創作大賞2024「消えた昨日の犯人」後編
はっと顔を上げた照真は、しかし、そこが取調室であることに気付いて落胆した。昨日の時点でできる証言はしたと思うが、結果は変わっていない。やはり、気を揉むだけ無駄だったのだ。
「少し気になることがあるんだけど、いいかい?」
星野の問いに視線だけを向ける。特に返事はしなかったが、星野は気にするでもなく話し始めた。
「昨日の話だけど、道を間違えてホテル街を通ったところに、Pコートの男が飛び出して来たんだったよね?」
それは先程、証言したばかりの箇所だった。想像で固めた箇所だけに、何か矛盾があったかとひやひやする。
「そうですけど……」
「どうしてPコートの男はホテル街で待ち伏せていたんだろうね?」
「……どういう意味ですか?」
「だって普通、あなたたちが昼間からホテルに来るとは思わないでしょう? 月宮明里さんを殺害するつもりだったなら、一体何時間待つつもりだったのか……」
照真はぎくりと肝を冷やした。確かに、言われてみればおかしい。
「あなたの話では、犯人はあなたの家から包丁を盗んでまで殺害するほどの強い殺意と計画性がある。なのに真昼間から、それも来るかどうかも分からないホテル街で待つ……というのは、どうも腑に落ちなくてね」
「それは……いつでも良かったんじゃないですか? 人目につかない場所で殺す機会を窺っていて、それがたまたまホテル街だっただけで……」
「つまり、待ち伏せていたのではなく、尾行していたと?」
「……ええ、そうなんだと思います」
「それなら一人の時を狙うと思うんだよね。わざわざ隣に男がいるタイミングを狙うとは考えにくい」
「仕方なかったんじゃないですか? それ以上、人目につかないタイミングがなかったとかで」
「それにしたって、あなたの話では『いきなり目の前に出てきた』んでしょう? 尾行していたなら前に出てくるかなぁ?」
「それは、でも、実際にそうだったから、としか……」
「うーん……まあ、それはそうだねぇ」
零しながら、星野は顎をさすり始めた。
「ただ、そうだとすると、犯人はかなり手慣れた人物になるね」
「……そうなんですか?」
照真が疑問を返すと、星野は動きを止めて照真を観察し始めた。何を見定めているのかが分からず、居心地が悪い。緊張から硬直していると、やがて星野は、世間話でもするように話を続けた。
「仮に、仮にだよ? 仮にあなたが犯人の立場だったとしようか。目の前に殺す相手がいて、自分は後ろから付け狙っている。そして、遂に人目が切れた。チャンスだね。
さて、あなたならどういう行動を取る?」
「……たぶん、静かに距離を詰めて、背中に刺すと思います」
「それはどうして?」
「だって、そうしないと気付かれるじゃないですか」
「まあ、そうだよね。わざわざ前に回り込んで警戒させるようなことは、普通はしない。だから、この犯人は本当に殺すための的確な行動を取っているんだよね」
「的確な行動……なんですか?」
「今は冬だからコートを着てるじゃない? そうすると、背中から刺しても致命傷になりにくいんだよね。意外と防御力が高いんだよ、コートって。でも、前はぴっちりと閉めてないことも多いからね。脆い箇所になる。
じゃあ、お互いに向き合う形になりました。あなたはどこを狙う?」
繰り返される質問に違和感を持って、照真は星野の顔をじっと見た。だが、よほど訓練されているらしく、その思惑が表情に出ることはない。ただただ、どこかに誘導されているようで息苦しい。
「心臓……じゃないでしょうか」
恐る恐る答えると、星野の圧力は少しだけ緩んだ。
「普通はそうだよね、急所だから。でも、実際にやってみると分かるんだけど、相手は咄嗟に顔か胸を守ろうとするから、案外上手くいかないんだよね。特に心臓は肋骨があるから、なかなか刺さらないし。
そういう意味では、お腹って弱くて。刺せば何かしらの臓器には当たるから、即死することはなくても致命傷になることは多いよ」
淀みなく語る様は、知識の豊富さを窺わせる。照真が素直に感心していると、星野は苦笑しながら首を捻った。
「本当におかしな反応をするね」
