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改めて”大学生”の価値を考える


前説

大学生です。とはいうものの、「大学生」であることの価値というものを、よく考えたことはない。「大学生」という文言は、いつしか「ダイガクセー」という空疎な一言半句へと変化してしまいそうで、あまり繰り返したということもない。

大学生であることに、どのような意味があるのだろうか。そもそも、どうして大学生になろうと思ったのか。地獄の如き受験を終えて、やっとのこと、他人の助けを経ていきついた大学という場に、どのような意義や価値があるのだろうか。不図疑問として降ってきたところですね。

つい最近ボヤーと感じていることは、大学で学ぶ「知識」、大学にある「知識」には、あまり価値が無いのかなということ。とどのつまりどういうことかというと、「別に大学生にならなくても、大学で学ぶような知識を手に入れることが出来るのでは?」ということ。一言でいうと、「知の流出(この表現もあまり好きじゃないけど)」。ネット上をご覧ください。大学で学んだような情報が、ちょっと調べるだけで出てくるよ。

「ジニ係数」「即自化」「正面性の法則」「フィニアスゲージ」ソマティック・マーカー仮説」「定言命法」「動物解放論」「マズローの欲求段階「鏡像段階理論」。(←ほら。これ全部の言葉にリンクが張れちゃう。情報はすぐそこにある。)

おそらく、”大学に入って初めて”知ったこれらの知識や概念は、ちょっとネットで調べれば出てきます。なんなら、詳しい解説までついています(なんと!)。わざわざ大学に”行く”よりも、すぐネットで検索して、情報を得る方が、時間もお金も掛からなて、コストパフォーマンスサイコーです。確かに、ネットで調べても出てこないものも、わずかながらにあるかと思います。(でも、日本語以外の言語で調べてみると・・・?)しかし、大学で知った情報は、おそらくほとんどネット上に存在する。試しにやってみては?

ミシェル・フーコーの「パノプティコン」も、マックスウェーバーの「脱魔術化」も、サルトルの「存在と無」についての説明も、ボードリヤールの「シュミラークル」も、西田幾多郎の「絶対的自己矛盾同一」も、ニーチェの「永劫回帰」思想も、デラルド・ウイング・スーの「マイクロアグレッション」も(これらの言葉も、リンクを張ることが出来たね!)。調べたら出てきます。大学という場に縛られている必要性など、どこにもないとさえ思われるほどに。


大学でしか学べないこと!という錯覚?

実技を伴うもの。実験が必要なもの。大学(大学というかむしろ専門学校?)でしか習得したり、学んだりすることが出来ない知識はあるのだと思います。医学、獣医学とかは、その例かもしれません。しかしそれはおそらく少数。多数は、その限りではないと思います。医学や獣医学などの特殊な知識を学ぼうと思わない限りは、「大学でしか学べない知識を求めて!」という考えは、なんとなくオカシイのではと思ってしまいました。(だって、調べて、ネットで知ることが出来るんですから)

ということで、大学で学ぶ知識はすでに大学という場で学ぶ必要性はないというか、大学でしか知ることの出来ない知識が、ネットで知ることが可能であり、わざわざ知識だけを求めて大学に行く必要が無いと仮定しましょう。

では、そこで「大学生」であることの価値とは、なんなのでしょうか。

おそらく価値として考えられるのは、大きく分けて5つ。ひとつ目はやはり「時間」。二つ目は「大学生という身分」。三つ目は「体力(若い場合」。四つ目に「人(との関係←これはいつでも重要ですが)」。そして知らないと知る機会ではないかと。特殊な例を除いて、「知識そのもの」は重要では無いと考えます。「時間」「身分」「体力」「人」「無知の認識」。これらは全て重要です。その時の時間で、その時にしか行使できない身分の特権と、その時のみの体力で、その時しか出会えない人と、「無知の認識」をする。これこそ、大学生の醍醐味だと思うのですが・・・正直、この五つの中の四つ要素すらも、大学生である必要はないかなと思いました。

