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創作大賞2024「はらからの恋」二章中編

一章前編はこちら。


 運動するのが嫌いだった。息が荒くなるから。自分のために多くの酸素を無駄に消費してしまうから。
 野菜を食べるのが嫌いだった。シャキシャキと音がするから。自分の立てた音で存在を主張してしまうから。
 静かな夜が怖かった。呼吸音が響くから。自分が生きているという事実を嫌でも認識してしまうから。
 人と目が合うのが怖かった。自分の存在を意識するから。私を見た相手がどう思うのかを知りたくないから。
 それなのに、心のどこかで見つけてほしいと願っていた。
 頑張る自分を想像できない人だった。ボリボリとチョコレートを噛まない人だった。目が合うと照れる人だった。何をしても笑ってくれる人だった。私の考えを否定しない人だった。醜い腹の中に気付かない人だった。
『僕は明里さんに告白されて、すごく嬉しかったんだ。それから、こうして一緒にいて、話をして、どんどん惹かれていく自分がいる』
『明里さんが告白してくれた時も、すごく勇気が要ったと思うから、気持ちを軽いとは思わない』
 好きな理由に容姿を挙げない人だった。私の行動を認めてくれる人だった。だから、好きになってしまった人だった。

 目が覚めた時、そこは見知らぬ場所だった。私は真っ白なベッドに寝かされていた。保健室のような独特の匂いがして、ようやくここが病院なのだと分かった。
 意識がはっきりした途端、頭が鋭く痛んだ。じんじんと痺れる箇所に手を当てると、大きく瘤になっているようだった。
 痛い。痛い。でもそれは、生きている証だ。私はまだ生きている。生きているんだ。
 安心したら、ポロポロと涙が零れた。
 どうせ死ぬんだと諦めていた。全て受け入れたつもりだった。
 なのに、いざ死が目の前に迫ってみれば、私は死にたくなんかなかった。まだ死にたくない。まだ生きていたい。生き方なんて知らないけれど、むざむざと死ぬのだけは嫌だった。
 今、私がいなくなったら、悲しんでしまう人がいるから。
 窓の外は青空だった。晴れやかで開放的な世界だった。私はめそめそと泣いていた。存在を小さく小さくしていた私は、それでも確かに生きていた。

 回診中の看護師に見つかって、私は改めて検査を受けた。話を聞けば、今は翌日の昼過ぎで、どうやら私は1日意識が戻らなかったらしい。親にも連絡が行って、しばらくすると、お母さんとお父さんが病室にやってきた。
 お父さんは涙を浮かべて私の手を握った。
「明里! よかった、目が覚めて。階段から落ちたって聞いて、全然意識が戻らなくて、もう本当に心配したんだからな」
 親身になるお父さんを、私は白い目で見ていた。
 こんなもの、見えていた結果じゃないか。泣きながら心配したと言うだけなら誰にでもできる。それだけで責任を果たした気になって、見え透いた嘘にすら気付かないで。そのせいで私がこんな目に遭ったというのに。
 お父さんの後ろでは、お母さんが気遣わしげな顔をしていた。
「本当に気を付けなさいよ。私がいたからよかったものの、本当に寿命が縮むかと思ったんだから」
 縮めばいいと思った。私の気持ちなんか無視して、隠さなきゃいけないような疚しいことをして、その保身のために平気で卑しい嘘をついて。なのに、外面だけはいいせいで、誰も本性に気付かない。
 なんでこんな人たちが私の保護者なんだろう。どうしてこんな人たちに保護されなきゃ、私は生きられないんだろう。

