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創作大賞2024「はらからの恋」一章後編

一章前編はこちら。


「今日、親がいないんだ」
 次の日、家の前で別れる直前に、僕はつい言ってしまった。昨日の悲しげな顔が、頭から離れなかったから。
「だから、うち来る?」
 言ってから思った。
 これ、エッチなこと誘う時のヤツじゃん!!
「うん、行く」
 照れながらの返事すら、卑猥な意味に思えてくる!
 違うんだ! 僕は必死で打ち消した。
 明里さんを部屋に通すと、彼女は物珍しそうにきょろきょろと見回していた。
「特に何もない普通の部屋でしょ?」
「そんなことないよ。興味深い」
 何がだろう。観察されると無性に落ち着かない。
「何か飲み物取ってくるね」
 逃げるようにその場を離れると、キッチンの冷蔵庫を開けて缶ジュースを2つ手に取った。部屋に戻ると、明里さんは立ったままで待っていた。
「あ、ごめん。どこでも座っていいよ……って言ってもあれか。ちょっと待ってて」
 僕はテーブルを真ん中に広げて、持ってきたジュースを置いた。そしてクッションを用意すると、これでようやく腰を据える場所が確保できた。僕が座るのに合わせて、明里さんも腰を下ろす。
 明里さんと向かい合って座ると、僕は目が合うだけで照れてしまって、どうにも間が持てない。とりあえず、缶を開けて一口飲んでみたりして。
「部屋に何か気になるものとかあった?」
「うん、いろいろ。ベッドなんだなぁ、とか、パソコンあるんだなぁ、とか」
「特に珍しいものではないと思うけど」
「でも、私は布団で寝てるし、パソコン持ってないよ」
「そうなんだ」
「うん、布団のほうが場所取らないし、スマホがあれば不便もしないし」
「そういうものかな」
 何だか自分が特殊なように思えて、気恥ずかしさから首の後ろを掻いていると、明里さんの視線が机のほうに向いた。
「照真くんはパソコンで何するの?」
「基本的にはゲームが多いかな」
「どんなゲーム?」
「今はFPS……えーと、自分の視点で人と対戦するゲーム、かな。明里さんはゲームってやる?」
「私はあんまりしないかな。騒がしいのとか忙しいのとか、苦手で」
 早速、話の種が潰れる。共通の話題があれば盛り上がれると思ったのに。
 繰り出せる話題に何があるだろう。そう考えて、僕は明里さんが教室で本を読んでいたことを思い出した。
「そういえば、明里さんって本読むの好きなの?」
「うん、そうだね。本は静かだし、裏切らないから」
 その返答が意外で、少しぽかんとしてしまった。好きな理由って、面白いからとか楽しいからとかじゃないのか。
 疑問は顔に出ていたらしい。
「本って、急いで読んでもゆっくり読んでも、内容は変わらないでしょ? 自分のペースで進ませてくれる、ってすごく大事な要素だと思うんだ。現実って忙しいじゃん。みんな自分の都合を押し付けるばっかりで、誰も私には合わせてくれないし。だから、娯楽くらいはそういうものを楽しみたいの」
 彼女の語る内容には、妙に感心してしまった。
 娯楽に『楽しい』『面白い』以外の価値基準があるなんて。
 ゲームなんて、面白いからプレイするのだ。つまらなければ遊ばない。
 だけど、明里さんの言葉からは、その前段階に『楽しむことができる』という基準が見えた。
 僕はシミュレーションゲームが苦手だった。なぜ上手くいくのか、なぜ失敗するのか、分からないままに決着するからだ。それは僕の頭が悪いからだと思っていたけれど、明里さんの言葉を借りれば『自分のペースに合わないから』だったのかもしれない。
「そんな考え方、したことなかった。すごく知的な視点だと思う」
 明里さんはきょとんとしていた。
「……変って思わないの?」
「変かもしれないけど、悪くはないでしょ。これを変だと笑う人がいたら、それはその人の感性が鈍いんだよ」
 明里さんは目を細めていた。その穏やかな顔に、僕は釘付けになった。僕の前で見せてくれたその表情を、僕が見逃すわけにはいかない。妙な義務感は言い訳の表れだ。本当はただ僕が見たいだけ。
「照真くん、ちょっとじっとしてて」
 明里さんの赤らんだ顔のお願いは、僕には断ることができない。僕が返事するよりも早く、立ち上がった明里さんは僕の隣にぴったりと座って、胸の辺りに凭れかかってきた。
「明里さん」
 びっくりして、思わず仰け反った僕だけれど、明里さんはこの状態から動かない。さすがに逃げるわけにはいかず、かといって、何もせずにいるのも居心地が悪くて、僕はそっと明里さんの肩を抱いた。指は思いのほか深く沈んで、その柔らかさに驚く。伝わってくる温かさは、僕が触れてしまっていいものかと不安になるくらいだ。そういえば、手を繋いでいた時はひんやりしていたな、なんて、思考が過去に飛んでいく。どうやっても意識が今に留まらず、頭がまとまらない。
 今の状況に集中してしまったら……。
 考えた途端、体が火照って熱が集まる。男の性だが控えてくれ。今はそんな状況じゃないから。
 だけど、思考はどんどん吸い込まれていく。
 肩でさえ、こんなに柔らかいのに、じゃあ他の場所を触ったらどんな感触なんだろう。腰は? 胸は? 唇は? 触れたい。でも、明里さんは今、そんなことは望んでないだろう。抑えろ。ああでも、すごくいい匂いがする……。
 頭がくらくらしてきた頃、ようやく明里さんの体が離れた。胸元から熱が抜けて、急速に体が冷え込む。ふわふわしたまま明里さんを見ると、彼女も真っ赤な顔をしていた。
 先に動いたのは彼女だった。
「ごめん! ありがとう、帰るね」
 明里さんは勢いよく立ち上がると、そそくさと部屋を出ていった。追いかけようとは思ったものの、僕の体は動いてくれず、遠ざかる足音だけが耳に届く。
 がちゃん、と玄関のドアが閉まる音がしてから、僕はようやく体が自由になった。
 一人になった部屋で、僕は思わず深呼吸した。長く呼吸を忘れていたかのように苦しかった。
 ……何が起きたんだろう。
 それが率直な感想だった。
 どうして明里さんは、いきなり抱きついてきたんだろう。何がきっかけで、何を思っての行動だったんだろう。それ以上には何もせず、何かを要求するわけでもなく。肩を抱くだけで留まった僕の対応は、果たして正解だったのだろうか。離れた後で照れていたから、手を出さない僕に呆れたわけではないのだろうけど。
 視線を戻す。テーブルの上。飲みさしの缶ジュース。明里さんが口を付けた――ごくりと喉が鳴る。
 僕はかぶりを振った。さすがに駄目だ。
 自分の分だけ飲み干して、あとは流しに捨てた。無心で。