唐突な変化に、照真はきょとんとしてしまう。
「Pコートの男がどうしてホテル街で待ち伏せたのかって話。そんなの『犯人でないあなた』には関係のない話なんだから『分かりません』でいいはずなのに、必死で取り繕っている。これは怪しい、ってなもんだけど……」
指摘されて、血の気が引いた。照真は明らかに選択を間違えたのだ。しかし、星野は渋い顔をしていた。
「でも、犯人として見ると、どうにも知識が足りていない。今のあなたが犯人なら、被害者は背中か腕に傷があるのが自然だ」
言いながら、星野はくつくつと笑った。
「あなたは、いい役者になれるよ」
皮肉な言い種には怒りが湧く。警察の中では、どうあっても照真が犯人なのだ。
***
気付けば照真は自分の部屋にいた。スマホを開くと、12月25日の午前11時23分。明里からのメッセージは、昼まで用事ができたとの連絡以降、何も来ていない。
『まだかかりそう?』
試しに送ってみると、しばらくしてから『ごめん! 都合が付いたら連絡する!』とのことだった。
返事を眺めながら、照真はふと思った。
メッセージを送れば返事が来るし、電話を掛ければ救急車が来る。それ自体は当たり前の話だが、今が過去であることを踏まえると別の意味を含んでくる。
これは『過去を変える』体験ではないのか。
もちろん、今と同じ行動を昨日の照真も取っていた可能性はあるし、救急車は照真が呼ばずとも誰かが呼んでいたとは思う。犯人を証言しても捕まっていたのは照真だし、すぐに救急車を呼んだからといって明里が助かったわけでもない……いや。
確認し損ねたが、殺害から傷害に変わっている可能性はある。
もし過去を変えられるのなら。その可能性が僅かにでもあるのなら。
照真は思い切って立ち上がった。
――明里を救うことができるかもしれない。
居ても立ってもいられず、照真はブラウンのダッフルコートを羽織り、黒のボディバッグを引っ掛けて外に出た。普段なら家で済ませる食事を、今回はあえて喫茶店で取ることにした。
今、照真は望み通りの行動が取れている。それは『過去を変える』という事象の証明そのものだ。
これまで、照真は凶器の指紋を拭き取らなかったし、警察には素直に犯人の服装を証言した。つまり、過去を変える積極的な行動を取らなかった。けれど、もし何か明らかに違う行動を取ったなら、未来は大きく変わるのだろうか。
例えば、犯行現場に行かないだとか。あるいは、今日は明里に会わないだとか。
過去を変えるとどうなるか。タイムトラベルにタイムパラドックスは付き物だが、その結論は大別すれば2種類しかない。『変えられる』か『変えられない』かだ。祖父殺しのパラドックスでいえば、『変えられる』なら、祖父を殺した結果、自分も一緒に消えてしまう。『変えられない』なら、祖父は元々そこで死んでおり、自分には実は血縁がないことが判明するなどして収束する。
今回の事態が仮に後者のスタンスを取るなら、照真と会わずとも明里が殺される可能性はあるし、犯行現場に向かわなければ交通事故などで死んでしまう恐れもある。
だから、少なくとも照真の視点では変化が起こせるのであれば、その場で防ぐのが一番の得策に思う。不測の事態から守るよりは、予測の事態のほうが対処がしやすい。
照真に25日の記憶はなかった。だが、今はだいぶ埋まってきている。これが記憶の空白を埋めているのなら、同じ時間を二度繰り返すことはなさそうに思える。それなら慎重であるべきだ。
現在の時間を確認する。12月25日の12時25分。明里からの連絡は、まだ来ない。
13時が迫り、照真はホテル街に向かうことにした。明里からの連絡はないが、既に移動を始めないと間に合わない時間だ。
嫌な予感はひしひしと募る。寒気がするのに腋に変な汗をかく。
照真は明里とホテルに来たのではなかった。一人でホテルに向かい、通りかかった明里と鉢合わせるのだ。
緊張を破る突然の通知音は、明里からのメッセージだった。
『2時には行けそう! 早く会いたい!』
『俺も会いたい! 楽しみだ』
返信していて空寒かった。
俺は今、本当に明里に会いたいのか? ホテルの前で鉢合わせることを、俺は本当に望んでいるのか?