 検査の結果、特に異常がなかったため、夕方には家に帰されることになった。
「本当に無事でよかったわ」
「なあ、階段に滑り止めを付けないか?」
「いいと思う。そのほうが安心よね。ね、明里?」
 家族3人でいる時は明るい団欒が訪れる。ニコニコと何事もなかったかのように笑いかけてくる。それが恐ろしかった。
 私は突き飛ばされて、意識が飛ぶほどの怪我をした。1日とはいえ入院までしたんだ。それなのに、それだけのことをしておいて、なぜこの人は平然と笑えるの?
「それで納得できるならいいと思う」
「もう、可愛げがないわね」
「まあまあ、それも明里のいいところじゃないか」
 両親が和やかに笑っている。私はたぶん、笑えていない。
 想像する。昨日のことをお父さんに告げたらどうなるか。
『滅多なことを言うもんじゃない。お母さんがそんなことをするわけがないだろう。どうしてそんなことを言うんだ?』
 笑えるほど容易く想像できる。事実を言った私が嘘つきになる光景が。
 どうせ人は、自分の見たいものしか信じない。
 家のことはお母さんがしてくれる。お小遣いはお父さんがくれる。私は問題も起こさず、成績も良い、優秀な娘だ。誰がどこからどう見ても、私は『幸せな家庭』で暮らしている。
 はたから見た『幸せな家庭』という幻想。その壁の、なんと分厚いことか。
 部屋に戻ってスマホを見ると、通知が来ていた。
『今日はどうしたの?』
 何も考えていないような、馬鹿みたいな質問に噴き出してしまった。
 本当にどうしたんだろうね。失神してただけなんだけど。
 でも「失神してました」なんて言えるわけがない。そうしたら、失神した理由も話さなきゃいけない。そうしたら、親のことまで話さなきゃいけない。そんな話をしても、誰の得にもならないのに。
 当たり障りのない返事を考えていた私は、結局、面倒になってスマホを放り投げた。仰向けにぐったりと倒れ込む。
 どうして私は事実をありのままに伝えられないんだろう。なんでこんなにも疚しい生き方をしないといけないんだろう。現実に、世界に、いちいち言い訳をして取り繕って。ただ普通に過ごしているだけなのに、なぜこうまで後ろめたい思いをしなければならないんだろう。
「……はあ」
 重い溜め息が漏れた。考えるのも億劫だった。
 このまま意識が薄らいで、初めからいなかったことになればいいのに。素直でいることが許されないくらい、私はこの世界に望まれていないんだから。
 ぼんやりと天井を眺めていると、能天気な笑顔が思い浮かんだ。私は苦笑して、ゆっくりと体を起こす。
 このままにしていては駄目だ。私から始めた交際なんだから。
 死を覚悟して思い知った。繋がったままにしてはいけない。このままにしておいたら、そう遠くない未来に彼を苦しめてしまう。
 そうなる前に、片を付けないと。

