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子供に遺伝して欲しい特徴、みたいな話ってなんか哀しいナ

タイトルまんまなのだが、今回は「子どもに遺伝してほしい・・・」というような話題について抱いた、奇異な印象というか、哀しさを言語化していこうと思う。

一つ言っておくが、「子ども」がどんな風に生まれてくるのかについて話すことを全力で否定しているわけではない。ただ、「伝わって欲しい遺伝子」「伝わって欲しくない遺伝子」という話をするのが、とても哀しいと感じたのだ。

どうしてそのような話をするのかと云われれば、子どもに伝わって欲しい性質、或いはそうではない性質があるということが前提になっているからだ。また、どうして遺伝子や性質について、そのような判断をするのかと云われれば、これは(わたしに独断であるけれど)有用性やどれだけ有利に働くかという価値判断で、形質や遺伝子や、性質を判断しているからであろう。

そのような価値判断の延長線上にあるような考え方で、子どもすらも判断していることに、違和感や哀しさを覚えないのだろうか? 子どもは、(例外もあるが)生まれてくることそれ自体を、価値判断にさらすような対象なのか?

(例外はあるが!)子どもが生まれてくる(生まれさせられる)ことは、それ自身に対して、「良い」とも「悪い」とも言えないし、むしろそれを喜ぶべきではないのか(例外はあるが!)。

いや喜ぶべきということ以上に、(あまり「べき」という文言を使いたくないだけだが)、兎にも角にも、「子どもに伝わって欲しい遺伝子~」という考え方は、自分をまず価値判断にさらし、つまり、有利に働くかどうかで判断し、さらには、子ども(の特徴)までも、有利に働くかどうかで判断しているような気がして、なんだか気持ち悪い。

そのような意識はないのかもしれないが、というか、そのような意識すら無いことこそ、怖ろしいというか、気持の悪いものに見える。

繰り返すが、子どもが生まれてくる(生まれさせる)こと自体については、あれこれ考えること自体は、特に否定されるものでもない。ただ、子どもを価値判断するようなものをちらつかせる会話や考えは、やっぱりキモイ。

言葉は悪いが、子どもは親からしか生まれてこない。子どもは親を選ぶこと何で出来ない。子どもは誰かに頼らなければならない(特に赤ん坊)。苦しみの原因を作るのも、親であるし、幸福の原因を作るのも、親である。

子どもはつくづく可哀そうだ。(そうでないかもしれない。)限りなく受動的な位置という隅に追いやられて、挙句の果てには、生まれる(生れさせられる)前からですら、親を通して価値判断されることもある。子は親自身ではない。親も子自身ではない。ただ、子が親から生まれてくることは、揺るぎない事実だ。

子どもは、少なくとも、小さい頃は、「その子である」という価値を認めてもらうべきではないか・・・?



今日も大学生は惟っている。



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