「人生」は大きなヤラセ番組

ヤラセはよく否定される。批判ではなく、むしろ「否定」だ。

なぜ否定されるかと言われれば、「現実」「実際」がしょぼいからだ。特に面白みもなく、奇怪な事も、奇妙奇天烈な事柄も、驚嘆するような事件も起こらないからだ。

ヤラセは、そういったしょぼい現実から逃避するためのマジックなのだろうか。だったら、随分優しいもんだと思った。

しかしそれは否定されるのである。娯楽という非現実を求められているはずであるのに、変なところで現実に即しているべきだと思われる。嘘を流すなと。

だとしたら、全ての嘘は排斥されるべきか。ディズニーランドをこの世から消すべきか。映画の放映は禁止されるべきか。あらゆる空想は禁じられるべきか。観光は成されるべきでは無いのか?もちろん、そうではない。

人生は大体が「ヤラセ」である。人に話をする時も、実際の「行動」からは僅かにでもそれるところがある。過去を思い出そうとおもっても、あるのは過去そのものの空間ではあく、言語的な意味であって、その意味も完ぺきではない。

人が伝えようとすること自体、ある意味でもう「嘘」なのである。それが現実から僅かでも逸れていようものなら、それがそれ自身ではないことは、火を見るよりも明らかであろうね。

詞も、思い出も、本も、語りも、会話も、文章も、一般名詞も、一種の「嘘」だ。それはそれを対象とするものを完ぺきに記述するのではなくて、その道具における最大限を表現するのみ。その意味では、「真」かもしれないけどね。

「人生」はヤラセであり、且つ嘘である。それは言葉にしないと現れないものであるから、必然的に嘘になるほかないのである。アウラというものを感じることが出来るなら、嘘ではないかもしれないが。

人間はおそらく、「嘘」もしくは「虚構」で生きているのだ。今日あったことでさえも、全部を記述するわけではない。かならず「編集」される。ヤラセ。ヤラセ。人間はヤラセばかりなのだろう。それが一種の現実であると思っているから、「ヤラセ」ではないと思っているのであろう。

言葉への介入。また誰かが話し、嘘をついている。ポチポチと、聞こえないはずの編集音。

無かったことにされること。あったことにされること。そのどちらかが、今日も起こっている(ことになっている)のだ。ただ、「ヤラセ」をして、全ては放送できないけど。




今日も大学生は惟っている。



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