 私は黙って家を出た。家族には気取らせない。
 何度も一人で歩いてきた道を歩く。いつもなら朝だった。夕方は逆方向だった。それだけで、知らない道を歩いている気がした。
 私はこの道を歩くのが好きだった。道の先で必ず彼に出会えるから。この道を通る時だけは、私は期待を裏切られない。この道を歩いている間だけは、少し先の幸せを信じていられる。
 照真くんの家の前で、私はメッセージを入れた。
『助けて。照真くんの家の前にいる』
 今は学校が終わったくらいの時間だ。さあ、彼はどのくらいでここまで来るだろう。
 私は目を閉じて待っていた。彼への様々な思いが去来した。
 気付けば、私は彼のことが好きだった。本当にいつの間にか、するりと私の心を支配していた。
 はっきりと自覚したのは彼の部屋。意識したのは多分、告白された時。でも本当は、最初に目に留まった時点で彼に惹かれていたのかもしれない。どんな理由であれ、選んだというのは、そういうことだ。
 ざりっと靴が地面を摺る音に目を開ける。そこに照真くんは立っていた。肩で息をしながら私を見つめている。
「照真くん、ありがとう。すぐに来てくれた」
 言うと、照真くんは辺りを見回し始めた。助けて、という言葉から危機を信じて来てくれたのだと思うと、自分が悪いことをした気がして、少しだけ興奮した。
「……どういうこと?」
 戸惑っている彼に抱きつく。
「ありがとう。嬉しい」
 彼の当惑をいいことに、私はこの時を堪能した。たとえこの先がなかったとしても、今この瞬間だけは、私は照真くんのそばにいる。私が照真くんと触れ合ったという事実は、私が死ぬまで決して消えない。
 私は顔を上げた。照真くんの顔があった。顔色を窺おうとして、差した夕日に目が眩んだ。
「照真くん。お願い、じっとしてて」
 言って、顔を近づける。目は閉じられなかった。目を閉じたら、夢から覚める気がしたから。
 日差しが隠れて表情が露わになると、彼が悲痛な顔をしているのに気が付いた。驚いて目を瞠る私から、彼の顔が逸れる。そうして、私は抱き竦められていた。
「明里さん。待って」
 避けられた衝撃で思考がまとまらない。逃げようと体を引いても、照真くんは私を離さなかった。部屋での時みたいに、力が緩んではくれない。
「これは駄目だよ」
 拒絶されて、眩暈がした。
「なんで? 照真くん、私のこと好きでしょ?」
 噎びかけた問いは涙声だ。それでも照真くんの声は落ち着いている。
「もちろん好きだよ。でも、これは違うよ。今の明里さんは、すごく投げやりに見える。それだと僕は嬉しくない」
 そう言って、一層私を引き寄せる。
「今の明里さんって、本当に自分の本心? 無理してない自然な明里さんなの? 本当に自分のペースでいられてる?」
 見透かされていた。その事実に、動悸がして、呼吸が乱れる。
 なぜ? 疑問は声にならない。私を疑わない、裏を探らない、純朴で愚鈍で、ただ笑っていただけの彼なのに、どうして私に気付くの?
 大人しくていい子。物憂げで可愛い女子。顔が良くて調子に乗っている女。幸せな家庭の優秀な娘。どうあっても覆せない、表面的で客観的な現実に辟易した。
 でも照真くんは、今の私は無理をしていると思ってくれる。私の自然な姿ではないと考えてくれている。私のことなんて何も知らないはずなのに、そう信じてくれている。
「何かあったのなら教えてほしい。僕は明里さんの助けになりたいんだ。明里さんのお蔭で、僕は幸せだから」
『僕は幸せだから』
 聞き間違えたと思った。
『明里さんのお蔭で』
 そんなわけがない。
 私はただの害悪だ。存在自体が迷惑だ。私がいると人が傷付き、不幸になってしまう。ずっとそうやって生きてきた。
 私がいると恋は叶わないし、呼びかけただけで指を切る。今だって私は嘘で付き合い、彼を裏切って苦しめている。そのはずなのに、照真くんは私のお蔭で幸せだと言う。
 嘘みたいな話だ。
 でも、そんな風に明るく受け取ってくれる彼の隣でなら、私は害悪な存在ではなくなるんじゃないか? 彼の信じる通りの私でいられたら、私は今よりもずっと生きやすくなるんじゃないか?
 人は自分の見たいものしか信じない。
 私は『自分が害悪である』と信じ込んでいただけなんじゃないのか?
 自覚して構えていれば痛みは和らぐから。傷を浅く済ませるために先手で引いた予防線。
 もし、それが嘘になったなら。これまでの現実を幻想として打ち捨てることができたなら。そうしたら、私の世界はまるっきり変わるんじゃないのか?
 私のお蔭で照真くんが幸せでいる。少なくとも、照真くんはそう信じてくれている。だったら、私もそれを信じ込んでしまえば、疑う必要なんかどこにもないじゃないか。
 思わず縋ってしまった。照真くんの温もりに。
 だけど、これまでの世界を捨てて照真くんの言葉に縋るなら、それは寄りかかるのと同じだ。過去の積み重ねを打ち捨てて、彼一人の見識に答えを求めて。もしそれが打ち消されたら、私には信じられるものがなくなってしまう。
 そうしたら、私は一人で立つことができなくなる。そんな関係を、依存と呼ばずに何と呼ぶ。
 ……やっぱり、駄目だ。
 諦めると、体から力が抜けた。照真くんから離れようとした私は、より強い力で抱き留められた。
 なんで離してくれないの……。
 途端に、ぶわりと涙が溢れる。
 逃げ道を塞がれたら、私はもう縋るしかない。私が求めたんじゃない、あなたが求めたんだ、とあなた任せにしてしまう。そうして寄りかかれば負担になると分かっているのに、生き方を知らない私はそうでもしないと歩けないんだ。
 ごめんなさい。ごめんなさい。あなたに縋ってしまいます。
 狡い私でごめんなさい。
 弱い私でごめんなさい。