13時9分。ホテルの前で照真は凍りついた。明里がホテルから出てきたからだ。男と一緒に。明里が照真に気付いて固まると、隣の男も状況を察したようだった。
男の容姿を確認する。野暮ったい黒髪で、眼鏡は掛けていない。顔立ちにも厳つさはなく、一見すると優男に見える。服装はライトグレーのパーカーに黒のスキニー、そしてネイビーの、ボタンが2列並んだコート――Pコートを着ていた。
ここに至って照真は、犯人の服装を証言した時に星野が訝った理由に気が付いた。
『その男の顔や服装は覚えていますか?』
『顔は……すみません。一瞬のことだったので、ちょっと……。あ、でも、服装は覚えています。ネイビーのPコートを着ていました』
コートがPコートであるかどうかは、前から見ないと分からない。しかし、今、照真がしたように、前から見たなら先に顔を確認するではないか。コートの種類を断言できるほど見ていたなら顔も見ているはずだし、逆に顔が分からないくらい一瞬だったならコートの種類も分かりはしない。
だから星野は、照真が隠し事をしたと穿ったのだ。疚しいことがなければ、隠し事などしない。それは疑いを向けるには充分すぎる理由だ。
「照真。落ち着いて?」
逃避していた思考を遮ったのは、強張った明里の声だった。
「私たち、もう無理だったんだよ」
***
目の前が真っ暗になった。重力の方向が反転する。早鐘のような心臓の鼓動は一向に鳴りやまず、先程の光景は網膜に焼きついて離れない。
『私たち、もう無理だったんだよ』
脳裏で声が残響する。
――浮気じゃないか。
裏切られたという衝撃が、熱を伴ってミシミシと頭を締めつける。ぐらぐらと腹の中で煮えたぎる激情は、ともすれば憎しみへと変貌してしまいそうになる。
照真に明里を殺す動機などなかったはずだった。それなのに、今、恨みが明確に形を持ちつつある。
倒れた明里の情景は、はっきりと覚えている。鳩尾に刺さった包丁は、明里に訪れる死の運命の象徴そのものだ。
照真は、それが現実になればいいと思った。いや、現実になるのだという強い確信があった。何せ照真は、その場面を実際に見たのだ。
視界が闇に慣れてくると、見えてきたのは見慣れた天井だった。毎朝のように見ている天井――そこは照真の自室だった。照真は深夜のベッドに横たわっていた。
なぜここにいる? 俺は寝ていたのか? 見た光景は夢だったのか?
……今はいつだ?
スマホを見る。25日の深夜0時3分。
状況を呑み込んで、照真の口からは小さな吐息が漏れた。
照真には25日の記憶がなかった。それは『起きてから』の記憶がないのだと思っていたが、実際には『眠る前から』なかったのだ。明里とのデートに想いを馳せ、昂って眠れずに日を跨いでしまったから。
「ははっ」
そこまで考えて、照真は失笑していた。馬鹿みたいだった。
照真はこんなにも想いを育んでいたのに、それは自分だけだったのだ。
明里の中にそんなものはなく、彼女は容易く裏切ることができたのだ。
握り締めた手の中でスマホが震える。受信したメッセージは友人からだった。
『今どこにいる?』
億劫で『家』とだけ短く返すと、続く返事はすぐに来た。
『これ、お前の彼女じゃないか?』
文字と共に添付された写真では、明里と今見た男が楽しげに食事をしていた。白のニット姿の明里と、ライトグレーのパーカーを着た男。その隣には、ベージュとネイビーのコートが重ね合わせて置かれていた。時刻は日没間もない頃だろうか、窓の外では赤い残光に照らされたイルミネーションが煌めいている。
『今日見かけて、言うべきか悩んだけど、やっぱり知らせるべきだと思って』
『ありがとう』
簡素な謝辞を送った瞬間、膨れ上がった感情が決壊したのが分かった。
「ははははっ、傑作じゃないか!」
照真は笑いを堪えきれなかった。何かがどうしようもなくおかしくて、照真は涙を散らしながら笑っていた。
写真に写る二人の服装は、ホテル前で会った時と全く同じだった。同じ服装のまま、次の日にホテルから出てくる理由なんて、他にあるはずがない。
二人は今、致しているのだ。
明里との未来を願う照真のことなど、微塵も顧みずに。
一室でまぐわう男女の幻影が、照真の意識を埋め尽くす。いくら振り払っても、たちまちに人の姿が像を結ぶ。
この夜を攫われた意味に気付けないほど、照真は機微に疎くはない。25日さえ平気で半日奪ってしまえるのは、明里にとっての照真の価値が、あの男よりも遥かに低いからだ。
明里を想えば想うほど、明かされた落差が滑稽で仕方ない。
仕事の都合でイヴに会えないのは嘘だった。
当日に外せない用事ができたのも嘘だった。
早く会いたいというメッセージも嘘だったし、もはや付き合っているという事実すら嘘になる。
嘘、嘘、嘘。何もかもが嘘だ。
上手くいかないなら、せめてそう告げてくれ。二人のことは二人で決めるのが当然だろう。なぜ交際を続けるかどうかにすら、俺に話し合う権利がないんだ。俺はペットや道具じゃないんだぞ。どうしてその程度にすら人を尊重しない。どうすればそこまで軽々しく人を侮辱できる。