 夜になっても集中できなかった。机に向かっても宿題は進まないし、ゲームをやっても不意を突かれて負けるばかり。
「……駄目だ」
 僕はベッドで横になった。ぼんやりと天井を見ながら息を吐く。
 どうやっても気が散る。今日、明里さんがこの部屋にいたという事実が、どうしても頭から離れない。
 気を抜いていれば明里さんの座ったクッションを見つめてしまうし、目を閉じても「照真くん」と僕を呼ぶまろやかな声が脳を揺らす。
 頭の中が明里さんでいっぱいだった。この状態から脱する方法なんて、僕は知らない。できるのは、ただ吐き出すことだけだ。
 ……。……。終わって、ちょっと自己嫌悪。

***

 朝になって玄関を出ると、今日も明里さんはそこにいた。昨日のことを思い出して、僕は彼女を直視できなくなる。
「照真くん、おはよう」
 明里さんはいつもの笑顔だった。杞憂だったのかな、と僕は小さく息を吐いた。
「明里さん、おはよう」
 僕が手を差し出すと、明里さんは突然腕を組んできた。驚いて強張った僕だけれど、明里さんの笑顔は変わらない。
「昨日はありがとう。受け入れてもらえたみたいで嬉しかったんだ。これからも迷惑掛けると思うけど、お願いね」
「う、うん」
 歩く拍子に柔らかな感触が当たってドキドキする。手を繋ぐだけの中学生みたいな交際から、成熟した大学生くらいの親密度まで、一気にランクアップだ! 高校生の僕たちはいずこ。