***

 話し終えると、また涙が滲んできた。袖で拭って、洟を啜る。
「ありがとう、話してくれて」
 労う照真くんは穏やかな顔をしていた。私は返事に困って、小さく頷いた。自分のために話したのだから、感謝されるのもおかしな話だ。
 こんなメンヘラめいた話をして、明るいばかりの照真くんがどう思うか。話すまで不安に思っていたが、彼の顔を見る限り、どうやら杞憂だったようだ。
「ごめんね、つまんない話で」
「そんなことないよ。明里さんのことを少し理解できた気がする」
 言ってから、照真くんの視線が後ろに下がる。
「怪我はもう大丈夫なの?」
 家の瑕疵を指摘されると、やはり後ろめたい思いがする。隠すように触れた後頭部からは、まだじんじんと痛みが走った。
「うん……大丈夫」
 私は隠した。大丈夫だからここにいるのだ、と思いたかった。照真くんは何も言わなかったけれど、内心には気付いているような気がした。それが面目なくて、私は下を向く。
「ねえ、照真くん。私、どうしたらいいか分からないの。もうあの家にはいられない。いたくない」
 こんなことを言っても、照真くんを困らせるだけだと分かっている。頼る人はいないし、逃げる場所もない。私たちは子供だから、自分で居場所を作ることなんてできない。
 それでも、他にどうすることもできなかった。生きるために安全な場所を確保する方法が、私にはもうないから。
 案の定、照真くんの声は苦しそうだった。
「高校を卒業したら、逃げよう。僕は県外の大学に行くんだ。明里さんも一緒に行こうよ。親から離れるには、それが一番角が立たない」
「そんな先のことなんて……私には約束できない。生きていられるか分からない」
 生きていられるか分からない。いざ口にすると吐き気がした。喉の奥から脂の塊を吐き出すような不快感に、じんわりと涙が浮かぶ。
「大丈夫、生きていられる。今まで生きてこれたんだ。これからも生きていける」
「そんな保証、どこにもないじゃない」
「そりゃ、ないよ。でも、死ぬかもしれないとしても、生きていられた時のことを考えなきゃ。そうでないと、もし間違って生きていられた時に何もできなくなる」
 間違って生きていられた時、とは面白い表現だと思った。
 私は死んだ時のことを考えて生きてきた。私が誰かの特別であったなら、私が死んだ時にその人を悲しませてしまう。だから、人を悲しませないように、私は自分の印象を薄く仕立て上げた。
 だけど、どんな想定にも例外は起こり得る。照真くんの言うように『間違って生きていられる』可能性もないわけじゃない。その時に、今の私では何もないのだ。
 だから、照真くんと関わって後悔した。私に未来が描けないから。『将来』なんていう架空の代物に手を届かせる方法を、私は持ち合わせていないから。
「でも、どうすればいいのか分からない」
「とにかく自分を守るんだ。実際に守って、自力で守れることを覚えていく。使えるものは何でも使ったらいい。近所の人でも、警察でも、僕でも。僕は呼ばれたら喜んで駆けつけるよ。それが助けになるなら、僕はいつだって協力する。だから明里さんは、自分を守ることを最優先に考えればいい」
 突き付けられる正論は、なんて苦しいんだろう。
 できるなら、とっくにやっている。できないから困っているんだ。親も隣人も先生も級友も、私を邪険に扱う人ばかりで、信頼できる人なんてどこにもいない。
 そもそも、私なんかのために誰かが迷惑を被るのは理に適わない。今だって、私が血迷って告白なんかしなければ、照真くんが思い悩むこともなかったのに。
 罪悪感は冷たい音で口から零れる。
「誰も信用できない。照真くんだって四六時中守ってくれるわけじゃないでしょ? たとえば、夜寝てる時に攫われたら何の抵抗もできないし」
「そういう時は道具を使おう」
 言うなり、照真くんが立ち上がる。呆然と眺めていると、照真くんは机の引き出しからロープのようなものを取り出した。3mくらいの長さで、両端に小さな輪っかが付いている。
「これをね、腕とベッドの脚に通すんだ」
 言いながら、慣れた手つきで輪っかに通していく。
「こうしておいたら、知らずに連れ去られることはなくなる」
 私はハッと目を見開いた。何か大きな思い違いをしていたのではないかと、視界がぐるぐる回る。
 寝ている時に連れ去られないための方策。その手慣れた様子はまるで、私と同じ問題を抱えているかのような。
 そうか。だから彼は、私に気付くのだ。
 驚く私を見て、照真くんの頬が緩む。
「僕も似たような経験はあるから、明里さんの気持ちも少しは分かるつもりだよ」
 通したばかりの手枷を外しながら、照真くんは私の隣に座り直した。
「つらいよね」
 悲しげな声で呟く横顔が見ていられない。
 あれだけ無邪気だった照真くんに、屈託顔は似合わない。
「照真くんの話も聞かせて」
