語感からスペイン系の学生の一団に見える。留学生だろう、なんとなく目的地は同じだと思えた。このヨーロッパでも社会見学というかフィールドワークがあるんだろうなと、私はそれらを思いながら流れる景色に目をやった。

ダッハウの駅に着くと同じ車両に乗っていた一団も一気に下車をする。駅はホームが二つほどあるだけの簡素な駅で、吸い殻がやたらと落ちていたのが印象的だった。駅だけではないドイツで過ごした数日間のなかで、イメージに反して歩きタバコをする人をよく見かけた。駅の線路や通路に遠慮なく落ちた吸い殻たちは、私が幼い頃に見かけていた地元北九州の粗野な風景と重なって異国ながらどこか親しみを感じるものだった。
さて駅からバスに乗り混みダッハウ強制収容所へと向かう。Sバーンに同乗していた一団も、ここでも同じにバス停に着いたバスに乗り込み、日本とほぼ同じサイズの路線バスはみるみるうちに観光客でいっぱいになっていった。

日々通勤に使う満員電車で窮屈さには耐性があるものの、異国ヨーロッパでの満員バスとなると少しだけ勝手が違う。167センチの私は日本ならばそこそこ背が高い方だと言えるが、ここドイツで成人に囲まれてしまうと、たちまち子どものような心細い視界になってしまう。人いきれと遠慮なく香る香水の香り、そこかしこで交わされる異国の言葉、そして見下ろされるような視線の間に挟まりながら私はバスの出発を待った。
元収容所への足はシャトルバスではなく、通常の路線バスとなる。私たち観光客あらため見学者によって満員になったせいで、地元の人がバスに乗れず溢れていた。白髪の老婦人が不満をいっぱいに浮かべ「なんてこった」というように運転手に向けて肩をすくめていた、運転手もまた彼女に向け「悪いね」というように肩をすくめ返していた。
ドイツでは客と店員とが対等であると聞くが、乗客と運転手とも対等だった。彼らは私たち物好きな異邦人を等しく鬱陶しがっていた、あけすけなその態度は返って心地よく、私は押しつぶされながら子どものような視界でその光景を眺めていた。
駅から10分ほど走り、ダッハウ強制収容所近くのバス停で停車すると、思ったとおり運転手を除いた全員がごっそりと下車をした。満員のバスから逃れるように降りた私は五月の晴れた外気に触れほっと息をつく、かつてここに連れられた人たちとはまるで違う心地で。

まずはダッハウ強制収容所の本所に行く手前にあるインフォメーションセンターに入る、おそらくこのコロナ禍で建て替えられただろう真新しさの残る建物だった。空調が十分に行き渡り、ヨーロッパでは珍しく小綺麗なトイレも併設されている。トイレを済ませインフォメーションセンターの入り口近くへ戻ると、人だかりができていた。なんとなく人に倣ってしまう日本人の習性で向かってみると、オーディーオガイドの貸し出しの列だとわかる、他の見学客にまじり同じに並んでみた。
私の番となり「日本語のガイドはあるか?」と尋ねると「ナイン(No)!中国語であればあるよ」との言葉を返された。記しておくが、ドイツでは国語(ドイツ語)と英語に加え、中学生の段階でフランス語またはラテン語という第三外国語の必修が義務となる──らしい。つまり彼らからするときっと「隣国の言葉なら少しくらい馴染みがあるだろ?」というニュアンスのようだ。
「いやいや、君らと一緒にしないでくれ」
そう言いたいけれど自由に扱えない私の英語力であるが、中国語よりは遥かに馴染みのある言語として英語のオーディオガイドを借りた。オーディオガイドはありがたいことに無料の貸し出し物だった。が、この一件が後の私の心配ごととなっていく。