 腕を組んだ明里さんは、いつもより饒舌に好きな本の話をしていた。それを見て僕は、随分と心を許してくれたんだなと思った。
『照真くんは好きな食べ物って何がある?』
『照真くんは部活って入るの?』
 これまでは、照真くんは、照真くんは、と僕の話題を振ってくれていて、まるでお見合いのような話し方だった。それがプライベートな話題に移ってきたのは、明確に距離感が変わった証拠だ。
「照真くんって本は読むの?」
「うーん、あんまり読まないかな。文字に集中するのは苦手でさ」
「それは残念。お勧めしたい本があったんだけどなぁ」
 言われて僕は苦笑い。ちょうどゲームを勧めたかった昨日の僕と反対だ。食べ物だったり趣味だったり、好きが合わないのは、ちと辛い。

 学校に着く頃には、僕の腕はもはや抱き締められる感じになっていた。他の生徒にもじろじろと見られていて、正直、シャイでピュアな僕には刺激が強すぎる。
「あの、これはさすがに恥ずかしいというか」
「ええ? 意識しすぎだよ。みんな、そこまで他人に興味ないから」
 いえ、じろじろ見られてますが。というか、十人並みの僕が世界一の美少女(主観)を連れているのだから、目を引かないわけがない。明里さんはもっと自分の魅力を意識すべきだ。
「それに、こんなこと今しかできないんだから、今できるうちにやっとかなきゃ」
 言いながら頭をこすりつけてくる。さわさわと揺れる髪の感触は、初めての体感でドキドキした。
 女子に好かれるのは初めてで、それがこんなにも可愛い人で、しかもベタベタと甘えてきて。
 嬉しくて、本当に嬉しいのに、僕の理解が追い付かない。
 友達がいなくて、本を読むのが好きで、人と距離を取る彼女にとっては、人と触れ合うこと自体の負荷が高いと思うのに。
 でも、これは僕が勝手に想像しているだけで、明里さんにとってはそうではないのかもしれない。もしそうだとすると、中学の時の女子から総スカンを食らうほどの恋愛トラブルというものが、妙な意味を含んでしまうような気もするけれど。
「照真くん。私のこと、好き?」
 じっと僕を見つめる眼差しが目映すぎて、ふらっと意識が飛びそうになる。
「もちろん。好きだよ、明里さん」
「えへへ、嬉しい」
 明里さんとの密着度が上がる。満たされすぎて、胸が苦しいくらい。

