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自分の頭の空っぽさに驚いた。表現の希薄さに恐怖した。


時時、迷迷っていう番組好きな人いますか?

う”う”ぅん”(咳払い)

時時、ワタシは、(過去の)私が書いた記事を見返すこともある。

この二つは、社会学の記事と、「ある言葉」に関する考察の記事なのだけれど、なんというか、成長(?)というか、変化(?)というか、「ブログっをやってね!」と勧める気は全く無いが、続けて文章を書いてきて良かったぁと痛感したものだ。

不図、見返して、スクロールを何度かする。上下、上下、上下、上下の連続。

人間とは恐ろしいもので、過去のものと現在のパターンをほぼ同一のものと見なしてしまう。そんなことを言っているワタシが、まさにそのパターン化を行っていたとは・・・。(ベルクソンの言葉を借りれば、「回顧的錯覚」かな?)

さて、以前を振り返り、一種の恐怖と、安堵を覚えたわけだけれど、それには色々な理由が挙げられる。まず、文章の圧倒的な短さと、文章表現のレベルの低さというか、話し言葉に近い稚拙な文ということと、やはり、当時(大学一回生)、もう少しで一年が終わろうとしているのにも関わらず、文章に出てくる表現がおおよそ何者の意見も参考に出来ていないような、独りよがりの要素しかないと感じられる、知識の無さであろう。(知識だけあるのが、賢いってわけでは無いけれど)

もし、文章を書き続けていなかったら、と怖いと考えてしまった。この(大学一回生)文章力の状態のままで、社会に放り投げだされていたらと思うと、だいぶ頼りない。兎にも角にも、初期の頃の文章は、「短い」。長さが善というわけではないけれど、その短さの中には、「空虚さ」「とりあえず答え出しておこう感」のようなものを感じた。軽いのだ、とにかく。

そして、(今もそんなにというか、或いは全然ないかもしれないが)、文章の「厚み」「重厚感」みたいなものも無い。当時は、webライティングとか、セールスライティングみたいなものも若干あさっていたこともあって、加えてどう読みやすくするかということも意識していたので、「軽い」感じが拭えないような。

他の方の記事を読んでいると、割と最初から「完成」されているというか、今の記事と、以前の記事を比較しても、そんなに差がないので、なぜ最初からその文章力あんねん、と疑問に思っている。まぁ、私はnoteで文章を書いて、一年も経っていない赤ん坊である。にしてもだ、にしてもだ。(私がいつも見ている人に限るけど)どして最初から、そんなん書けるん?

加えて、最初の頃の文章を見て感じたのは、先ほどの書いたが、「文章に出てくる表現がおおよそ何者の意見も参考に出来ていないような、独りよがりの要素しかないと感じられる、知識の無さ」であろう。空っぽ、或いはボッロボロの土台。何もないなりに考えているのかもしれないけれども、文章自体の浅はかさがどうしても見えてしまう。見返したとき、「これは…ひどいな」と感じざるを得なかった。

別に物書きに成りたいわけではない。なぞる力はあるかもしれないけれど、創造する能力はこの身体に欠けている。しかし、(自分の)稚拙すぎる文章は、やはり見てて冷や汗が出る。これをいっちょ前に、「よし!」と思っていた自分が、ほんの数か月前のワタシだったのか、本当に疑問に思う。(そのワタシは、どうやら死んだらしい。)

思考の体細胞分裂。

死んでは、生き返り。変わり続ける。何かが変わっている。明確に指摘することは難しいけど。あぁ。きっとこの文章も、今年が終わるくらいには、「なんとまぁ幼稚なこと」と、あざ笑っている生きた自分が、今の死んでいるかもしれない自分を、”卑下”しているのだろうか?



今日も大学生は惟っている。



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