貸し出しではIDの提出を求められた、「ID?パスポートが必要なのか?」と聞くと「No!some your ID card」とのこと、つまり何らかの身分証を出せとのことらしい。今回の旅行に至って不要なものを置いて来た私の財布には、クレジットカードと運転免許証、マイナンバーくらいしか入っていない、どれも人に渡すにはためらってしまうものばかりだ。
「オーディオガイドの返却時に返すから」と案内されたので、私はしぶしぶと運転免許所を差し出した。要はデポジットの要領で、カードと引き換えに貸し出しが叶うシステムらしい。IDカード提出しその代わりにオーディオガイドを借りる、またガイドを返却することにより預けたIDカードが戻ってくるそんな仕組み。
ドイツで運転免許証を無くしたらどうなるんだろう、何らかのルートに乗って悪用されまいか?そんな不安を抱きながら、私はほとんどわからない英語のオーディオガイドを手に強制収容所跡地を目指した。

午前中は結構冷え込むのだけれど、チェックシャツの男性は半袖だった
【 ARBEIT MACHT FREI 】の文字、アウシュビッツでは「B」が上下反転しているそう

どっしりとした監視棟の中央に鉄門が据えられている、鉄格子の上部には有名な【 ARBEIT MACHT FREI 】の文字。「働けば自由になる」と訳されるこの言葉はアウシュビッツの門にも掲げられている。もちろん当時はどんなに働いても出ることは叶わなかった鉄門、タチの悪いジョークなのか嫌がらせか、いずれにしてもその皮肉は戦後80年近く経った今でも十分に感じられた。

5月の晴天の日に行ったせいか照り返しで目が痛い、左右のバラックは展示のため再建されたもの

鉄門をくぐると、目測で東京ドームが3〜4個すっぽりと収まるほどの平地が目の前に広がっていた。
第二次世界大戦の終盤、敗戦が濃厚となったナチス軍はその蛮行を隠蔽するため連合国軍が来る前に各収容所を自ら取り壊したという。その破壊のせいか、経年劣化かは定かではないけれど、このダッハウでも当時の建物はほとんど形を留めず更地になっていた。
敷地内には木々もあり、見ようによってはだだっ広い遊技場のようにも感じられる。周りは青々とした樹々の林に囲まれ、五月の軽やかな風が収容所周りの樹々の間を穏やかに渡って行く。何も知らずに来ていれば私はこの場所に何を感じただろう、美しい場所だと思ったろうか。それらを考えながら私はオーディオガイドのイヤホンを耳にねじ込んだ。

やっぱり英語はわからない、メインである当時の管理棟に踏み入った私は案内に従い指定の番号の音声を流してみたものの、某コンニャクを食べたわけではないのでほとんどの言葉がこぼれ落ちていくばかりだった。聞き取れない英語をそれでも聞いていたのは、やはりここが一人では心細い場所だったからだ。何か聞くべきもので耳を満たしてい、そうでないとこの場に重く垂れ込めた別の何かを聞き取ってしまいそうにも思えた。
展示場のメインとなる管理棟は、おそらく当時のものが補強された状態で残っていた。古い学校のような簡素な作り、分厚いコンクリートで出来た壁は晴々とした五月であっても氷室のように冷えていた。

当時の監視棟とモニュメント、たくさんの花が手向けられている
監視棟の中で展示品と解説パネルを見ることができる

管理棟には写真や図が入った説明パネルと、当時ダッハウで使われていた道具が展示されていた。荷車や収容者用のロッカー、そして有名な青と灰色の縦ストライプの作業着──当時の収容所でユダヤ人を初め収監された人々が身につけさせられていたものだ(※収容所にはユダヤ人だけでなく、政治犯やロマも収容されていた)。
この縦ストライプ、たとえ収容者が運良く逃げおせたとしても、この柄によって外界に溶け込めず通報され捉えられたと言われている。つまり補色性が極めて低い = 目につきやすいものだった。ナチスは気狂いではない、彼らは収容所を管理する仕組みづくりに圧倒的に長けていた、周到にそして的確に監視者である自分たちと収容者とを区分し、彼らの自由と尊厳、そしてその生命を奪っていった。

