小説「金魚鉢の水」
レバーを上げコップに水を注いでいく、勢いよく出た水でたちまちコップがいっぱいになり溢れた水で指先が濡れた。鼻先に近づけるとプンとした匂いがついた、今日の水は少しカルキが強い。
「金魚鉢」
私はつぶやきコップに口付け傾けていく、ぬるい水が喉を這う。
まだ上京してまもない頃、都心の銀座のドドールに入った。本当は銀座にしかないような洗練されたカフェや老舗の喫茶店に入りたかったのに、どこも恐ろしく混んでいた。結果ドトールぐらいしか地方から出たての芋臭い私を受け入れてくれる場はなかったけれど、いつものミルクレープを口に入れた瞬間、ほっとした心地を感じたのはいうまでもない。
都会は捨てるほどの人間がいる、地方はどんどんと過疎が進んでいく中で、捨てても捨ててもまだ都会の人間は湧いてくる。地元の駅前の寂れたシャッター通りを浮かべながら口づけた水からは、学校の教室の奥の棚に置かれていた水槽の水のような匂いがした。誰にも見向きもされず、いつの間にか育てていたメダカも消えてしまった水槽のあの匂い。思わぬ匂いに私は咳き込み、ほとんど水を吸わない紙ナプキンで口元を抑えた。
これが都会なのかと手洗い洗礼を受けた心地がした。聖なる水ではなく、金魚鉢のような匂いがする水での洗礼は、東京という街を強く体現している。今日の水も臭うけれど、あの時ほどではないと感じるのは、膨らんだ記憶のせいか私がそれらに慣れてしまったからだろうか。
金魚鉢の匂いがする水にも、出汁の色の濃いうどんにも慣れた。満員の今にも溢れそうな電車に背を向けながら体を押し入れ乗る方法も、その電車の中で無心でSNSを見続けることにもすっかりと慣れた頃、私は正しくこの街の一部になっていた。
先週末、私は四年半付き合った彼と別れた、二十代の半ばに先輩の紹介で出会った男性で、馬鹿な話私は一目で落ちてしまった。切れ長の涼やかな一重をした目元に、黒々とした艶のいい髪の毛、肌は白くきめ細やかで、穏やかな声をもつ彼。白い喉の真ん中で丸い骨がくるくると動く様も、長いまつ毛も、短めに切られた爪先も全部が好きだと思えた。
一目惚れを非難する考えもわかるけれど、自分の好みの外見であるかは私にとって重要なものだった。
どんなに内面が優れていても、どんなに相性が良かったとしても、俗に言う生理的に受け入れない外見をしていたら興味すらわかないのだから。だからまず好みの顔ですあることが私には大きい。皆が好む外見じゃなくていい、私にとって好ましい顔であるかが重要なのだと。
彼はまさに万人が認める外見ではなかったけれど、私の琴線にはとことん触れた。切れ長の目元は気品があって、たとえば彼が俳優ならば大河ドラマで公家側の役をするだろうなと。武士めいた猛々しい顔でなく、さらりと歌でも詠みそうな涼やかな顔を私は美しいと感じた。彼の顔をもっとよく眺められる関係でありたかった。彼と私はまもなく付き合うこととなる。
「その、初めて会ったときから──好みの顔でした」
私のひねりのない告白に彼はくすくすと笑った。笑うと鼻の頭にくしゃりとした細い皺が寄って、祖母の家で飼われていたパグみたいでますます胸に刺さった。
「直球ですね」
笑い皺の寄った顔で彼は言う。
「はい、自分に正しくありたいと思うので」
「人に正しく、じゃなくて?」
「自分に正しくあれば、他者にも正しくあれると思うんです」
私の言葉に彼はまたくすくすと笑い皺を寄せた。たっぷりとシワのできた顔で「じゃあ、お願いします」と彼が手を差し出すので、私も同じに右手を差し出して握り返した。本当は少し「じゃあ」という言葉がかかったけれど、何せ自分が好きになった彼なのだから今は気に止めることじゃない。
「こちらも、よろしくお願いします」
私は言う。手を繋ぐではなく手を握り合って始まった私たち。彼の手は少し冷たくて、その冷たさすら心地よいと思った。好きな顔とパグみたいな顔の皺、少し低い体温。それが彼との始まりだった。
新しく何かが始まる感覚はいつだって期待に満ちている。彼の鼻の上の笑い皺を見ながら、彼のことを私は幸せな人だと思った、笑い皺が多い人は幸せだと言うから。私はありふれたもの信じる太刀だったので、この人の隣にいる私もまたきっと幸せになる方の人間だと思えた。私は正しさを感じていた、正しく人と恋に落ち愛へと向かう予感に満ちながら。
