対自から疑似即自へ+α
今日は、冷雨の天気。久しぶりの雨は、まさに日照りの続く田んぼに募る干天の慈雨。そんな今日の前の日には、「対自」と「即自」という概念を意識して文章を書いていた。
「即自」とは、一種の没我状態であり、また「対自」とは、状況を俯瞰的に見つめる態度です。つまり、即自と対自という二項対立が成り立っているということになります。どちらかが良い悪いというわけではないけれど、多少なりとも優劣の判断が混ざっているのかもしれないと。何かを俯瞰的に見つめることが無い状態が、見つめている状態よりも、ちょっと「悪い」「劣っている」という判断がどこかにあります。
しかしその判断は的を射ていません。「即自」の状態(埋没状態)から、「対自」の状態へ移ることは、即自の状態が劣っていることを表すことと同義ではありません。「対自」の状態にしばらくとどまった後は、再び「疑似即自」の状態にかえっていくこともあるのだろうなと思います。〈遅さを愛するということ〉という記事では、対自化の状態から、即自化の状態に移ることについて書いていたりしたなと。
あと、なんとなくですけどね、(ちょっと話題変わるね)
対自化の暴力が蔓延っているのではないかと思います。自分は誰。自分はどこにいるの。本当の自分がいるはずだ。そういうのって、一種の「対自化」だと感じるのです。自分を俯瞰してみることは、自分という存在を疑うこと、批判的な視点をもって見つめることであもありましょう。それは、「自分」という存在がしばらく、或いは長い間不安定に、そしてあやふやになることだと思います。(凝り固まった状態のモノをほぐすのが、「対自化」ですからね。)
対自化の暴力。つまり何が言いたいのかというと、歪曲した対自化の状態に、即自的になっているのではないかということです。つまり、一見「対自化」しているように見える「即自化」ではないかということですね。(対自なのに、即自? なにいってんだこいつと思う人もいるかもしれません・・・)
自分という存在について考えるのは、不思議な事ではありません。自分という存在を意味や意義、価値を知ろうとするのは、特殊ではありますが、今を生きる人にとっては不思議なことではないかもしれません。自分というものを探す、一種の「穴」の状態、相対的視点で見る、今風にいうとアイデンティティや分かりやすい強みや特徴を探すその行動は、やはり「対自化」的行動に思えます。(アナタはどう思いますか?)
そしてその行動が、「即自」ということなのです。延々と自分を探しつづける。自分がどこかにいるはずだ。自分が有意志的、真に主体的な原理としての自分がいるはずだ。いずれ辿る道の先にあるゴールのようなあの場所に、理想の、目指すべき、真の「自己」があるはずだ。つまり、そういうことを考えている間は、そういう理想の「自分」や「自己」は存在してはいないことになる。
「自分」という、現在とは遠く離れた時間にいるという、ある種の現状の「自分」の否定・相対化(非絶対化)の状態が、ず~~~ッッと継続している、そういう状態こそを「対自化」出来ていないという意味で(或いはそれに陥り囚われているという意味で)、実は「即自化」的行動なんじゃないかと、つい思ってしまいました。
ここで話しがややこしくなってきましたが、もう少し言葉を尽くして述べると、「対自化の連続・連鎖である即自化」は、今ここにいる自分という存在に対して即自化している(嵌る・合体している)わけではありません。この行動を行う人間は、「無い自分」に対して即自化しているのです。つまり即自化でありながら、実態は全く「即自」ではないという要素すら持っているということです。これ非常に厄介な考えだな(書いてるお前が厄介にしてんだろ)と思ったことには、「対自化の連続・連鎖である即自化」は、対自化に見える即自化という意味で、「対自化」ではないのであり、無いものに即自的になっているという意味で、現状の自分に対する「即自化」ではないということです。つまり、どっちつかずの、ややこしい構造を持っているということです。
目標の為。理想のため。成すべきことのため。その為に、自己を否定し、破壊し続けることは、全然悪い事ではありません。しかし、そのような事柄に限らず、あらゆる場合、常の状態において、自分というものを相対化(対自化)し続ける、今の自分そのものを受け入れないという行動は、なんだか具合が悪くなりそうだなと思いました。
思うに、気づかない「即自化」と、自ら行う「(疑似)即自化」は違います。後者は、正確には「即自化」とは言い切れません。即自とは、ただ「ある」ということだけで、何かに対する意識すらほとんどないことですから。あぁ途中から何言いたいのか分からなくなってきましたが、まぁともかくもワタシの言いたいことは、「常にある種の理想の状態としての自分を探している一種の対自化状態を延々と続けてしまう行動は、それこそ即自的(没我)では?」ということだと信じます。
気づかない、ってのは結構怖いこと
だと思います。やっぱりね。
後、途中からめちゃくちゃややこしくなったので、「対自化の連続・連鎖である即自化」(何かちゃんとした名前が欲しい)について、改めて記事書こうかなと思います。なんか楽しくなってきちゃったんでね・・・!
と
今日も大学生は惟っている