展示物というと、有名なのがやはりアウシュビッツとされている。
アウシュビッツには収容され殺されたユダヤ人の髪の毛、彼らが身につけていた衣服や靴、生活のための日用品、また体の一部でもあっただろう松葉杖や義手・義足、車椅子が没収品として展示されている。この惨たらしい惨事を繰り返さないようにと強く訴え得るために。それらは折り重なるように積まれ見学者の目と胸を鋭く突き上げるが、このダッハウではそのような展示物は見られなかった。

ダッハウを訪れるに至り幾つかの旅行記やレビューを事前に見ていた私は、とあるレビューに目を止めた。それは戦争の悲惨さを訴えるため、ダッハウもアウシュビッツのような直接的な展示をした方がいいということが書かれたものだった。確かに過去に起きた凄惨な現実を示す場としては、パネル展示がメインとなるダッハウはヴィジュアルによる情報性がやや劣る場所であるのかもしれない。けれどかつてこの場では確実に多くの人の自由が阻まれ、尊厳と命が無惨に奪われていた場だ。ダッハウでは3万人が命を落としたとされている、数字で示されるとその規模が途端にわからなくなってしまうけれど、あってはならない場所だということには変わりない。人が人を選別し、劣悪な環境で管理し、使い倒しては塵紙のように捨ててしまう。その事実だけは仮にこの場が今、花畑になっていたとしても揺るがないものなのだと。

監視棟、別位置から

メインとなっていた監視棟以外では復元されたバラックが2棟だけ立っていた。外見は学校の校庭脇にでもありそうな用具倉庫に似ていた。中には収容者が寝起きしていた三段ベットと、間仕切りのないトイレが当時を再現した形で展示されている。

正直に綴ると、すでに私はこの場にだいぶ飽きてしまっていた。この場が持つ意味を感じながらも、ほぼわからない英語に聞き疲れを起こしてしまっていたのだと思う。加えて外は皮肉なほどに美しく晴れていて、今この場にいる自分が何を見学しに来たのかを忘れ、時差ぼけの頭で大きくあくびをついていた。
ここで格好をつけたことを書いているけれど、私は所詮その程度の、当たり前に平和があると思っている緩み切った現代人でしかなかったのだ。

当時の収容所内の様子

収容棟跡地から少し逸れた脇に火葬場とガス室が残されており、その場も見学者へ解放されていた。記憶は少し薄れてしまっているけれど、レンガづくりのどっしりとした面構えの建物だったと記憶している。
ダッハウのガス室は使われていなかった(使われないままに終戦した?)ともされるらしいが、オーディオガイドから流れる音声は相変わらず上滑りするばかりで、公式のガイドから私が得られる情報はほとんどない。
ガス室を併設した焼却場は思ったよりも小さな作りで、ガス室とされた場にはこの収容所場へ来るため路線バスに乗り込んだ私たち見学者がちょうど収まるほどの広さをしていた。小学生ならばひとクラスと半分くらいだろうか、案外小さいんだなと感じてしまう。
とはいえ、一人で踏み入るには当然ためらいを持つ場所で、私は見知らぬヨーロッパ系の学生が来るのを待ってその場に近づいた。
二十歳ごろ、いやもっと若いかもしれない、栗色の巻き毛の少年が熱心にガス室の動画を撮っていたのが印象的だった。彼は撮影した動画をどうしたのだろう、後でTikTokなどにあげるのだろうか。強烈な言葉と共にアップすれば、そこそこの再生数に達するんだろう、彼はそのカウント数に満足するのか、私はそんなやや不謹慎なことに思考を巡らせる。
私はとうに集中力を切らしてしまっていた、気掛かりといえば聞き取れない英語オーディオガイドの代わりに置いてきた免許証のことだった。ここで行われていた残忍な行為、奪われた命と尊厳の重さよりも、異国で運転免許所を紛失してしまう心配が私の意識を占めていた。私はその程度の人間なのだと思った、そんな私の耳は皮肉ながら【Victims】という単語を拾う。【Victims】= 犠牲者、負の遺産とされる収容所をあざやかに表す言葉だった。

