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”アニばら”と”ベルサイユのばら”の違いについて

私は中学生の頃初めてアニメ版「ベルサイユのばら」を観て、田島令子さんの麗しいオスカルさまへ一気に沼落ちしました。幼い頃に放映していたのは知っていたものの、通しで観たわけではありません。中学の頃も、気がついたら再放送をしていたので、革命の機運が高まってきてからしか観られませんでした。それから原作を読んで、泣いて泣いて泣いてどハマりしたのが高校時代。
その後長く愛読していたものの、アニメは観る機会がないまま時がすぎ、オスカルさまの享年もずっと超えてしまった昨今、アマプラで、たまたま他の有料サブスクも勧めてくる中にベルばらがあったため、この際通しで観たいと思いました。
初めて一貫して観てみた感想をここに残したいと思います。

アニばらはスポコンだった!!

アニメ化の際、原作とはちょいちょい違ったオリジナルストーリーを挟むのは、尺とかいろんな都合で仕方ない面があるのはわかるのです。けれども、のっけからオスカルさまが近衛隊に入隊するのを嫌がって、アンドレにグーで殴られるなんて思いもしなかったので、衝撃でした。ちなみに父ジャルジェ将軍なんて、力一杯殴った衝撃で階段から転げ落としています。14の娘をだよ。昭和の劇画センス怖すぎる!! 
その後も割とオスカルとアンドレは殴り合いをしていて、それはミドル昭和の頃にはドラマや漫画で腹を割った友情の確立のためのよくある手段だったようなのだけれど、私はオスカルさまの美しい顔がバキバキ殴られるのが信じられず、ええええっっとドン引きでした。
後半で近衛連隊を辞め、フランス衛兵隊に勤務するのですが、ここら辺などもう少女マンガじゃない。荒くれた酔っ払いの衛兵隊員たちのがなる歌、日常的な暴力。もうね、小さい女の子たちが見て楽しい世界じゃなさすぎて。「あしたのジョー」とか「巨人の星」とかの、男(ヤロー)の世界観。(後から調べたら、やっぱり監督が同じでした)
私は(頭パッパラパーでも)美しいマリー・アントワネットさまと、それに仕える(短気ですぐ剣を抜きたがるけど)麗しいオスカルさまが好きなのであって、むさい男たちを観たいわけではないのだ。なのに、ちょっとこのあたりに力入れすぎだよね。小さい女の子のハートは掴めないと思われました。(大きい女の子もだ)

アニばらのいいところ

ルイ15世の崩御でデュバリー夫人が宮廷を追い出される場面で、オスカルが途中まで馬車を送るというオリジナルストーリーは、短いながら出色でした。憎々しい言動ばかりの敵役だった彼女は、オスカルに胸の内を語ります。貧しい生まれで、日々のパンをどうやって手に入れるかで頭がいっぱいだったことがどんなに惨めか、あなたにはわからないだろう、という風に。マリー・アントワネットやオスカルが常に毅然としていて、賄賂にも応じずに気高くいられるのは、高い身分と潤沢な財産を保証されているからなのですよね。デュバリー夫人を見下げるアントワネットの子供っぽい正義感は、ものすごく狭い視野と、辛い境遇に生きている人間を思いやれない浅さを周囲にうまく利用されたものに過ぎない。貴族の生まれで同い年のオスカルも、この時点ではまだ似たり寄ったり。この挿話がのちに革命に身を投じる彼女に深い印象を与えたのではないか、という説得力になったと思います。
敵役といえば、首飾り事件のジャンヌも、原作よりもよりキャラが立っていて、とても魅力的でした。ジャンヌという人は、原作ではロザリーや母親のことは見捨てたきりでしたが、アニメでは心の底ではロザリーを常に意識していて、根っからの悪人ではないことが折りに触れて描かれています。けれどやることは痛快、中盤ではほとんどピカレスク・ヒロインを担っているほどで、とても良かったと思います。

どうしても残念な点

逆にロザリーはキャラがブレまくっていて、なんだかチグハグな感じでした。母親や姉思いの優しい性格、オスカルさまに恋をしていて、ポリニャック夫人に復讐を誓う女の子ではあるのですが、原作よりもアクティブで、原作ではせいぜい剣の稽古をしてもらうくらいだったのに、アニメではいつの間にか全力疾走の馬を乗りこなしたり、ポリニャック夫人に銃口を向けたりする異常に強い女の子に変身しています。彼女のオスカルさまを想う恋心は、読者・視聴者に気持ちをシンクロさせる上で特に重要だと思うのですが、アニメのロザリーは脇役に配置されているだけで、ストーリーに幅を与えてはいません。黒い騎士事件で再会したベルナールを、正当防衛とはいえ銃で反撃し、その人が恩人であることに涙し、ジャルジェ家を去るときにオスカルさまオスカルさまと泣きながら縋り、思いの丈を振り絞ってベルナールと一緒になるという一連の流れをオールカットしたのは、制作陣が男性目線であるがゆえ、深い理解に至らなかったのだろうかと思えます。
再び彼女が登場するのは、マリー・アントワネットがコンシェルジュリー牢獄に収監された時です。王妃の最後の日々を世話するために、夫から革命委員会に働きかけてもらって、小間使いとなるのですが、そこも時間の都合でさらっと終わりました。
そして、アニメで一番強い違和感を覚えたのが、アンドレと結ばれた後のオスカルです。平民出身者で構成されたフランス衛兵隊員と共に、体制側ではなく革命側につく決心を語る時、「アンドレを夫としたから」「夫の選ぶ道につこうと思う」と、完全に夫唱婦随の思考パターンなのです。原作では、アンドレと結ばれたことと革命への転身は別物で、オスカル・フランソワ個人として、家名と爵位を捨てて革命側につくことを宣言するのですが、アニメの解釈だと、ジャルジェパパに従うのをやめてアンドレに従うことにした、となり、オスカルの自主性、主体性はどこ行ったんだとなるのです。『ベルサイユのばら』の大きなテーマは、一つが王妃マリー・アントワネットの人間的成長で、もう一つがオスカルが表す性別や家父長制度からの解放なのに、アンドレに従うとなると、全然解放されなくなってしまいます。衛兵隊が最初あんなに抵抗したのは「女の下では働きたくねえ」というのが理由だったのに、「夫に従う」オスカルは、従属的な女性であることを選んでしまっていて、ここにアニばら最大の欠点が集約されているように思えるのです。

数々の詳細な研究をされている考察サイトを読むにつけ、やっぱり原作ファンはアニメを別物(別ばら)と見なしているのが多くて、昭和という時代に男性の目線、発想を取り入れた場合、女性たる原作者とは違った様式美や世界観で構成されてしまうものなのだなあと思う次第です。
とはいえですよ、あのデコラティブな主題歌と、茨に取りまかれるギリシャ彫刻のように美しいオスカルさまの裸身、エンディング曲のドラマチック性は、もはやこの世の宝と言っても過言ではなく、アニばらが永遠に名作であることは間違いないと思います。


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