大学という機関の所属しなくても、時間はありますし、体力が減るわけでもありません。自分からどんどん行動をしていけば、人との関係も築くことは出来る。そうですね、後大学生であることのメリットをあげるとすれば、「学びの機会が受動的な姿勢であってもやってくる。」「就職支援が得られる」「大学生でないと参加できないプロジェクトなどに取り組むことが出来る」「学割」「割といろいろ施設を利用できる(今は出来ないけどね!あぁ!)」とかでしょうかね。まぁこういうのは、付属物みたいなものです。


知識を識るのではないことが本質ではないとしたら

大学にある「知識」が重要なのだということに反論する形で、この記事を書いてきたわけですが、では重要な事はなんでしょうか。実は以前ちょろっと記事で書いていた内容を、ココでも書きますね。

大学で学ぶということは、旅です。もしくは、本を読むことでもあります。情報が溢れて、アクセスしようと思えばできるのに、ワタシはあまりにものを知らないのです。大学という場は、ただ学ぶ場ではなくて、情報への欲望、知識欲みたいなものを刺激する激物・活力剤のようなものだと感じています。そこから、ドカンと、欲望が溢れ出します。

出典:https://note.com/uyohikki/n/n7272cf3180f3

ワタシが、これからの時代に限らず、いやきっと大学という場にも限らず、学ぶことにおいて最重だなと感じていることですが、「情報への欲望、知識欲みたいなものを刺激する」ことが、一番意味のあることなのではと思います。確かに、あまりにもたくさん言われたり、書かれたりしているかもしれませんが、敢えて書きますと、「知識を知ることがミソなのではなく、知らないことがあったということを知ることが、すっごく、すっごーーく!重要」なのですね。

ですから、正直、「大学生」であることの価値って、あんまりないと思います。「知らないことを知る」という姿勢がいつでもあれば、知識自体への欲望はあるということになるので、わざわざ大学に行く必要はありません。(情報自体の多くは、調べれば大抵出てきます。日本語以外の言語も使えば、なおさらです。)

となると、ここで思いつくのが、「学歴」です。「○○卒」という記号が結局のところ大事なのではということです。これ半分正解で、半分間違いです。高学歴(そもそも大学卒というだけで「高学歴」ですが)であるということは、そうでない人に比べて、能力(特に学習能力)が優れているということです。特に判断する材料、突出した能力がない場合に、判断材料になるのは合理的であると云えます(絶対とはいえませんが)。今のところ、この「学歴」は効果があると思います。(学歴だけ、の人間がいないとはいえませんが)

けど、あまり「学歴」という記号には囚われたくはないので、一旦この「学歴」或いは、いわゆる「大学生ブランド(記号消費)」については、話から外させていただきます。

となると、「大学生」であることの、真の価値らしい価値は、ワタシが考える限りは、あまり見つかりません。話を整理すると、本当に特殊な例を除いて大学で学ぶような知識の大半は、ネットで調べれば出てくる(なんなら、この「note」というサイトやアプリには、大学の講義で学ぶような内容がヘーキで掲載されています。また大学生が学びの内容をまとめてくれることもあるので、なおさらです。)人の関係、時間、若さについては、大学生である必要はないといえる。

後これは個人的に思うことですが、「note」にある記事の情報の多くを理解し、自分の言葉で言いかえられるくらいに落とし込むことが出来たら、大学だけで得た知識を持つ大学生よりも、よっぽど多くの知識を持っているのではと思います。直観でね。

といった感じです。

けど一つだけ言うならば、「人の関係」についてです。大学の、特定の学部あつまる人間は、似てる興味や関心を抱いている場合があります。そういう関係の中で、学びを深めることが出来るという点で、「大学」という場は価値があると思います。(今だとムズカシイので、大学の価値が分からなくなっている気がしますが)

このように色色書いてきたけれど、「大学生」であること、「大学」という場の価値が、(条件着きで)減じている、或いはよく分からなくなっているのではないかと思います。誰でも情報の発信が可能なこの時代で、わざわざ大学という場に知識を、或いはそもそも教育機関(小学校、中学校、高校などその他)に縛り付けておく意味がわかりません。人間の教養に資する知識は、開かれているべきではないかと思うからです。

ということで、大学生であることの価値、「学歴」「大学生ブランド(記号消費)」「時間、身分、体力、人との関係」を除いた場合(結構除いているねアン?)、一体どのようなものだと思うでしょうか。




今日も大学生は惟っている



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