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創作大賞2024「はらからの恋」二章前編

一章前編はこちら。


 私は努力が苦手だった。
 嫌いなのではなく、意義が見出せなかった。
 思うに、努力できる人というのは環境に恵まれているのだ。
 努力をマラソンに例えるなら、まずは走るのを許されていること。挑戦させてもらえること。成果を得られること。失敗しても認めてもらえること。
 そして何より、目の前の地面を信じられること。

 言うなれば、私の周りは地雷原だった。
「アンタがやりたいって言ったんでしょ?」
 挑戦したら責められる。
「だから言ったじゃないの」
 失敗したら責められる。
「アンタが産まれたせいで――」
 存在したら責められる。

 昔から、お母さんと会話をするのは難しいことだった。
「そんなことも知らないの? アンタ、本当に馬鹿なのね。何でも人に聞いてばかりいないで、少しは自分で調べたら?」
 私は本を読むようになった。お蔭でいろんな知識が身に付いた。覚えるのは苦手じゃなかった。だから勉強は得意だった。
「こんなこともできないの? 勉強だけできても駄目ね。本当にどんくさいんだから。迷惑ばっかり掛けないで頂戴よ」
 私は恐ろしく不器用だった。人の気持ちが読めなかったし、人の期待に添えなかったし、人の望む行動が取れなかった。だから私は怒られてばかりだった。
「アンタができたから結婚しなきゃいけなくなったのよ」
 幼い頃から言われ続けた言葉は、ずっと私を蝕んでいる。
 私はお母さんに認められたかった。お母さんに笑っていてほしかった。
 だけど、私が産まれたせいでお母さんは自由でいられなくなった。私がお母さんに苦労と迷惑を掛けている。
 結局のところ、私の存在自体が害悪なのだ。

 それでも、お母さんにも優しい時があった。お父さんと3人で楽しく話している時は、私も家族の一員として認められたみたいで嬉しかった。
 でも、時間が経つとまた冷たく往なされて、私は混乱した。
 何が原因なのか、長い間、分からなかったけれど、ある時その違いがお父さんの存在だと気付いた。お父さんがいる時には優しくて、2人きりの時には冷たいのだ。
 だけど、原因が分かったところで、そうなる理由が分からなかった。
 どうしてお父さんがいるとお母さんは優しくなるんだろう。お母さんはお父さんと結婚したくなかったはずなのに。

***

 1つの転機は、私が小学生の頃に起きた。
 その日、名付けの由来を親に聞くという宿題が出た。宿題は晩御飯までに済まさなければならなかった私は、料理中のお母さんに聞かなければならなかった。
「あの、お母さん」
「痛っ」
 間が悪かったと言えば、それまでだ。野菜を切っていたお母さんは指を切って、般若のような顔を私に向けた。
「……なに?」
 ドスの利いた声に逃げ出したくなる。だけど、呼びかけてお母さんの時間を奪ってしまった私には、逃げ出す権利なんてない。
「あの、宿題で、私の名前の由来を――」
「ねえ」
 竦む私にお母さんが屈んで目線を合わせる。顔が陰になって表情が読みづらい。
「今、お母さんが何やってるか分かるよね?」
 顔色は見えないのに、目の前にある包丁は、いやに光っていた。
「アンタのせいで指切ったんだけど、アンタも切るの?」
 冷めた声と突き付けられた包丁に、身動きが取れない。
「邪魔するんなら出ていけよ」
 突き飛ばされて、私は呆然とへたり込んでいた。
「出てけよ!」
 怒鳴られて、瞳が潤んだ。泣くのは堪えたけれど、立ち上がったお母さんが怖くて、私は這いつくばったまま、急いで逃げた。だって、お母さんは包丁を振り被っていたから。