敷地内ではさらさらと小川が流れている、ヴュルム川

インフォメーションセンターに戻り、オーディオガイドを返却した。受付担当の男性に名前を告げると少し迷ったそぶりを見せたので、やや気を揉んだものの私の自動車免許所は無事手元に戻り、元通りに私の財布に収まった。

疲れていた。
それは展示を見て心に負った重さからでなく、もっと単純で物理的なもの──てりつける強い日差しと照り返し、時差ボケからくる眠気たちだった。結局そんな人間だよなと私は私に呆れながらインフォメーションセンターに併設されているカフェテリアに入り、わからないままに注文したスープにありついた。

薄めの味付け、食卓塩が欲しい

カフェテリアでの注文の際に先にドリンクを取ってしまったのを見て、担当の白髪の女性にひどく怒られた。彼女はおそらくドイツ語で「先に注文してからよ、勝手に取らないで!」と言っていたのだと思う。彼女の目に私はマナーのないアジアの観光客として映っただろう、帰って勉強しないとなと思いながらレジで代金を支払った。
語学も歴史も学ばなければならない。少しはオーディオガイドの言葉を聞き取れるように、そしてガイドがなくともかつてこの地で起きていたことを正しく捉えられるくらいには、それが現代を生きる私にできるせめてものことだと思う。学び続けなければ、それがたとえ凄惨な歴史だとしても。

監視棟と対面するように奥に礼拝堂(写真奥)が建てられていた

収容者が寝起きしたバラックの一画、種まき前の畑の畝のようになっている収容者棟跡地に花束が置かれていた。対戦の最中で家族や親類、友人が収容されていた棟なのだろうか。当時の資料がどのようき記録され、どれほど正確に残っているのかはわからないけれど、誰かの足跡と、またその誰かを思う祈りが刻まれた場所には違いない。

1933-1945ダッハウ矯正収容所の歴史を示している
叫びが聞こえてきそうなモニュメントは記念碑としてのちに作られた

かつてこの地に収容された人は人間だった。そんな収容者たちを冷徹に管理し、簡単に始末する残忍なシステムを作り上げたのも人間だった。その地を数十年後に訪れ、自身の免許証の紛失について呑気に心配している私もまた人間だ。みんな人間なのだ。

平和が当たり前にある時代に生まれた私たちの世代は過去の人間たちの過ちを簡単に謗ってしまう。けれど彼らと同じ立場となった時、他者の尊厳を常に思えるかと言われると、私は言い淀む。人として正しい行いが戦禍でも出来るかと問われると口を噤んでしまう、そんなどこか言い切れない自分が常にある。

隣国の戦火は止まず、ガザに撃ち込まれるミサイルが罪のない子どもまでも巻き込むことを知りながら、それられに目を向けず安穏と生きている私は悪ではないのか。それらを問われるとなんとも言えない心地になる。関係ないと言ってしまえばにべもないが、関係ないと言えるのだろうか。
内なる葛藤が今も私を静かに揺らしている、あの日訪れたダッハウは美しく晴れていて、そうと知らず訪れれば全く違う場所に見えていた。
晴れ晴れとした空に日は上り、過去と今とを等しく照らしていた。

ハイキングコースと言われると、そうとも見えてしまうような自然に囲まれた場所だった


◼️今回訪れた場所
・ダッハウ強制収容所

強制収容所と書いたがダッハウでは人体実験も行われていた。
「夜と霧」で知られるヴィクトール・フランクルが収容されていたのもダッハウとされている。
私が訪ねた際は日本人はいなかった、場所が場所なのでなかなか旅行の際に訪れたい場所ではないと思うけれど、歴史に触れられる貴重な場である。入場は無料、オーディオガイド貸し出しのための提示IDはポイントカードなどでも……(個人の判断で!)。

ミュンヘン中心地からSバーンで30分、ダッハウ駅で下車し、726番のバスで十分ほど。駅ロータリーにはタクシーも止まっている。

余談:ネタバレにはなるが昨年公開された映画『関心領域』のなかで、アウシュビッツの展示の一部を目にすることができる

重い回でした、お読みいただきありがとうございます。学んでいきましょう。

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