外見と内面は付合するという私の持論、つまり好ましい外見が好みなら内面もそうそう外れない、そんな考えをより強めるほどに私は彼との関係を滑らかに築いた。彼は穏やかで品があり、常識もあって理性的な人だった。すごろくのコマを進めるように私たちは順当にステップを踏んだ。
金曜日、仕事終わりの待ち合わせからのディナー、週末のデート。ありふれたストーリーの映画と、食べきれないほどのキャラメルポップコーン。初めてのセックスのための一泊二日の熱海旅行。お互いの家を行き来し、その頻度を段々と増やし、やがて同棲に至る。
お互い会社勤となる私たちは平日の家事を分担し、週末は知らない街へ足を伸ばしカフェやレストランを巡った。海外旅行にも何度か出向き、行った先で消耗して帰国後入ったコンビニでその手厚さに感動して笑い合った。例えばプリンを買えばスプーンが入っていること、お手拭きがついていること、お金のやり取りにもたついてもけして舌打ちされないこと。日々飲む水から金魚鉢の水の匂いがしたって、彼との日常があるこの街が好きだと私は強く信じていた。私の今は正しくあるのだと。彼と共に正しく在ることを。
そんな私たちは日々の些細なこと──例えば家事の分担だったりで、少し揉めることはあったけれどその都度とことん話し合った。私の正しさと彼の正しさ、その二つの正しさが合わさった生活は、きっと何ものよりも頼もしいと思えた。
彼の顔も彼のことも私は変わらずに好きでいられた。二人の中に生ずる些細なずれはその都度直していけるのだと信じていた。セックスの相性はさほどよくはないけれど、身体の相性なんて一端でしかない。大切なのはわかり合えることだ、異なる意志を持つ二人がわかり合おうと出来るところだ。
彼との関係や彼といる時の自分の状態が好きだった。肩肘張らず自然体でいて、砕けた関係の私たち。きっとこれからも変わらずやっていけるだろうと。いいや、変わっていくことを受け入れられる間柄なのだと。
パグのように顔をクシャりと寄せて笑う彼の隣で、私もまたたくさん寄せて笑っていた。
「これからも、よろしくお願いします」
あのとき口にした言葉は白髪混じりの頭になっても、ずっと変わらずにあるのだと思っていた。
錠剤シートから今日飲む薬を押し出していく、手元が悪く私は出した薬をそのまま床に落としてしまう。濃い肌色をした直径五ミリほどの錠剤を拾うため、腰を屈め身を折った。ジェルネイルでぷっくりと盛り上がった爪は分厚く、細かなものが取りづらい。二度ほど薬を取り逃し、私は小さく舌打ちしながら床を掻いた。こんな錠剤シートを模したチョコレートのこれに似た駄菓子があったっけなぁと思いながら。
カラフルな丸い粒状のチョコレートが、薬の錠剤シートのように包装されている駄菓子。それは押し出し式のシートの内側に占いがついているもので、チョコを出すことによって破けたシートに記された丸や二重丸、三角などが現れる仕組みをしていた。
「ともだち」や「べんきょう」のほかに、「こい」や「けっこん」も入っていたっけ。子ども向けの駄菓子なのに随分と現実じみたものだなと今になって思う。幼い頃から私たちは幸せになることを強いられていく、たくさんの友だちを作って、恋をして、そして愛した誰かと結ばれることを。そんな正しい幸せを刷り込まれている。
床の上で何度か指先を滑らせたあと、私はやっと指の腹で薬を取り上げた。ほこりを払うように息を強く吹きかけ口に入れ、金魚鉢の匂いがする水で錠剤を流し込んでいく。
彼と別れてもピルを飲み続けていた。主だってピルを飲む理由は無くなっているはずなのに、この消えない習慣は自分の中の未練のように思えた。まあ生理も軽くはなるし、そんなもっともらしい言葉を後付けのように思う。
別れの理由は、ごくありふれたもので彼の浮気が原因だった。相手は彼の会社の後輩で、前髪や肩にかかる毛の先が常にくるんと巻かれた新卒二年目の女の子だった。毛先のくるんに加えて、目もきゅるんとつぶらな彼女。唇も艶やかでうるんとしている。「くるん」「きゅるん」「うるん」、カーブの多い文字を擬音語を持つ彼女に、彼もまた見事に絡め取られてしまったらしく、私は一方的に別れを切り出された。
くるん、きゅるん、うるん。
私が彼女の容姿を知っているのは、浮気について彼自身から告白を受けたからだ。告白というか自白というか。その際に二人で撮った写真を見せられるという割と酷な体験までついてきた。だから私は彼女の甘ったるい容姿を細かに知っている。