 お父さんと2人きりになって、このことを話した。
「お母さんは私がいないほうがいいんだ」
 お父さんは穏やかに笑っていた。
「そんなことないよ。大丈夫、お母さんも明里のことを大事に思ってるから。包丁もきっと勘違いだよ。料理の途中だから持ってただけで」
「でも――」
「でも、じゃない」
 それは、普段よりも厳しい口調だった。
「いつもご飯を作ってくれてるだろう? 掃除も洗濯も、お母さんがちゃんとやってくれるじゃないか。嫌いだったら、そんなことはしないよ。お母さんのお蔭でお父さんも明里も生活できてるんだから、それを疑ったらお母さんが可哀想だよ」
 そうだろう? と窘められて、私は頷くしかなかった。
 お母さんはご飯を作ってくれていた。掃除も洗濯も、ちゃんとしてくれていた。そうして育ててくれることに感謝こそすれ、愛情を疑っては可哀想だった。
 全ては、人に不用意に話しかけ、人に怪我をさせた、私が悪いのだ。

 その日から、私は眠るのが怖くなった。部屋を暗くしても目が冴えて、ちょっとの物音でも目が覚めた。
 寝ていると無防備になる。何をされても抵抗できない。それが怖い。
 寝ている間に連れ去られたら、私には何もできない。山奥にでも捨てられたら、あとは死ぬのを待つだけだ。
 お母さんにとって、私は迷惑な存在だった。目の前に包丁を突き付けられた瞬間から、自ら手を下すことも辞さないのだと知った。
 その日が来たら、私は死ぬ。警察なんて役に立たない。見つかる頃には、私は死んでいるんだから。
 それに、お母さんは疑われない。絶対にお父さんを騙しきる。だって、今がそうだもの。
 今、私が生きているのは、単なるお母さんの気紛れだ。機嫌を損ねてしまったら、私の命は多分ない。
 だけど、心の奥底では「それでもいい」と思っていた。悪いのは私なんだから、私がいなくなることでお母さんが満たされるなら、それも1つの解決策だと思うのだ。

***

 それから、私はなるべく人と関わらないようになった。
 親しい人が死んだら悲しい。私が死んだら、私と親しい人は悲しむ。私が死ぬことは避けられないから、なるべく人を悲しませないためには、人と距離を置くしかなかった。
 自分からは人に近づかない。話しかけられたら素っ気なく応じる。それでも私に関わってくる人には――これは言い訳だと分かっているけれど――拒むのは申し訳ないから仲良くした。

『将来の夢』というテーマで作文を書く授業があった。みんな、いろんな夢を描いていた。お菓子屋さん、獣医さん、スポーツ選手、宇宙飛行士、中には総理大臣なんて人もいた。
 でも、私には何もなかった。
 大きくなったら何になりたい?
 分かりません。大きくなるまで生きていられるのか、自由に選べる未来なんてあるのか、私には分かりません。

 殊更に大人しい私は、所謂『手の掛からない子』だった。
「明里はいい子だな。大きくなったら、お母さんみたいになるんだぞ。明里はお母さんの子供だからな」
 ニコニコしている父の言葉は悪魔の宣告だった。
 大きくなったら、私はお母さんのようになるらしい。血が繋がっているのだから当然だ。私の大人のモデルケースはお母さんで、そうなることをお父さんに望まれていた。
 自分の結婚を人のせいにして、自分の子供を邪険にして、愛情を盾に人を傷付けて、力で脅すことも辞さず、理屈の合わない行動を取って、人によって顔を使い分ける。
 そんな性悪な人間になることが、親の望みだった。
 私はそうはなりたくなかった。だけど、それは親の期待に添わないことだった。私がなりたい自分になることは、親を裏切ることと同じだった。育ててくれた恩に報いたいのに、私にはそれを望むことができなかった。
 私はただの害悪だった。
 なりたくない自分になることが大人になることであるのなら、私は大人になんかなりたくなかった。それなのに、体はどんどん大人になった。
 初めて胸の膨らみに気付いた日は、それが恐ろしいことに思えて押さえつけた。初めて生理が来た日には、もう逃げられないんだと悟って泣き腫らした。
 私がどれだけ嘆いても、私の家は『幸せな家庭』だった。私がどれだけ拒んでも、体の変化は止まらなかった。
 頑張るって何だろう。それで何が変わるんだろう。未来のために、将来のために。そんな理想にかこつけて、命を懸けてまで親に背く悪意を持つなんてことを、望む人なんかいやしないのに。

