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映画『イニシェリン島の精霊』を観て気づいてしまったこと。

『イニシェリン島の精霊』を観て、パードリック(コリン・ファレル)のことを「憐れ」とか「無神経」とか「知性が低い」という言葉で表現されている方のレビューを見る度になぜかとても悲しい気持ちになって、ずどーんと落ち込んでしまう。この気持ちは何なのだろう、私はどうしてこんなにパードリックにシンパシーを感じてしまうのだろう。そう考えるうちに気付いた、というかわかってたけど認めようとしていなかった自分の内側にあるものを再確認させられたのでここに記そうと思う。
※少しネタバレありです


コルム(ブレンダン・グリーソン)が何故パードリックともうこれ以上一緒にいたくないのかを彼に突きつけるシーンのパードリックの八の字眉毛の悲しい表情がずっと心に焼き付いて忘れられない。

ロバの糞の話を延々と聞かされたこと、自分は音楽をやりたい、その為にはこれ以上パードリックの無駄話に時間を費やせないことをハッキリと告げるコルム。
それだけのことを言われても訳がわからない表情で呆然とするパードリック。

物語は、現実を受け入れられずコルムも実はまだ自分と同じ気持ちでいると信じて疑わないパードリックの足掻きによって互いに大切なもの失くしていく負の連鎖へと転がり落ちていく…

パードリックのことを退屈だと退けるコルム。
そんなパードリックの凡庸さを美点として認め兄として慕う理知的な妹シボーン。
優しいパードリックが大好きなドミニク。
この三人は方向は違えど自分が何を欲しているのかが明確だったと思う。

でもパードリックは違う。
初めてこの映画を観た時から私はこのパードリックという男に共感しまくりだった。
好きな人、気の合う人たち(と自分は思っている)としたいのは、飼い猫のうんちの話やその日会った人見たもの食べたもの感じたことの話だし、そこに最新の情報も深刻な問題への知的な意見交換も必要ない。いわゆるどうでもいい話でその日一日を締めくくることが幸せだと思っている節がある。そして相手もきっとそう思っているのだと。

そしてこれが一番怖かったのだけど、パードリックにとっての幸せはコルムやシボーンやドミニクがいることによって成り立つもので、パードリック自ら幸せを作り出すこともましてや誰かを幸せにすることもできない、ということだ。

この「私は自分一人では幸せになれない人間」「私は自分で自分を幸せにすることができない人間」という無意識の中にうっすらとあった他者依存の感覚をはっきりと気付かされたような気がして、二度目の鑑賞時には彼をバッサリと切り捨てるコルムに怒りと半ば恐怖のような深い悲しみが沸き起こった。
お願いだからパードリックを見捨てないで、私のことも見捨てないで、と。


物語の最後、島に残された二人はこれからどうなるのでしょう。
どなたかのレビューにはパードリックはもう生きていけないだろう、という悲しい予想が書いてありました。
彼と同じように大切な人に拒絶され、大切な人たちを失い一人っきりになった時、私はどうするんだろう。

大好きだけど、なかなか辛い気持ちになる作品でした。三度目はもう少し明るい気持ちで鑑賞したいです。


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