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Neither a giver nor a taker

前に書いた「whatever happens happens」という記事の続き的なものを書いていこうと思う。てか、どっちも英語のタイトルになってしまった。さて、「傘共有したらカフェオレを買ってもらえた」という要旨で表す「whatever happens happens」という記事を書いている途中で思ったことがある。それは、「ワタシ」と「傘を共有した相手」の在り方についてだ。

傘を共有するということは、ワタシが傘を貸したということではない。ましてや、傘を与えて、貸し与えたというわけではない。その意味で、ワタシは「giver」ではない。そしてまた傘を共有した相手も、「taker」でもないと思う。

与えるものか。受け取るものか。ワタシはその二項対立が好きじゃない。さてということで、ワタシのこの記事では、例のように(?)、二項対立から脱出してみよう。「giver」とは、何か。ワタシはそれを、「神」だと思う。持っている・所有しているからこそ、与えることができる。神のような、凄まじい者。ワタシは、人間の中に誰一人として「giver」という属性だけを持った存在はないとさえ思う。ましてや、「taker」も。

雪の日に、傘を共有したことによって、人間同士のどのような関係が明らかに感じられたかと言うと、「与え・与えられるもの」という両義性を持った存在同士の関係性だ。一方的に「与える」「与えられる」という属性を持つことは出来ないのではないかと。ワタシも、そしてその人も、あわよくば人間も、「giver」でも「taker」でもない。おそらく「ただ回す人」なのではないかと思う。

ワタシが共有した傘は、家族の誰が買ってきたか分からない傘だ。もしかすれば、自分が買ってきたものかもしれない。いずれにせよ、その傘を作ってくれる人間がいなければ、ワタシは傘をもって出かけることも出来なかった。その人が買ってくれた雪印メグミルクのカフェオレも、対価として使用された硬貨も、誰かが作ろうとして出来あがったもの。傘、通貨、カフェオレ。その存在そのものが、ある意味で受動的なのだ。

ワタシは偶然に持っていた傘を、共有した、つまり”ただ回し”ただけ。そしてそのカフェオレも、その人が、”ただ回し”ただけ。与え、与えられるという受動・能動の行動があったにせよ、お互いに、複雑に、能動的な部分と、受動的な部分が絡まり合っている気がする。いや正確には、ワタシとその人が”回し”たものは、「モノ」そのものではない気がする。おそらく、「モノ」は手段・媒介物で、本当に回されたものは、「思い」ではないのかと。

困ってい(そうな)る人がいる、じゃあこの傘でもどうぞ!

ではお返しに、(ちょっとした)ものを。

「返礼」とは、「礼を返す」ことだ。きっとそのやり取りの中で、「礼」のやり取りが行われたのではないかと思う。それが相互補助的というか、相互補完的というか。決して一方方向ではないもの。それがきっと、人間の根源的なもののやり取りの方法ではないのかと(スケールいきなりでかいな)。

ワタシは「giver」でも「taker」でも無かった。英語でカッコよく言うなら・・・。確か、「評価と贈与の経済学」 という内田樹さんと岡田斗司夫FREEexさんが共著の本で、内田樹さんが「passer(パッサー)」という言葉を使っていた気がします。いや言っていた。出来れば、「passer」という言葉、とてもしっくりくるので、「passer」を使いたいが。うん、これ以外思いつかないから、「passer」でいいかな。これ以上に的を射た表現が思いつかない。

多分、あの雪の日、ワタシとその人は、内田樹さんの云うような「passer」ではなかったのかと。ただ受け取り、そしてまた誰かに「パス」をする。二次的表現になってしまうけど、「受け取り、誰かに回す」という、能動と受動が混交するその在り方が、「giver」「taker」という、二項対立的な在り方よりも、すんなり受け入れることが出来る気がする。

ワタシはただ「回す」だけ。たまたまあったものを、たまたまあったところに。そして回された人は、「思い」をまた回す。回されたその人に返す必要は無いと思うから。その思いを、いつかのために取っておいてもいい思う。多分。

ここで、「僕のヒーローアカデミア」という作品を思い出す。以前、「贈与論とOFA」という記事を書いたことも思い出した! 

「ワン・フォー・オール」という個性についての説明で、こんなことを書いている。

「ワン・フォー・オール」の使用時に注目されやすいあの超パワーの描写は、実は副次的なものという位置付けなのだとワタシは考えます。個性そのものが、有用な能力としてどのようであるか、例えば、半冷半熱や、ゼロ・グラビティ、硬化のように、その特徴が能力的な一つの側面に限定されずに、個性自体が譲渡可能であるという点が最大の特徴である「ワン・フォー・オール」は、やはり特異なものであると考えます。

「ワン・フォー・オール」という個性は、まさしく「ただ回す人」或いは内田樹さんの「passer」という考えに似ているのではないかと思います。「ワン・フォー・オール」は、「譲渡可能」であるという点が、最大の特徴です。なぜ譲渡可能かというと、人に「渡す」ことが前提とされているから。そうでなければ、「ワン・フォー・オール」は、一代で終わっていたはず。ワン・フォー・オールの継承者は、緑谷出久も含めて、おそらく「giver」でも、「taker」でもない。そんな大層な存在でもない。彼らはただ「ただ回す人」、内田樹さんの「passer」的存在なのではないでしょうか。

傘とカフェオレも、硬貨と交換されたカフェオレも、「ありがとう」と「どういたしまして」のやり取りも、ヒロアカの「ワン・フォー・オール」も、ただ”回さ”れた結果によるものなのでないでしょうか。ただ回す人、内田樹さんの「passer」を、もうちょっとカッコよく言い換えれば、「継承者(successer)」ではないでしょうか。(ん?厨二?)でも、これだと受動的な意味合いが優勢になってしまうから、適切ではないかもしれない。難しい。

上手く話がまとまらない。けど、ここで終わろうと思う。では、ここまで読んでくれてありがとうございます。文章を与える者ではなく、ただ回す者として。





今日も大学生は惟っている



参考文献

内田樹, 岡田斗司夫FREEex.2013.評価と贈与の経済学.徳間書店



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