***

 中学校に入って、私のことを知らない人が増えると、私に対する視線がこれまでと違うことに気が付いた。具体的には、熱を持った男子と冷え切った女子が増えていた。幸か不幸か、私の容姿は整っていたのだ。
 しばらくして、告白された。一応、理由を聞いてみた。
「私、あなたとは話したこともないと思うんだけど、なぜ?」
 答えはシンプルだった。
「月宮さん、可愛いから」
 ……可愛いから、なに? 私、何もしてないよね?
 次の日、3人組の女子から校舎裏に呼び出された。
「アンタさぁ、レイナがソウタくんのこと好きなの知ってるよねぇ? 知ってて誘惑するってさぁ、何考えてるわけぇ? レイナ泣いてたんだけどさぁ、アンタどうしてくれんのぉ?」
 何一つ知らない。ただ、話の流れで、横で目を伏せているのがレイナで、昨日告白してきたのがソウタくんなんだろうとは察した。
「ちょっと顔がイイからってさぁ、調子に乗ってんなよオメェ」
 私は何もしていない。だけど、それが事実だと彼女たちには都合が悪いのだ。
 自分には頑張っても気を引くことができなかったのに、何もしていない私には勝手に惚れてきたから。
 ……努力って何だろう。
 人と関わらないようにずっと避けているのに、私の気持ちなんてお構いなしに人が干渉してくる。生まれ持つ、自力ではどうにもならない美形という奇形が、否応なく人を寄せつける。
 迷惑を掛けないように距離を取っていても、結局は彼女たちに迷惑が掛かってしまった。私は何もしていないのに、私がここにいるから。
 やっぱり私は害悪だ。存在自体が迷惑だ。嫌がらせを受けるのも無理はない。
 だけど、死ぬのは嫌だった。死ねば迷惑が掛かるから。
 だから、私はひっそりと生きた。
 我が儘なんて言わない。人には何も求めない。自分の物は持たない。ただ生存しているだけ。
 毎日、家と学校とを往復して、可能な限り一人で過ごして、出された食事は静かに食べて、部屋の隅っこで小さく眠る。
 自分の居場所を小さく小さくすることで、何とか自分が生きることを正当化した。これだけのスペースしか使わないから、どうか生きることを許してください。

***

 高校は自分の学力で入れて、同級生のほとんどいない公立校を選んだ。私を知る人のいない場所に身を置けば、少しは取り巻く環境が変わると願って。
 今の私はただ命があるだけの存在だった。死にたくないと思って生きる術を獲得したのに、果たして現状『生きている』と言えるのかどうかも分からない。
 本の中には、幸せな家庭がいくつもあった。充実した恋愛がたくさんあった。支えてくれる仲間だったり、運命を変える出会いだったり、きっかけ1つで世界が変わる出来事が、溢れ返るほどに存在していた。
 それらは所詮ファンタジーだと、理解してはいるけれど。
 それでも、思ってしまったのだ。
 このまま死んだように生きるよりも、いつかの死を覚悟して、一瞬だけでも自分なりに生きてみたい。
 入学して1週間、人との接し方を知らない私は、当然のように孤立していた。でも、もう1人、孤立している男子がいた。いろんなグループにちょっかいを出して、結局どこにも属せなかった男子。高校デビューを張り切りすぎて空回りして失敗した、馬鹿で不器用な男子。
 私には都合が良かった。
 あらかじめ彼氏を作っておけば、男が寄ってこなくなる。今までモテたこともないような男子なら、簡単に私に靡く。彼氏が非モテなら、嫉妬されることもない。孤立している相手だから、繋がりを2人だけで完結できる。他の人には迷惑が掛からない。
 もちろん、その人にだけは迷惑を掛けてしまうが、そのくらいは許してほしい。華々しい高校デビューがしたかったなら、当然彼女は欲しかったはずだ。その夢は私が叶えてあげるから、少しくらいは我慢してよ。

