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嵐の中

 『君たちはどう生きるか』という本は、1937年の7月に刊行されています。ちょうど日中戦争がはじまった月にあたりますが、実際に執筆されていた時期は戦争の前、あるいは戦争と戦争の間、ということになります。

 畑で育てている野菜の種を取り、それを毎年引き継ぎながら更新していくと、遠くの土地で生まれた作物が、年々、その畑に合うように変化していくということがあります。(最近では、そんな気の長いことはせずに、品種改良された種を買い求めるのが一般的かもしれません)人間もまた、その土地の風土や世の中の情勢を受けて、変化し、また世間のムードを醸成していたりするのだと思います。

 この『君たちはどう生きるか』という本は、第二次大戦中に発禁になったものの、戦後ふたたび発行されて、読み継がれてきました。近年はさほど多くの人に読まれるということもなく、知る人ぞ知る、ぐらいの位置付けだったようですが(私は全く知りませんでした)2017年にマンガ化されたものがヒットし、発刊から80年を経てふたたび、多くの人に読まれるようになりました。

 80年も前の作品が、どうして今頃になって注目されているのか不思議でしたが、その兆候のようなものは、2017年よりも以前、東日本大震災があった頃から、既にあらわれていたのかもしれません。

 正直で誠実なものが冷笑され、弱いものが虐げられるような事件が止まらなくなっているのに、それを咎める声もその度にかき消され、無力感だけが残りました。このもがけばもがくほど、沈んでいくような重い空気は、1937年にこの本の著者が感じていた空気と、極めてよく似たものなのかもしれないと思うのです。

 こんなムードを、なんとかして変えたいし、そのために、自分の生活と感情から見直さなければいけないと思い続けていました。理由は説明できないのですが、なぜか本や言葉が大事だという確信があって、それにしがみついたまま、その次に何をすべきかはっきりと見えないまま、ずいぶん長い事同じ場所を右往左往しています。

 しかし、この行き詰まった感じは、前にも何度かありました。色々なできごとが重なって起こり、目標を見失って座礁しそうになるタイミングです。いよいよダメかと思いながら、嵐を抜けると、それまでとまったく違う景色が広がっていていて、別のステージに来たような感覚になった事が、少なくとも過去に3回ほどあったと思います。

 まだ暗くて、本当に嵐から出られるのかさえも疑わしくなってはいるけれど、とりあえずは沈まぬように。言葉という木の葉に捕まるアリのように、嵐を切り抜けて、次のステージを見てやるというつもりでいます。

 深刻になりすぎるのも、体に悪いので、時折休みつつしかし、完全思考停止の機械にはならぬように、

生きていきましょう。

『君たちはどう生きるか』は少年向きに、倫理を問う内容として企画されたそうです。
「倫理」なんて授業は、我々が子どもの頃にはなかったのですが、今はあるんですね。
それと近い内容を示していたはずの「道徳」という言葉には、なんとなく不穏なものを感じるようになってきました。

 

 


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