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実力は正当に評価されるのか
「銀河の片隅で科学夜話」という本の数理社会学に関する部分を読んでいる時、
こんな文章を見つけた。
音楽をはじめとした芸術芸能、あるいは言論界や政治の世界まで含めて、みなの人気投票で優劣を定める分野は、「少数の天才」と「凡庸なそれ以外」にはっきり二分される世界になりがちで、名声、収入、権威もそれに従って分配される習わしになっている。しかしながらワッツ博士たちの社会実験から判断すると、この鋭い二分は、才能や適性の分布に起因するというよりも、われわれの人間の付和雷同の心によって発生する、社会的な構成物だと考えたほうがよさそうである。成功は才能と時の運、というわけである。(全卓樹、2020、95)
この引用文は、「ジニ係数」というものに関連しているので、興味のある方はどうぞ。
さて、この考えを援用すれば、成功は、才能と運次第ということになる。
たとえ実力を有していようとも、たまたま人気になることがなければ、人から評価されることが少なくなってしまうということが往々にしてある。
トマス=クックが旅行の大衆化に成功したのも、彼が諸活動を継続していただけではなく、時機を読んでそのような活動を行ったからだ。ただ実力を行使しても、意味がない。
逆に言えば、どんなに汚い手を使っても、自らに迎合させる人間を多く作り上げれば、ある程度は成功するということだろう。
sns上での、「buzz」は自分に迎合する人をおびき寄せるという点で有用と言えよう。
さて
私見では、人の成功は、すべて環境に依存しているものだと思っている。
なにかの才能を持っていようとも、その才能がそもそも見出されないのなら、そいつは凡人のまま。
素晴らしい能力を持っていても、それを活かせる環境が無ければ、そいつは村人U。
意思があっても、努力できる環境が成立しなければ、そいつは能力を伸ばすこともない。
(実力(能力)は正当に評価されるのか?)
子どもが勉強し、学歴社会に対して十分な競争力を持つことができるのも、それを鍛えるだけの十分な時間と金と、つまり余裕があったからだ。(社会学でいう教育が格差を再生産すること)
それを自分だけの力によるもの、だとは決して思わない。
少し話は変わるが
ジョブ型に傾倒しつつある現代の企業によって、有用な人材は確かに重要だ。若かろうが、老いていようが関係はない。
その中で、人を評価する時にも、こうした人間の付和雷同の性は働くのだろうか? 実力は正当に評価されるのか?
人が何を判断する時には、ワッツ博士の実験から得られたような一種法則や、人が一般に信じている常識に頼ることが多い。
繰り返すが、それは真理ではなく、経験によって蒐集された蓋然的真実だ。何がおころうと、その知識の通りになるわけではない。
身の回りには、客観という皮を纏った主観の塊が溢れている。
いやそもそも、人が備えている能力(実力)は、平等に成長していくのだろうか?
実力は正当に評価されるのか?
いや、人間が行う”正しい判断”とは何か?
そもそも実力と思っているものも、幻想に過ぎないのではないか?
結局、分からずじまいのことが増えてしまった・・・
と
今日も大学生は惟っている。
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