 打算の上でも、告白するのは勇気が要った。何せ初めてのことだったから。
「私と付き合ってほしいの。もちろん、恋人として」
 見るからに嬉しそうな顔をした照真くんは、しかし、すぐに顔を曇らせた。
「で、でも、話すの、初めてだよね?」
 過去には自分も返したことのある質問。
「クラスで空回っても頑張って話しかけてる姿がきゅんと来たの」
 こういう時は行動を褒めればいいんだよ。本の受け売りだけど。

「照真くんは好きな食べ物って何がある?」
「うーん、塩タンかな」
 ……馬鹿じゃないのか、この男は。
 オムライスとかハンバーグとか言ってくれたら、食べに行けるし、何なら手作りも期待できる。
 なのに、何がタン塩だ。焼き肉に行くのか? 高校生2人で? 色気なさすぎでしょ、お金掛かるし。……ああ、塩タンだっけ。どうでもいいけど。
 話しながら歩いていると、そのまま彼の家まで辿り着いた。ありがたく場所を覚えておく。
「明里さんの家ってこっち? 遠回りさせてない?」
「ううん、大丈夫。私の家もこっちだから」
「そっか。それならよかった。あの、家まで送ろうか?」
「ううん、それも大丈夫。ありがとう」
 家は知られたくなかった。お母さんに見つかりたくないから。見つかったらどうなるか、分からないから。
 照真くんと手を振って別れる。
 私の家もこっちだから。そう言いながら来た道を戻る私を、照真くんはおかしいと思わないのだろうか。そのほうがありがたいけど。

 自由でいられるのは、いつまでか。分からないから、時間を無駄にはしたくない。限られた時間を有効に使って、恋人らしさを経験する。
 家まで迎えに行くと、照真くんは満面の笑みで現れた。
「おはよう、明里さん! 家まで来てくれたんだ、ありがとう!」
 迎えに来た。ただそれだけのことで、照真くんは幸せそうにしていた。なんて安っぽいんだろう。
「照真くんは部活って入るの?」
「うーん、今のところは考えてないかな。何かを頑張ってる自分、っていうのが、あんまり想像できないんだよね」
「その気持ち、分かるなぁ」
 共感できるポイントはあったみたい。

 学校に着くと、照真くんは星野くんと話していた。星野くんは私の中学時代を知っている。私のことを悪く言われてないといいけど。
「照真くん、お昼一緒に食べよう」
「いいよ! あ、場所はどこにする?」
「教室じゃ駄目?」
「いいよ!」
 2人で一緒にお昼を食べるという、恋人らしい過ごし方。教室で皆に見せつけて、私には彼氏がいるよと主張する。不要な人を寄せ付けないためのテレグラフ。
 話の流れで聞いてみた。
「星野くん、私のことで何か言ってなかった?」
 聞いた瞬間、目を泳がせた照真くんを見て、手遅れだったなと悟る。でも。
「大丈夫だよ。僕は自分の目で見たものしか信じないから」
 笑顔の照真くんを見て、張り詰めた気が緩んだ。
 この人は盲目になるんだ。それなら心配ないかもしれない。

 授業中、ふと照真くんのほうを見ると、彼と目が合った。照れた様子で目を逸らした照真くんは、だけど、しばらくしてまたこっちを向いた。再び私と目が合って、恥ずかしそうに逸らす。そのままじっと見ていると、彼は何度も何度もこっちを向いて赤くなった。
 ああ、なんて単純なんだろう。純粋で、潔白で、穢れを知らない子供みたいで。自分が妥協で選ばれたなんて、これっぽっちも考えないで。そんな疑いを抱くことなく生きてこられた幸せに、ほんの少しも気付かないで。