それでも、照真は明里が好きだった。だからこそ、余計に思う。
俺が本気で惚れた女性を、平気で卑しめないでくれ。頼むから。
笑いが収まった頃には、疲れて喉がカラカラだった。照真がキッチンに赴くと、奥でくすんだ金属がぎらりと光を反射した。
歩み寄って手に取ってみる。黒いグリップの握り心地は、思ったほど悪くはなかった。
明里との交際。その未来を選択する権利は照真にはなく、完膚なきまでに明里がぶち壊してから提示された。明里殺害の容疑もそうだ。照真の認否に関わらず警察に逮捕され、どう抗っても立場は変わらなかった。明里が殺されたことも、記憶が一日飛んだことも、全ては照真を蚊帳の外に進行していく。
照真は当事者であるはずなのに、その意思は全く尊重されない。それではあまりに不条理ではないか。
無意識に、手にした得物を握り締めていた。
意思に反する全ての事象を照真に紐付ける魔法の道具が、今、この掌の中にある。
照真は抜き身の包丁を、ボディバッグに忍ばせた――
***
「照真も分かってたでしょ? お互いに、もう気持ちが離れてたじゃない」
明里が何かを言っていた。
「照真のためにも別れたほうがいいと思うんだ。照真にはすぐに、私よりもっといい人が見つかるよ」
どうして彼女は、人の気持ちを勝手に決めつけるのか。照真が誰を想い、何を良しとするのかを、どうして明里が裁断するのか。
当人の運命は当人が決める。それが尊重するということだろう。
照真はボディバッグに手を差し入れた。今し方、握ったばかりのグリップは、思いのほかしっくりと照真の手に馴染んだ。
切っ先を突きつけると、明里は「ひっ」と悲鳴を上げた。構わず振り被ると、明里は咄嗟に頭を庇った。星野の言う通りだった。
照真は力を込めて、明里の腹に包丁を突き刺した。弾力は手に伝わってきたが、物理的な抵抗は軽く、刃はすっかり深く沈んでいた。チキンソテーにナイフを入れるよりも、ずっと柔らかな感触だった。
明里の体がぐらついた。照真はまだ包丁を握っていた。
包丁から手を離せば明里は倒れる。そこからは既知の光景だ。そうしたら、この時間が終わってしまう。
今、謂れのない逮捕をされた照真に、逮捕される理由ができた。突然殺された明里も、自分が手に掛けたなら承知できる。記憶が一日飛んだお蔭で、照真にはそれを成し遂げることができた。
明里は平然と裏切り、平気で嘘をつき、勝手に物事を決め、軽々しく尊厳を踏みにじった。だけど、これは明里が卑しいのではない。照真が愚かで憐れだから、明里は蔑むしかなかったのだ。照真が嫉妬に狂い、逆上して刺し殺すような、愚かで惨めで醜く浅はかな人間だから、明里は見下さなければならなかったのだ。
そうでなければ、おかしいのだ。
ふっと気が抜けて、照真の手から包丁が離れた――
***
そこは狭い部屋だった。目の前には星野がいた。照真は椅子に座っていた。身動きは取れなかった。
星野は照真をじっと観察していた。照真もしばらく目を合わせていたが、やがて虚しくなって視線を下げた。安っぽい机が目に映った。
「刑事さんは、過去を変えることってできると思いますか?」
「そりゃ無理だろう」
すげない返事は真っ当すぎて、身も蓋もない。
「ですよね」
けれど、照真は少しだけ安心していた。
照真が明里を殺したのは昨日、つまりは過去のことだ。だから恐らく、照真が何をしたところで、今更変えることはできなかったのだと思う。
照真がPコートの男を証言できたのは、ホテル前で会った時点で服装を見ていたからだ。朝見た夢で、見知らぬ男女が明里の両親であることを疑いもしなかったのは、明里が搬送された時点で顔を合わせていたからだ。照真が逮捕されたのは、明里を殺害したから。出会うなり刃を取り出せたのは、深夜の時点で明里の浮気を知っていたから。照真がホテルに向かったのは、浮気はきっと何かの間違いだと、最後まで信じていたかったから。
時間と論理は繋がっている。混乱していたのは照真の時間だけだ。
他者の知る昨日と、照真の過ごした昨日。それらは完全に同じではないかもしれないけれど、結局は、ほぼ同じ形に収束してしまった。
照真は明里が許せなかった。
その事実だけが、揺るぎなく、ここにある。
俯いたままでいる照真に、頭の上からは溜息が落ちてきた。
「まあ、過去を変えるというのとは少し違うけどね」
照真は目だけを星野に向けた。星野の顔からは、初めて温情が覗いて見えた。
「今を変えることで、過去をマシにすることはできると思うよ」
その言葉は、嫌にチクリと胸に刺さった。
――今を変える。
振り返れば、この二日間、自分は何をしていただろう。
明里の浮気に見ぬ振りをして、殺してしまったことすら忘れて。その上で彼女を助けようとする、ヒーロー気取りの自己欺瞞。
どこまでも現実を拒絶する小日向照真という人間は、一体どれほど醜悪だったことだろう。
「刑事さん」
照真は姿勢を正して前を見た。星野もまっすぐに照真を見返していた。
「明里を殺したのは、俺でした」
認めた瞬間、涙が止まらなくなった。ぐちゃぐちゃになった感情が、今、ようやく追いついたのだ。
了