『レッドマリア2』感想(2015.12)

2015.12.1のFacebookより

https://www.facebook.com/100000734393542/posts/1063450753689394/?d=n


『レッドマリア2』(ギョンスン監督・2015)という映画を見てきた。「被害者になりたくない性労働者たちと被害者にもなれなかった売春婦出身の慰安婦問題が交差し、記憶から消えてしまった話を描く」と映画の説明には書かれている。
 映画を最後まで見ると、性労働者たちの話というよりも韓国の「慰安婦」運動は「売春婦」差別をしているというメッセージのほうが強い印象が残った。韓国の性労働者グループ(GG)と日本のセックスワーカーのグループ(SWASH)の女性たちの交流を描きながら、日本で長くから調査活動を行ってきた人たちが純粋な「少女」として強制連行されて「慰安婦」にされたわけではない女性たちについて語る。WAMでは日本が朝鮮や台湾に公娼制度を持って行きそこから慰安婦になった人もいるがそういう人たちは証言をしていないと館長が説明する。また、韓国での「慰安婦」問題解決運動に否定的な人たちが登場し、韓国の運動は「慰安婦」被害を少女のイメージに押し込めてしまっていると批判する。


 正直に言うと、私は日本で出会ってきた私の尊敬する大先輩たちがこのような形で使われていることに強い違和感を感じた。彼女たちが語る話はとても素敵だったからだ。特にフリーライターの川田文子さんが語るペ・ポンギさんとのエピソードは多くの人に聞いてもらいたいと思うものだった。かにた婦人の村の天羽道子シスターが語る日本人「慰安婦」・城田すず子さんの話も韓国ではあまり知られていないので意味があると感じた。また、wamの池田恵理子館長の日本が植民地を広げながら台湾や朝鮮に真っ先に公娼制度を持って行ったことについての説明も非常に分かりやすかった。
 しかし、これらの話は全て、韓国の運動が、少女しか被害者と認めず売春婦は排除してきたという「虚構」への批判材料と位置付けられる。なぜ私がこれを「虚構」だというのか。韓国の「慰安婦」運動は一つではないし、1990年代に始まった運動は25年の間に様々な変化を経てきた。これは日本の運動も然りである。韓国の運動がこのような「虚構」でのみ「慰安婦」問題を訴えてきたのであれば、なぜこの映画で紹介されている日本の活動家たちと25年間も連帯活動を続けてこられたと考えるのだろうか。日本軍「慰安婦」問題は、韓国の運動だけでここまで大きくなったわけではない。もちろん日本の運動だけでもない。韓国や日本、沖縄、台湾、フィリピン、インドネシアなどの各地域の女性運動が根気強く連帯しながら女性への暴力の問題として提起してきた問題である。そして多くの人たちの努力によって国際的なイシューとして全世界で語られる問題とまでなった。


 さらに問題なのは映画ではこの「虚構」を深く掘り下げることをしないことである。韓国側のインタビュー対象者は全て運動に批判的な人たちだけが登場する。ナヌムの家のスタッフがハルモニたちとともに世宗大学の前で朴裕河教授を非難する記者会見の場面は出てくるが、ハルモニやスタッフには個別に話を聞いたりはしない。挺対協を名指しして批判する人たちは出てくるが挺対協の活動もスタッフも登場しない。映画が終わったのち、監督との対話の時間に他の観客や私が「挺対協を取材していないのはなぜか?」「反性売買の当事者運動グループもあるのにこれから取材をするつもりはあるのか?」と尋ねた。監督の答えは、そちらのグループはもう十分に知られているから私がやることではない、とのことだった。
 少女しか被害者と認めず売春婦は被害者ではないという主張は残念ながら日本社会でも韓国社会でも根強く残っている。またマスコミの論調もそのようなものがあることは否めないと感じている。しかしむしろ韓国社会の方がこの考えを克服しようとしているように私には思える。昨年提起された基地村女性たちの国家訴訟はその良い例だと思っている。日本では2014年8月に『朝日新聞』が女性を強制連行したという吉田証言を虚偽だとして関連記事を取り消すいう記事を出した後、「慰安婦」問題は貧しい売春婦の問題で日本が責任を取る必要がないという世論の方が強くなったことを監督はご存知ないのだろうか。
 世論・マスコミ・運動を区別しないまま、また運動の内部や変化を知ろうとする努力さえ放棄したまま、イメージの「虚構」を設定し、その責任を運動にのみ迫る行為は、女性たちを分裂させてしまうだけであり、「売春婦」差別を是とする社会を変える力にはならないだろう。

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