あぐらをかいたわけではないけれど、自分たちは盤石だと思っていた。残業と言われれば言葉通りに捉え、土日の出勤も「繁忙期だからさ」という彼の言葉を真正面から信じていた。「そっか大変だね」と労いの言葉まで添えた。
数年のうちに結婚してほどなく子を成し、良き家庭を作ると信じていた私は、彼の告白に心から驚いてしまった。長年を共にした一見なんの不足もない熟年夫婦が、ある日突然妻に別れを切り出される衝撃ってこういうことだろうかと、私より随分と甘い容姿をした彼女の画像を見て思う。驚く気持ちと共に、こういう展開かと少し引いた場所から眺めているような別の感情が胸に沸き、私に語りかけた。
まあそうですよね、そうそう人生ってうまくいかないですよね。二十代に付き合った人とそのまま難なく結婚って、展開的に弱いですよね。波瀾万丈感というか、ここで主人公は『別れ』という傷を負うんです。でもその傷が彼女の成長というか、後の財産になるんです──云々。頭の中で別の私が解説する。
財産とはいうけれど、どういう財産になるのだろう。人に優しくできることや、弱さに寄り添えることことだろうか。他者をより深く思える、とも捉えられる。けれどそれらは全て私ではない外側に対するものばかりだ、私にはどうやって還元されるのだろう。自分にとってこの経験のメリットは一体なんであるのか?彼が犯罪者にでもなれば「ああ、あの時あのタイミングで別れていて良かった」と思えるけれど。そうでない場合はどうやって自分のメリットに還元すればいいだろう。私にはわからない。
「傷を負った人はね、他の人にうんと優しくできるんだよ」
柔らかな言葉で丸め込む世間に中指を立ててやりたい。後で優しくしますから、まずは今の傷ついた私をめいいっぱいいたわれよ!と。内側で放った私の問いに、もちろん答えてくれる誰かはいない。
「僕の気持ちはもう里奈の方にあるんだ、奈緒と一緒にいるのに疲れた。何を言われても変わらないので別れてください」
きゅるんの彼女が里奈、きゅるんではない私の名が奈緒。里奈 > 奈緒という式を、彼は淡々と口にする。
いや、ちょっと。はいはいはい、ストップ。
断言するってずるいくないですか?だって私に選択肢はないですもん。せめて社食の定食みたく、AかBかCで選ばせるくらいの配慮は欲しいです。別れる or その丸い擬音語の彼女とも付き合いながら私とも付き合う or 別れるかわりに豪華客船でいく南半球周遊ツアーをプレゼント──とか。ねえ知ってますか、あれって最安の客室プランでも軽く二百は越えるんですよ。私の傷はそれほどまでに深いです。
それらを思いながら私は彼が差し出したスマホに目を落とした。なぜか見せられた彼女との自撮り画像の中で、彼ときゅるんの彼女は笑い合っていた。有名なテーマパークに行った時のものらしく、ペアとなるキャラクターの耳をつけた二人の姿。
「こんな学生みたいな恋愛してんのかよ、ばっかみたい」
胸の内で詰ってみたけれど、学生みたいな恋愛をしている彼の方が鼻の上の皺が多かった。笑うとできる鼻の頭の上の皺、くしゃっとしたパグみたいな顔。そっか幸せなんだな、そっか、いいなこの顔やっぱり好きだな。
「疲れたってどういうところが?不満があったならきちんと言葉にして示してほしい。努力して改善していくから、私はこれからもあなたと一緒にいたい。浮気はもちろん傷つくけれど乗り越えるから」
試しに私は口にする。彼の顔がいまだに私の好みだったから。彼と自分の関係も私にとっては好ましいものだと思えていたから。
「それだよ、そのプロジェクトの進捗管理みたいなところ。話し合って折衷案を決めてそれを実施して、合わなかったら別案試して。なんか仕事みたいなんだよ、俺たちって」
「なんでそれがいけないの?パートナーシップって、突き詰めれば社会の最小単位の組織ってことじゃない?だったら今のやり方がおかしいとは私は思わない」
そうですよ。恋人も夫婦も、名もなき新しい関係でも、アセクシャル同士でも、別人格が二人居て関係性が生じたならば、外から見れば一つの単位じゃないですか。ジェンダーも思想も関係ないです、在り方としては平等なんです。この世は健全な幸福を成すためにあるんですから。そうです、プロジェクトですけれど、なにか?二人でよりよく過ごしていく、二人でよく在り、二人で幸せになるというプロジェクトです。
I would like to make the happiness life with you!