 これは私が聞かなければならないことだと思った。私だけが悩みを聞いてもらって、相手に返さないのでは不公平だ。
 こちらを窺う照真くんに目顔で返すと、彼は諦めたように小さく息を吐いた。そして、視線が窓の外に飛ぶ。
「小さい頃、親を怒らせて家を追い出されたことがあるんだ。一晩家に入れてくれなくて、でも騒ぐともっと怒られるから、ずっと静かに耐えてた。
 親って子供にそこまで興味ないんだよね。義務感で世話してる、ってはっきり言われたし」
 彼の顔がクローゼットのほうに向く。
「選んだ服を親に馬鹿にされてから自分で何かを選ぶのが怖くなったし、ずっと否定されるものだと思ってたから中学でも根暗なままで。でも、これじゃあダメだと思って高校デビューで張り切っても、やっぱり失敗するし……」
 苦笑しながら、照真くんは私を見つめた。
「だけど、そのお蔭で明里さんと繋がりが持てて、今もこうして隣にいられてるから、僕はすごく幸せだなって思ってる」
 隣で微笑む照真くんが眩しすぎて、私は劣等感から俯いた。
 似た経験をして、似た境遇で育ったのなら、どうして彼はこんなにも明るくて、どうして私はこんなにも暗い。これではもう、私の質の悪さを暴かれたようなものじゃないか。
「だから僕は、明里さんも同じ気持ちでいてほしいと思うんだ」
「無理だよ」
 考えるよりも先に否定の言葉が出た。口にしてみて、とても私に似つかわしい言葉だと思った。
「どうして?」
「私は照真くんとは違う。照真くんみたいに明るくはいられない」
 弱音を吐くと沈黙が下りた。いよいよ愛想を尽かされたのかもしれないが、そのほうが気持ちは楽だった。見合わない期待をされればされるほど、その評価に応えるのがしんどくなる。
「……実は僕、結構驚いてるんだよね」
 それは、おずおずとした声だった。
「正直、こんなに弱ってる明里さんが、僕の知ってる明里さんらしくないというか……」
 歯切れの悪さに顔を向けると、照真くんが困惑しているのが分かった。
「明里さんは明るい人だと思うよ。少なくとも、僕と一緒にいた、僕の知ってる明里さんは、明るくて積極的で楽しい人だよ」
 まっすぐで、疑いのない眼差しが、心に痛い。褒められているのに責められて感じるのは、偽りのない彼を欺いてしまったという弱みのせいだ。
「全部、嘘なの」
 言った。一度口に出して抵抗が薄れると、そこから先は止められなかった。
「私はただ恋人らしく振る舞っていただけなの。そういう経験がしたかったから、そういう役になりきっていただけ。照真くんが言ったように、無理して振る舞っていただけなの。それに私は――」
 言いかけて、これは本当に駄目だと思った。思ったけれど、言って全てぶち壊してしまったほうが、心が楽になる気がした。照真くんが私を信頼してくれていることへの違和感が、大きすぎて落ち着かない。
「私は別に照真くんのことを好きだったわけじゃないの。クラスに馴染めなくて、いつもへらへらしてて、塩タンだのもみじ饅頭だの頓珍漢なことを言ってる照真くんを、ずっと心の中で馬鹿にしてた。本当は好きじゃなかったの」
 本当だったら、今も好きじゃなかったのに。
 ざっくりと傷付いた顔をする照真くんを見て、私の胸は握り潰されたみたいに苦しくなった。圧迫感で息苦しいのに、なぜかその息苦しさが心地よくすら思える。
 傷付けてしまった罪悪感よりも、傷付けてこそ私らしいという妙な納得感のほうが、遥かに大きく感じている。
 私が存在することで誰かが傷付いているほうが、私にとっては馴染み深くて受け入れやすいのだ。
 まるで私は深海魚だ。浅瀬のほうが心も体も楽なのに、ずっと深いところで生きてきた私には適応するのが難しい。そして結局は、慣れ親しんだ環境に舞い戻ってしまう。
「……なんで明里さんが泣きそうなの」
 言われて愕然とした。私から彼を拒絶しているのに、私がこんな顔をしていてはいけない。いけないのに、気付いた瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。
 つらい。つらいんだ。照真くんが後悔しないように、私が苦しくないように。そう考えているはずなのに、ちっとも心が楽にならない。正しい判断をしているはずなのに、楽になる選択をしているはずなのに、どうあってもその先が破滅にしか向かわない。
 何が違うんだ。何を間違えているんだ。ずっとずっと、あるべき答えを選んでいるはずなのに。分からない。分からないのに、ただどうしようもなくつらいんだ。
 急に泣きじゃくる私を、照真くんがそっと抱き寄せる。為す術なく、私は照真くんに寄りかかる。私の中にある苦しいものを、どこかに、誰かに、押し付けられたら。そうしたら、私は今よりずっと楽になれるに違いないのに。

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