 教室に着いても、チャイムが鳴るまで明里さんは僕のそばにいた。お蔭で星野は遠慮しているようだった。授業が終わっても、休み時間のたびに僕の前にやってくる。昼食ももちろん一緒に。今日はウインナーを『あーん』された。そして放課後も並んで、今日あったことを話しながら帰宅する。家の前で別れて、そういえば今日は一日、明里さんとしか話してないな、と思った。
 部屋に入って、僕は溜め息をついていた。そのことに自分で少し驚いて、ややあってから腑に落ちた。僕は疲れているんだ。
 明里さんのような美しく可憐な少女が、僕を好きだと慕ってくれる。そんな幸せな日常が過ごせているのに、僕は却って不安を拗らせてしまっている。
 この幸せは何かの間違いなんじゃないかと、心の底で疑っているのだ。疑っているから、気が休まらずに疲れてしまう。
 流行に疎く、親の買う服を着ているような非モテの僕が、どうして明里さんにここまで好かれているのか。明里さんは何を思って積極的な行動に出るのか。それが分からないから不安になる。何かはっきりと納得できる理由が欲しい。
 僕は星野に電話を掛けた。
 僕は知っている。特定の何かに囚われず、臨機応変に過ごせる奴というのは、問答無用でモテるのだ。
「もしもし、恋愛について聞きたいんだけど」
 用件を述べると、電話の向こうで笑う声がした。
「直球だな。月宮さんと何かあった?」
「分からないんだ。自分でも信じられないくらい好かれてる気がして、なぜだか僕は、それが納得できなくて不安になっている」
「……それで?」
「どうすればいいと思う?」
「うん……まあ、納得するしかないんじゃない?」
 呆れ口調だが、簡単に言うな。
「できないから聞いてるんだ。できるなら聞いてないよ」
 僕の言葉に、星野は「うーん」と唸った。
「まず、小日向はどこで引っ掛かってるんだ? 月宮さんが小日向のことを好きなのが信じられないとか、そういう感じ?」
「いや、何て言うか、僕が思ってる以上に好かれてる気がするんだ。今日もそうなんだけど、あんなにベタベタされるっていうのが、自分の理解を超えていて、納得しきれない」
「ああ。気持ちの大きさとか、付き合うペースとか、釣り合い取れないと辛いよな。月宮さんは距離感がだいぶ近いみたいだし」
「そう! そうなんだよ」
 明里さんは僕が想定している以上に距離感が近すぎるんだ。
 教室で昼を一緒に食べるのはまだしも、衆目の前で『あーん』はさすがに悪目立ちする。腕を組んでくっつきながらの登校なんて、その最たるものじゃないか。
 かと思えば、教室では一人で静かに本を読んでいたりして、目立たないように振舞っている。僕以外の人とは話している姿も見かけないし、他者との間に壁を作っている風ですらある。
 無用な人付き合いを避けたいのであれば、悪目立ちするのも避けたいはずだ。そうすると、彼女の行動は噛み合わせが悪いのだ。しかも、これらの行動が入学一週間で告白してから更に数日というのは、さすがにペースが早すぎる。
 こうした違和感が絶妙な不安感となって、僕にまとわりついている。
「もっとこう、公私の区別というか、TPOというか、違いを付けてくれないと混乱するし、そもそも、お互いの進むペースを確認しながらじゃないと、絶対どっちかが無理することになるし。でも、こういうのって、いちいち確認してると鬱陶しく思われたりするのかな?」
「いやー、でも確認しないと後で爆発するでしょ。そしたらどの道、上手くいかないって」
「やっぱりそうだよね」
「まあ、好きでいてくれてるうちに上手くやれよ。嫌われたら、それは元から無理だったんだと思え」
「不吉なことは言わないでくれ!」
 電話の向こうで調子良く笑う声が聞こえる。そうやって笑ってくれると、心配事も軽くなる気がした。
 笑い声が収まると、星野はふっと声を潜めた。
「1つ、気になることがあるんだけど、いい?」
「なんだ?」
「朝、月宮さんが小日向の家まで迎えに来るんだよね?」
「そうだけど」
「いや、遠くない?」
「……どういうこと?」
「だって、学区が違うだろ。月宮さんの家、俺は中学が同じだから大体の範囲は分かるけどさ、そしたら小日向の所とは全然方角が違うぞ」
「え、でも、うちに来た時、家はこっちだって……」
「そう言ったの?」
「うん……」
 二人して押し黙る。そう言えば、僕の家まで来た後、明里さんはいつも来た道を戻っていたような。
「……ちゃんと話し合ったほうがいいんじゃない?」
「そうかもしれない」
「ごめん、変なこと言ったな。まあ、応援してるからな」
「うん、ありがとう」
 電話を切って、深く息をついた。
 嘘というものは厄介だ。1つでも見つかると、他の全てが信じられなくなってくる。
『自分のペースで進ませてくれる、ってすごく大事な要素だと思うんだ。現実って忙しいじゃん。みんな自分の都合を押し付けるばっかりで、誰も私には合わせてくれないし』
 そう言っていた明里さんなのに、交際を急ぎすぎじゃないのか? 自分の都合を押し付けすぎじゃないのか?
『私も頑張るのって苦手だから。すごいなぁとは思うけど、やっぱり自分には無理だなぁって思っちゃう』
「頑張ってる自分が想像できない」と言った僕に「その気持ちが分かる」と言った明里さんなのに、根を詰めすぎじゃないのか?
 考えれば考えるほど、もやもやした気持ちが膨らんでいく。
 明里さんは何を隠しているんだろう。
 本当に、ちゃんと話し合わなきゃ駄目だ。

***

 心を決めて迎えた朝。そこに明里さんの姿はなかった。張り切った気持ちがつい萎れてしまう。
『今日はどうしたの?』
 ひとまず連絡を入れたものの、返事は来ない。仕方なく、僕は一人で登校した。
 一人で歩いてみると、通学路は妙に寂しく思えた。僕はずっと、明里さんと登校していたんだ。学校に慣れるよりも早く、明里さんと過ごしていた。気が付けば、明里さんといる日常こそが、僕の慣れた学校生活だったのだ。

「おはよう」
 星野と挨拶を交わす。やはり学校にも明里さんはいない。
「今日は1人なんだな」
「うん、今日は来なかったんだよね。連絡しても返事がないし……」
「寝坊か?」
「分かんない。でも今日、久しぶりに一人で登校してみたら、なんかすごく寂しかったんだよね」
 ぼやきに星野が笑う。
「早くすっきりできるといいな」
「うん、そうだね」

 明里さんは休むと学校に連絡があったらしい。それでもスマホに返事が来ないのは、よほど体調が悪いのかと心配になる。
 授業が進み、今日は星野と昼食を食べ、放課後になる。学校を出た辺りで、ようやく思い出したようにスマホが振動した。明里さんからの返事だ。
『助けて。照真くんの家の前にいる』
 は? え、なんで?
 一瞬だけ混乱した僕は、すぐに内容を把握して走り出した。
 明里さんに何かあったのか!?