 放課後の照真くんは、ずっとそわそわしていた。もう一押しで彼は落ちる。
「照真くんは好きなお菓子ってある?」
「僕、もみじ饅頭が好きなんだよね」
 やっぱり馬鹿だ、この男。
 ケーキとかドーナツとか言えば食べに行ける。クッキーとかチョコレートとか言えば、手作りがもらえるかもしれない。
 それなのに、何がもみじ饅頭だ。もみじ饅頭が好き、と言われて、私にどうしろと言うんだ。少しは相手の都合も考えろ。
 赤信号で立ち止まる。黙っていると、照真くんは痺れを切らしたようだった。
「明里さん。僕は――」
 それは、長ったらしい告白だった。だけど、肝心の言葉が抜けている。
「照真くんも、簡単に『好き』って言ってよ」
「好きです! 僕は明里さんに恋をしました!」
 促せばすぐに言う、簡単な人。
 言わせたようなものだけど、たとえ見え透いた気持ちでも、嬉しさは確かにあった。繋いだ手からは熱も伝わる。
 それでも、同時に思う。
 私の思惑通りに私を好きになるなんて、本当にかわいそうで、ばかなひと。

 翌朝も迎えに行った。
「おはよう! 朝一番に顔を合わせるのが明里さんで嬉しいよ。まさに春一番って感じだ」
 ニコニコと何も考えていないような笑顔で馬鹿みたい。
 昼も一緒に食べた。恋人同士で行うという『あーん』というのもやってみた。これは想像以上に恥ずかしくて、恐らく人に見られながらするものではないのだろうと思った。
 放課後も照真くんの家まで送る。
「照真くん、家に上がってもいい? 照真くんの部屋、見てみたい」
 今できることを1つずつ。自由なうちに、生きているうちに。なのに。
「ごめん、家に人を入れると親がうるさいんだ」
 断られたのがショックだった。私は初めて照真くんに拒否された。
 そう、初めてだった。
 これまで何を言ってもニコニコと受け入れていた照真くんが、初めて明確に私を拒んだのだ。
 でも、親を理由にされたら私には逆らえない。
 胸の辺りがもやもやして、なんだか裏切られた気がした。