胸のうちで別の私が叫ぶなか、外側の私は深妙な顔をして俯き別の方向へと思考を巡らせた。幼い頃に読んだ絵本で小魚たちは、力を寄せ合い協調して敵に立ち向かった。
私とあなたがいたのなら、そこに関係性があるのなら、同じ方向に向かうことがきっと好ましい事柄です、小魚たちのように。
皆を率いる黒い魚役は時に彼であり、また時に私であった。分かり合えない部分はとことん開示して話し合って、すれ違いながらも他者を受け入れていく、調和していく。きゅるんと丸い擬音の彼女とだって、きっとそうやって付き合っていくだろうに。
「正しいとか間違いとかじゃなく、俺はそういうのが窮屈なんだよ。何でもかんでも話し合おうっていう、同じ方向に進んでいくっていうことが」
「……だってそういうものじゃないカップルって、二人で一つみたいなところあるよ?」
「じゃなくて、二人で決めたルールってことでがんじがらめにされるところが、なんでもかんでも常に話し合うことが」
「だって、じゃないと理解し合えないじゃない?違う人間なんだから、異なる個性なんだから」
「理解し合うことに疲れたんだよ!」
彼は語気を荒げ向かいあって座っていたダイニングテーブルの天板に拳を打ちつけた、たまに機嫌を損ねて口数が少なくなることはあったけれど、怒鳴るようなことは初めてで私は少し威圧されてしまう。
「…………話し……話そうよ。感情的になられても困る」
声が震えてしまう罰の悪さを感じながら、私は自身を宥めるように口にした。
「結局、感情的な生き物なんだよ、人間は──いや、違う人間じゃなくて、僕──俺がだ。俺は感情的な生き物なんだ」
線を引くように彼はいう。
「感情のままに言わせてもらうけど、俺はお前と別れるから。話すことはそれだけだから」
彼は自らの人称を変えた、僕から俺へと、きっと私を牽制するために。流石に再び怒鳴ることはしなかったけれど、彼の言葉にはガンとした強さがあった。その狡さに閉口してしまう、私にだって感情はある、あなただけじゃないと言ってやりたい。私だって感情的に振る舞いたい場面は何度もあった。けれど感情のままにふるまえば、ヒスだなんだと言われてしまうから、だからそれらを押し込めて理性的であろうとした。言葉を使い、まめにコミュニケーションをとって、互いのズレを理解し合ってやってきた。そうやって正しく他者と関係性を築こうとした。
彼が自身を感情的だと宣言し、一人称が僕から俺に変わった日から彼は私との部屋に帰ってこなくなった。丸い擬音の彼女の家で共に暮らすのだろうか。
数日後に送られてきたメッセージには、家賃と光熱費の支払いについてが書かれてあった。来月までは予定通りの支払いをするからその間に引っ越しか、新たなルームシェアの相手を決めてくれという事務的な内容たち。テキスト上の彼は私が知っている彼のように、理性的な振る舞いを見せてくれる。私はそんな彼の言葉に目をじっと凝らした。目が良くなる本というコンビニの書棚の隅で埃をかぶっていた謎の雑誌のように、何か別のメッセージが浮かばないかと。
【もう一度落ち着いて話さない?私はもう一度やり直したい】
何度かメッセージを送ったけれど、私の言葉はことごとく流される。
【特に話すことはないから】
業務的に放たれた彼の言葉は、いくら目を凝らしても別の言葉を生み出さなかった。
彼のものが運び出された部屋に私は今取り残されている。1LDKの空間は一人抜けただけでがらんとして見えた。私もあと一ヶ月でこの家を出なければならない。また手狭なワンルームに住むのかとため息をつきながら、せめて風呂とトイレは別れたタイプの家に住みたいと、スマートフォンのアプリで始終手頃な物件を探している。
