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【哲学】どこかで線引きをしなければならない
最近いつもこう思う。
人間は線引きをしなければならない生き物だと。それは誰かの為でもあるし、しかし誰かの為でもない。
誰かの為にはなるが、誰かに不都合なことがある。
それが、線引きなのだと思う。
例えば、人間の誕生についてだ。人間が子どもを”作ろう”することと、人間が遺伝子組み換えやクローンを使用して、子どもを作ることは、典型的な線引きの例だ。どちらも子どもを作るという点で同じであるが。
人間はここで、どちらが容認されるべきかに対して線引きするだけではなく、その基準さえも線引きによって作り上げる。
線引き、線引き。
先ほどにも例としてあげたが、人間の誕生をまた例にしよう。
子どもを作る時、子どもを産む時、その当人、つまり子どもの意志や意見は考慮されることはないし、考慮することも出来ない。
人間が考えるのは、「基本的に」、その子が生まれるべきか否かではなく、その子がどう育つか、育てられるかである。確かに生まれなければ、元も子もないことは大いに分かる。だが、このように当たり前とされているようなことを私は疑わずにはいられない。
人間が誕生するという行為には、不思議なことに、当人の意志が全く関わっていない。そこにあるのは、作る側、儲ける側の意志・期待・不安のみ。本当に不思議だ・・・。
こんなに大事な事なのに、どうしてなのだろう。いやもしかしたら、生きることにおいて、もっとも重要とも言える事だからこそ、「意志」が目の上のたん瘤になるのではないか、とも思った。
生まれる時において、意識や意思が邪魔だということか…?
確かに生きることにおいて重要なのは、生きることだ。それ以外にはない。だとしたら、この生きることの根底を疑問に思う私の意識は、不必要なものではないのだろうか。発達した脳が、生きるのに有利になるための脳が、生きることそのものを揺るがしているとは、なんとも皮肉なものだ。
そういったごちゃごちゃをそのままで受け入れることが出来ないがために、恣意的な線引きをしなければならないのだろうか。
人間という存在自体が、そもそも矛盾に溢れたものであるために、線引きをする。人間が考えてはいけないことまでに達してしまうのを防ぐために、線引きをする。カントの純粋理性批判みたいに。
矛盾の中に人間は生きている。きっとこの矛盾から永遠に抜け出せることはないであろうし、それが可能になることもない。
しかしそれは、矛と盾をずっと対峙させていい理由にはならないのだろう。矛は矛として、盾は盾としてあることを、そのまま認めるか、尊重しなければならない。
線引き
これは、矛盾を受け入れるためのもの。
人間が生きるための、一つの機能であり、適応であり、進化でもあり、人間が死すには最もな理由にすらなる。
と
今日も大学生は惟っている。
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