***

「今日、親がいないんだ」
 それはありがたい申し出だった。昨日、拒んだことに対して、彼自身に思うところがあったのなら嬉しい。彼の部屋というプライベートな空間なら、もっと照真くんの内面が窺えるはずだ。
 照真くんの部屋には、ベッドがあった。パソコンがあった。照真くんの物がたくさんあった。自分の物を持つ自由が、部屋中に溢れていた。
 それは圧倒的な差異だった。彼は私とは違う。彼が普通であるのなら、私はきっと普通じゃない。
 そう突き付けられて、私はたぶん、いじけていた。
「本は静かだし、裏切らないから」
 言った直後のぽかんとした顔がおかしくて、私はいよいよ得意げに捲し立てる。
「自分のペースで進ませてくれる、ってすごく大事な要素だと思うんだ。現実って忙しいじゃん。みんな自分の都合を押し付けるばっかりで、誰も私には合わせてくれないし。だから、娯楽くらいはそういうものを楽しみたいの」
 先手を打って線を引く。私と貴方の境界線。踏み込まれた時のために。傷を浅く済ませるために。
 ――それなのに。
「そんな考え方、したことなかった。すごく知的な視点だと思う」
 正面から褒められて、まごついた。
「……変って思わないの?」
「変かもしれないけど、悪くはないでしょ。これを変だと笑う人がいたら、それはその人の感性が鈍いんだよ」
 言われて、訳が分からなくなった。目の前にいる男性が、私の知る『人間』から掛け離れた。
 馬鹿にしない、貶さない、いじけた私を否定しない。自分の理想を押し付けない。私を無視して満足しない。
 本の中でしか見たことのなかった、ありふれた普通のファンタジーが、何の間違いか今、私の目の前に象られている。
 信じられない。だけど、打ち消せない。
 だって、照真くんは偽らない。彼は私の気を引くための、おべっかなんて言わない。
 好きな食べ物は塩タンで、好きなお菓子はもみじ饅頭。
 照真くんが打算で物を言わないことを、私はとうに知っている。
 気付けば、胸が苦しくなって、体が熱くなって。それでも、ファンタジーなんてあるはずがないと、否定したい気持ちが栓をする。
「照真くん、ちょっとじっとしてて」
 本当に動かなくなる照真くんの胸元に、私は全身で凭れかかった。
 どうせ男なんて馬鹿だ。お母さんの裏の顔に気付きもしない。私の腹の中に気付きもしない。今に、私の気持ちなんてお構いなしに、与えられる幸運を無邪気に享受するだけの、くだらない存在に成り下がる。
 そんな、私の知っている現実を確かめるために――目の前のファンタジーを潰すために――私は時を待った。
「明里さん」
 照真くんは私の肩に手を回した。手の平で、腕で、私に触れる。そこに力は籠もっていない。私が嫌がればいつでも逃げられるように、優しく包み込まれていた。
 心臓がドキドキしていた。呼吸が荒くなっていた。目の前がチカチカして、頭の中が真っ白だった。今この瞬間に、私は間違いに気付いてはいけなかった。
 ――私は照真くんが好きだ。
 咄嗟に体を後ろに引くと、あまりにも簡単に照真くんから離れた。思わず顔を見ると、彼は真っ赤になっていた。それが罪悪感で見ていられない。
「ごめん! ありがとう、帰るね」
 慌てて立ち上がると、私は部屋から逃げ出した。幸いにも、照真くんは追いかけてこなかった。
 照真くんの家を出て、角を1つ曲がったところで、私は堪えきれなくなって、その場にしゃがみ込んだ。
 心臓がドキドキしていた。呼吸が荒くなっていた。頬に触れると、びっくりするほど熱かった。
 気付いてしまった。
 ――私は照真くんが好きだ。
 単なる都合で彼を選んで、打算で告白して惚れさせて、気持ちもないのに付き合って、恋人を経験するためだけに彼の好意を利用して。そうやって恋心を弄んできたのに。
 どこで間違えたんだろう。
 人に迷惑を掛けたくなくて、人と距離を取っていた。自分を納得させるために、たった1人を犠牲にした。それなのに、いつの間にか、その1人が一番悲しませたくない人になった。
 選ぶ相手を間違えた。取る行動を間違えた。照真くんは、私なんかが関わって歪めていい人じゃなかったんだ。
 純真で愚かしいほど素直な彼を、馬鹿だ馬鹿だと見下していた。本当はただ眩しかった癖に。何も考えずに生きていられる純朴さを僻んでいた癖に。ねじくれてしまった自分の性根を見透かされるのが怖かっただけの癖に!
 溢れる涙で視界が滲んだ。喉からは嗚咽もせり上がってくる。
 私が照真くんと並んで歩く姿は、どう想像しても形にならなかった。私は将来なんて考えたことがない。いつ死んでもいいように、全部諦めてしまったから。
 私と一緒にいても、照真くんは幸せになれない。私はいつ死ぬか分からない。未来なんか描けない。必ずどこかで破綻する不健全な関係に、続ける価値などありはしないのに。このままずるずると彼の未来を曇らせたくなんかないのに。
 それでも、一緒にいたいと思ってしまう……。
 震える喉から息を吐く。潤む両目は袖で押さえつける。
 やっぱり私は害悪だった。存在自体が迷惑だった。私が好きになった人を、私を好きにならせた人を、私は一番傷付ける。
 どうしよう。どうすればいい。どうすれば、なるべく彼を傷付けないように関係を帳消しにできるんだろう。
 彼が自然と私を嫌えば、何も悩まなくていいのに。抗えない要因で関係が引き裂かれたなら、私はこの幸せな気持ちを懐に仕舞って、死ぬまでひっそりと生きていけるのに。
 両想いになっただけで、どうしてこんなに苦しいんだろう。
 本当は分かってる。嘘をついたからだ。彼を騙したからだ。私が恋愛なんてしようとしたから。全部全部、身勝手な自分のせいだ。
 どくんどくんと激しい動悸が私を責め立てる。
 生きていてごめんなさい。なるべく呼吸も控えますので、どうかここにいることを許してください。

