間接的であれば、人を殺すことに貢献してもいいと思うかの?ー或いはウーティスについて
これは、一種の言葉遊びかもしれない。屁理屈同然のものかもしれない。しかし、当たり前だと思われる事には、疑いの目を。一般名詞の動揺を。関係の無いものだと思っていたものに、異なる意識を、持ってもらえればと思うが。
さて、質問であるが。
間接的であれば、人を殺すことに貢献してもいいと思うか
これは、自殺幇助などに限ったことではない。法で禁止されていないから、という問題ではない。間接的に(それはどこまで遡るというか、つなげることが出来るかもしれないが)、人を殺すことに貢献するなら、それは正当化できることか。
例えば、こんな例を出してみよう。
今、この時代の(あなたも含めて)人類が、自らの思うがままに、消尽し、エネルギーを使いつくし、枯渇させ、持続可能なものなどクソくらえかと言うように、後世には何も残さない。今の自分さえよければそれでよく、子孫や人間以外の生物ことなど、気にかけないほどの生活を送ったとしたら、どうなるだろう。
いや、意識的に、他の生物や子孫のことを超時間的に搾取しようとは思わなくても、今、多少なりとも、自らの好きなように暮らしていたとするなら。
それが、未来の生物を、環境を殺すことにつながるとしたら。それに、現在の人間が、全く関係していないと言えるだろうか。例え、直接手を下すような殺人ではないとしても、それが「結果として」、人を殺すこと、人の命を奪うことに寄与しているとしたら、それは、無視していいことなのか。
粗末で、矮小で、どうでもよく、気に留めることのほどでは到底あり得ないと、一蹴することができるのだろうか。ワタシには、分からない。(もちろん)
し・か・し
この問題の盲点は、その遡及可能性の膨大さ・無限性なんだよね。
例えば、通常の(?)殺人でも、僅かでも関わっているとしたら、一つの殺人事件の容疑者が、厖大な数になってしまう。直接的ではなく、「間接的」だということによって、その責任の行き先は、途端に行方をくらますのさ。
ある殺人犯に、家を貸している人。その殺人犯の親。知り合い。友達。その殺人犯が夕食を買った店を経営していた人。車を売った人。銀行口座の登録を担った人。本当に膨大となる。もしかしすれば、一つの殺人事件に対して、間接的に責任を追及することになるなら、その社会全体が、「犯人」ということになるかも。
これは、「犯罪」の半分が、社会側から由来するものという考えに、通ずるものだと思うのね。
いつの間にか、「責任」という話になって来たので、話を戻そう。
「間接的であれば、人を殺すことに貢献してもいいと思うか」
これについて、どう考えるだろか。
ひとまず言える事は、この考えというか、疑問を、正規の責任追及の際に採用したなら、誰にも責任を負うことができなくなるということだ。誰にでも責任があるということは、誰にも責任が無いということになってしまう。
ゆえにこの、「間接的であれば、人を殺すことに貢献してもいいと思うか」という質問は、ナンセンスになる直前の、危険な質問かもしれないということになるかもね。
この質問に対して、少し答え方は違うが、犯罪の原因に関わるあらゆる人物を容疑者とするなら、ワタシは今、生きているだけで、何かしらの犯罪の容疑者になる恐れがあるんだよ。おー。なんということか。
つまり、この「間接的であれば、人を殺すことに貢献してもいいと思うか」という質問は、「はい/いいえ」で答えて欲しいという質問というよりかは、そもそもこの質問自体に対して、疑問を持って欲しいというものなのかもしれないんだよね。
「はい/いいえ」で答える場合も、ある程度は深められるかもしれないけど、やっぱりね、問題はそこじゃないと思うの。
「間接的」、そして、「殺人を含む、犯罪」。その責任について。どこまで、責任を追及すべきか。犯罪が生じた時に、直接かかわった人に対して責任を追及するとはどういうことか。
そして、犯罪とは、「犯人(加害者)ー被害者」、「犯人(加害者・被害者)」という、非常に狭い関係で起こるものではななく、実は、社会という人間が生活する基盤そのものの問題であるのではなくかということを、なんとなく途中から書きたかった(のかも)。
なんとなく、もう一度繰り返しておこう。
通常の(?)殺人でも、僅かでも関わっているとしたら、一つの殺人事件の容疑者が、厖大な数になってしまう。直接的ではなく、「間接的」だということによって、その責任の行き先は、途端に行方をくらます。
責任、とは何か。責任は、誰が取るべきなのか。責任が自らに追及されないからといって、自分は関係の無いことになるのか。もし、間接的に責任が追及されたなら、どうなるのだろうかね。
「間接的であれば、人を殺すことに貢献してもいいと思うか」
これは、ワタシ個人の解釈では、条件(if)の問題ではないように見える。これは、視点を少し変えただけのような。(いやそれも「if」かもしれないかな・・・?)
瓶を買った猫を責めること。そうではなくて、その猫を育てているのは、まぎれもなく、彼だ。なら、瓶は、「彼」がいなければ、割れることはなかった。いや、そもそも、瓶を売る人がいなければ、瓶は割れることはなかったかもしれない。
こういう風に、確かに「if」に見えるかもしれないけどさ、発話時t₀(現在・現状)と、「if」の条件によって開かれた、或いは閉ざされた世界には、それほど大きな分裂が起こっているようには見えないの。なんか、なんとなくね。(語彙力無いね、ごめん。)
ひとまず、
今回は、ここまでにしたいと思うよ。
いつもは、学んだ内容とか、本とか、きちんとした情報や偉人に基づいたことを基に文章を書いているのだけれど、今回は、本当に、勝手に頭に浮かんできた(かもしれない)、誰も参考にしていない、支えられていないものなので、考えとして、しっかりしていないかもしれない。
答えもない。
疑問もよく、分からない。この責任は、”おそらく”ワタシにあると、おもうぜ。(なんか、ちゃんと書いて、意味が分からなくなってしまったかもしれない。)
と
今日も大学生は惟っている。
サポートするお金があるのなら、本当に必要としている人に贈ってくだせぇ。