 家の前に着くと、明里さんがぽつんと立っていた。彼女は僕を見つけて破顔する。
「照真くん、ありがとう。すぐに来てくれた」
 僕は荒い息をしながら辺りを見回すが、特に異変はなく平穏で、怪しげな人影なども見当たらない。当の明里さんも、のんびりと落ち着いている。
「……どういうこと?」
 事情が分からず問いかける僕に、明里さんが近づいてくる。そして、ぎゅっと抱きついてきた。
「ありがとう。嬉しい」
 至近距離での短い言葉にドキドキした。だけど、同時に不安にもなる。
 いくらなんでも無防備すぎやしないか。僕のことを信頼しているというよりも、自分の身を顧みていないような。
 だって、助けてと言って何もなければ、普通は怒るぞ? 僕は明里さんが大好きだから、ただ心配するだけだけど。
 今にして思えば、積極的に悪目立ちする行動を取っているのも、かなり危うい気がする。もし僕と別れることになったら、以降の学校生活を一体どうするつもりなんだ? 周囲に壁を作って、僕一人だけに寄りかかって、それが破綻したらたちまちに孤立する関係なんて、もはや依存じゃないか。
 こんなのは信頼じゃない。向こう見ずと言うんだ。
 明里さんが顔を上げる。彼女の目は僕を捉えて離さない。
「照真くん。お願い、じっとしてて」
 言うなり、顔がすっと近づいてきた。視界いっぱいに彼女の眩むような面が映る。赤く上気した頬は、夕日のせいではないはずだ。
 明里さんは目を開いたままだった。瞳は朧に揺れていた。その悲しげな表情が堪らなくて、僕は彼女を抱き締めた。顔を逸らして。
「明里さん。待って」
 呼ぶと彼女は身じろぎした。それでも離れていかないように、僕は力を込める。
「これは駄目だよ」
「なんで? 照真くん、私のこと好きでしょ?」
 掠れた声が耳元で囁かれる。それだけで蕩けてしまいそうになる。
「もちろん好きだよ。でも、これは違うよ。今の明里さんは、すごく投げやりに見える。それだと僕は嬉しくない」
 彼女は黙り込んだ。僕は離さないでいた。僕たちの影は重なり合って、通りの向こうまで伸びていた。そのまま薄らいでしまいそうな彼女の体を、僕は静かに抱え込む。
「今の明里さんって、本当に自分の本心? 無理してない自然な明里さんなの? 本当に自分のペースでいられてる?」
 彼女からの返事はなかった。その無言を肯定の印と受け取る。
 夕日に照らされた僕の影はどこまでも伸びて、まるで巨人のようだった。
「何かあったのなら教えてほしい。僕は明里さんの助けになりたいんだ。明里さんのお蔭で、僕は幸せだから」
 今の僕はアトラスだった。彼女に係る痛みや不安、苦しみを与える何もかもから、ただ彼女だけを守りたかった。
 腕の中で、明里さんの力が抜けた。僕はその体を抱き留める。
 と、不意に彼女は泣き出した。一瞬だけうろたえてしまったけれど、僕は気を取り直して、彼女が落ち着くまでその体を支えていた。
 ごめんなさい、ごめんなさい、と泣き声に謝罪が混じる。
 大丈夫だから。宥める声は届いただろうか。

 明里さんが落ち着いてから、僕は彼女を部屋に招いた。あの日と同じように向かい合って座った僕は、けれど思い直して彼女の隣に座り直した。昼食時に横並びに座っていたのも、何かしら意味のある行動なのだと思って。
 明里さんは俯いて黙りこくっていた。
「明里さん」
 僕はそっと彼女の手を取る。彼女の手はやっぱりひんやりとしていて、同時に少しの震えが伝わってきた。僕は労るように優しく包む。
「大丈夫だから」
 ややあって、明里さんはこくりと頷いた。そして、これまでのことを話してくれる――

***

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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