「最近、帰るの遅いのね」
 帰宅するなり、お母さんに言われて青ざめた。
「朝も早いし、何やってんの?」
「友達と一緒に学校行ってて、帰りは寄り道とかしてて……」
「ふぅん」
 疑り深い眼差しが怖かった。私は逃げるように部屋に引き籠もる。
 大丈夫、まだ大丈夫。この関係は見つかっていない。でも、きっと長くは保たない。近いうちに私は絶対に、照真くんを傷付ける羽目になる。

 私は愛想を尽かされようと思った。だから私は、私が嫌う人間になろうと思った。相手の気持ちなんてお構いなしに、与えられる幸運を無邪気に享受するだけの、くだらない存在に成り下がる……ことにした。
 我が儘だって言う。何でも相手に求める。彼が私を避けるまで、得られるものは何だって手にする。
 照真くんと腕を組む。まるでデートしてるみたい。
 照真くんの腕を抱く。ぐんと親密になったみたい。
 肩に頭をこすりつける。彼の隣は私の場所だと誇示するようなマーキング。
「照真くん。私のこと、好き?」
「もちろん。好きだよ、明里さん」
「えへへ、嬉しい」
 照真くんが受け入れてくれる。満たされすぎて、胸が苦しいくらい。

「遅かったわね」
 お母さんは見るからに不機嫌だった。
「ごめんなさい」
「男だろ。遅い理由」
 見透かされて、血の気が引いた。はっとなって、私はお母さんを見た。見てしまった。口角を上げたお母さんは暗い目をしていた。
「やっぱりそうなんだ。アンタはそういうことするんだね。アンタのために私はこんな生活してるのに、アンタは好きに男を作るんだ」
「ち、違う。そんなこと……」
「何が違うの? 言ってみなさいよ。お母さんの気持ちなんか無視して、好きに男作って楽しんでるんでしょ? 何でこんな子になっちゃったのかしらね」
 ぐちぐちと、ぐちぐちと。私が悪い、私がおかしい、と刷り込んでくる。
 言い返せないのが悔しくて、私は唇を噛んだ。下手な言い分では余計に怒らせるだけだ。どう言えばお母さんが納得するのかが、私には分からない。
「ねえ、なんで嘘なんかついたの? 隠さなきゃいけないような疚しい付き合いでもしてるの? そういうのはやめてよ、本当に」
「そんなこと、してない」
「だったら、どうして嘘つくの? アンタは何もなくても嘘つくような卑しい子なのね。そんなんじゃ彼氏が可哀想よ」
 その皮肉は、ずきんと胸に刺さった。
 彼氏が可哀想。分かってる。私が嘘で付き合ったから。私の都合で巻き込んだから。未来のない私では、一緒のビジョンが描けないから。
 だから、照真くんは痛い目を見る――
「分かってる!」
 知らず、大声が出た。涙も吹き出て視界が潤む。
 私のせいで照真くんが不幸になるのは分かってる。私が関わったせいで照真くんに迷惑を掛けているのは分かってる。分かってるから、後悔してるから、もう言わないで!
「お母さんには関係ないでしょ! これは私の問題なんだから! 何でもかんでも自分の気持ちばっかり押し付けないでよ! お母さんの不幸を私のせいにしないで!」
 喚いた瞬間、私は突き飛ばされていた。頭と背中に強い衝撃があって、柱の角にぶち当たったのだと理解した。ズキズキと裂けるような痛みで声も出ない。
「アンタねぇ! 今まで誰のお蔭で――」
 お母さんは何かを言っていたが、だんだんと言葉の意味が聞き取れなくなっていった。視界に靄が掛かって、目の前が薄れていく。
 ……そうか、私は死ぬんだ。
 遂に、その時が来たんだ。

***

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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