正しく人を愛したかった、正しい未来を彼と作りたかった。私にとっての正しさは共有し合うこと、そして作り上げていくことだった。生活や心地よい空間や、金銭や役割を、きちんと自分たちで決めた配分通りに、私だけでなく彼の言葉や要求にも私は正しくあろうとした。
気乗りのしない日もセックスした、花粉の舞う時期には鼻が詰まり苦しみながらも口でだってしてあげた。彼の欲望を正しく受け入れようと努力したけれど、感情までは掬えなかったのだろうか、粘ついたものたちをあんなに吐き出していたくせに。私にとっては不快だったけれど、彼のものだから我慢して飲み込んでいた。いつだって私は彼と幸せで在りたかったから、それが私の正しさだったから。
「疲れた」と言葉を残してこの部屋を後しにした彼は、丸い擬音の彼女とどんな関係を築くのだろう。里奈と呼んでいたっけ?その『里奈』とは話し合わないのかな?役割の配分をいちいち決めないのかな?ゴミ出しや洗濯物や洗面台のぬるつきを取り除くことや、食事の準備など、生活のあらゆるルールを言葉なくフィーリングだけで進めていけるのだろうか。
きゅるんとした丸い目で見つめられて、ちゅるんとした唇でキスをして、それだけで進んでいく二人はどこへ流れていくのだろう。
見つめあっているだけで関係が気づけるのなら、私だってそうありたかった。ガンダムのニュータイプみたいな上級の恋愛、言葉を介さない関係性。脳波で互いの思考がわかる──みたいな。きゅるんとした瞳の瞬きで「ゴミ出しして、今日は資源ゴミ」と、それらがわかるニュータイプの恋。なんて考えてみたけど馬鹿馬鹿しくて笑ってしまった、笑いながら涙が出た。私は彼と彼の新しい恋人を小馬鹿にしながらも羨ましがっているのだ。
彼らには別の新しい正しさがあるけれど、私はまだ今まで通りの変わらない正しさに縛られているから。新しい恋人ができたとて、きっと今まで通りに進んでいくだろう。
デートの回数、行きたい場所、お互いにとって心地の良いセックスの頻度と単位。配分の取れた家事分担、収入に見合った生活費の出資、法律婚か事実婚か、マイカーかカーシェアか、子どもは持つか、持つなら何人欲しいのか、このままこの国に定住するのかなどなど。ほら、話し合わないとわからないことばかりじゃない。見つめ合うだけだと何一つわからない。
コップに溜まった水を一度シンクに開け放つ、再びレバーをあげて水を勢いよく注いでいく、ミス・サリバンがヘレンケラーに「水」という概念を示したように。
Water! It’s the water!
形のない水の感触を私はしばし手で味わう。
水という概念を知る前に私はコップに入った透明な液体を水だと教えられた。これは水、これはコップ、これはガラスでできています。これらが乗っているものがテーブルで毎度の食事もここでとります。たぶん多くの人間がきっとそうだ、概念の前に言葉があった。私たちは言葉によって世界を知り作っていく。
次々とこぼれ落ちていく水からは金魚鉢の匂いはしなかった。流れていく水のように彼は新しい正しさのなかに身を置いた、私はもうしばらくここにいる。留まってだんだんと腐敗して匂いのつく水の中に、自分の正しさを見つめながら。
変われないままの私でありながら、このままでいいのだと信じながら。でも少し羨ましくて泣いた、わんわんと泣いた。金魚鉢が涙で埋まる頃、私は私の正しさをきっとまた信じていけるだろうと。