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自分の周りを笑うことは自分自身を笑うこと?

以前にも、「【哲学】他人のことを馬鹿にする人間は、自分のことを馬鹿にしておるのと同じで」という記事で、他者を貶めること、貶すこと、笑いものとして枠に当てはめることの、その可笑しさを書いたのだけれども、

またさらに書きたくなったので、書~~~く!

まずもって、参考になる文を引用する。

黒人は変装した白人である(アンリ・ベルクソン、2016、43)

なるほどこの短い文から、非常に色々なことを読み取ることが出来る。それは以前の記事で書いたように、「笑われる」対象というのは、「笑う」側から見た完全なる他者、異質な者ではなく、むしろ自分の中の抑圧された部分、日常において無意識的に無視したり、低い評価を下しているような要素に近いものなのかもしれないと思った。

引用文は、つまり「笑われる」側と、「笑う」側の同質性を示唆しているものであって、完全な乖離を示しているわけではもちろんない。

これを、あらゆる「笑う事」に適応するなら、「笑い」というのは、似た者同士でしか起こり得ないのではないのだろうか。同じような規律や支配の元にあるもの、同じような権力を被っているものの中で、自分とは違うものとして敢えてなにものかを設定することによって現れるものが、「笑い」なのではないだろうか。

そういえばこんな話を聞いたことがある。ダニエル・デフォーが描くロビンソン譚に登場する奴隷商人や海賊は、ヨーロッパ人とは全く異なる者ではなく、むしろヨーロッパ人の(抑圧されたような)、汚い(?)、苛烈な競争社会で人々を貶めるような姿が、他者(敵)として描き出された者であると。

これは、「笑う事」にも通じていると感じてしまう。

他者を笑う事。それを悪いとは言わない。しかしその笑われる姿を、自分とは完全に異なる他者として捉えるのは、違う気がする。

もし本当の意味で(他者性を備えた)他者に出会ったならば、「笑う」ことは出来ないのではと思う。なぜなら、どこを笑っていいのか、つまりはどこがオカシイのか、どのようにコード(規律・普通とされていること)から逸脱しているか、或いはそもそも笑っていいのかどうかわからないからだ。

この意味で笑いとは、「他者的」ではないと思う。それはむしろ、自分自身に近いもので、どこまでも自分というものを(意識的にせよ無意識的にせよ)考えているという点で、ある意味でエゴイスティックで、ナルシシズム的で、マゾヒズム的なものなんじゃないかと。

まぁ、笑いには本当にいろいろなものがあるとは思うけど。それを今は個人的に勉強中。これを観光を見る時に使うと、どう見えるんだろうとか、ちょっと面白そう。



今日も大学生は惟っている



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引用文献

H・ベルクソン,S・フロイト.2016.『笑い/不気味なもの』.(原章二訳).平凡社



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