住まず暮らし
数日前に図書館に行き、図書館内を遊歩していると、”見覚え”のある本をみつけた。手でカバーの無い表紙を撫でてみると、これは「みすず書房」から出版されたものかなと推測。巻末を見てみると、「みすず書房」から出版されているもので、ちょっと嬉しかった。視覚も使ったけど、手触りで何かの種類を判断するって、なんか「っぽい」よね・・・。知らんけど。
本は、よく手で触るものだ。というか、大学生になってから、よく手で触るようになったというか、日頃から読んでいるので、手で触れる回数が多いというか。とはいうものの、ワタシは「家」の手触りのようなものに対して、案外無頓着なんだなと感じる。2020年の2月8日に公開した、「いつから家は「住む場所」になったん?」という記事がある。これと似たようなところが有ると思うが、この続きとして、書いていく。
ワタシは「家に住む」という表現にあまり違和感を抱かないけれど、「家に暮らす」「家で暮らす」という表現には、何故か違和感がある。なぜかというと、おそらくそれはそのような表現を使うことがあまりないからだろう(単純接触/ザイオンス効果ってやつ?)
その表現を使うことがないということが、その行動を成していないという風に仮定すると、ワタシは家に住んではいるが、暮らしてはいないということになる。「住」という漢字は、「人」に「主」という風に書くのに、不思議とそこに人間の”主”体性が感じられないのは、ワタシだけだろうか。いやもしかすれば、一方的に人間の主体性がある方がいいと考えるのすら、間違っているのかもしれない。
「家」は、ただの「箱」である。そんな気がした。ワタシが建てたものでもないし、構造を知っているわけでもない。ワタシはただそこに「居る」というか、シルバニアファミリーのあの兎の人形の様に「配置」されているだけというか、どこまでも受動的な存在に成り果てている気さえする。ただ住んでいるだけ。ワタシと、この「家」は、会話や調和をしていない。
暮らす、「暮」という時間が入っていることから、時間的な意味を含んでいるのかなと考える。「家」で「暮らす」。つまり、「家」という空間と共に、時間の流れを感じると云うことになる気がする。ここで、「いつから家は「住む場所」になったん?」でも引用したが、「ケータイ化する日本語」という著書から引用したいと思う。
電話が大衆化普及の時代を迎えるより前に、職員層、サラリーマンの家は、社会という外部の「公」の職務から切り離され、外界との接続の機会が少ない、「私」の生活の空間になりつつあったといえる。(佐藤健二、2012、158-159)
「家」に住むという表現は、家における時間的な流れが排除されている、或いは断絶していることなのでと思う。引用文には、「家」というものが、「私」の生活空間になりつつ、とあることから、外部の環境から断絶した、閉鎖的で個人的な空間、ある意味で非常に狭く、閉じた空間になったことを示すものだと思う。つまり、外部との時間すらも排除されている。
家に「住む」という表現に違和感を覚えないのは、家が、ワタシにとっての完全に「私」的な空間であり、外部とは隔離された空間であり、時間の流れが外部とはどこかで異なっている、いや空の色や、温度、太陽や月など、自然や天体という流れと、折が合わなくなっているからではないだろうか。ワタシは、家で暮らしていない。いや、家”と”暮らしてはいないのだろう。
家が単なる「物」に成り下がり、ある意味で他人に対する障壁となり、「ノイズ(異音)」をとことん排除した、歪な聖領域になる。それが、現代の、特に日本の「家」事情なんじゃないかなんて、こっそり思った。ワタシは家に配置されている。家と共にあるのではなく、家もワタシと共にあるのでもない。困ったことがあれば業者任せ。家が「自分事」じゃない。ワタシという人間こそが、「家」から一番排除されつつあるのではとさえ感じられる。気のせいかもしれないが。
なんとなく将来は、家と「住まず暮らし」をしてみたいなと感じた。家と会話するというか、家の変化が分かるというか、家から排除されない空間が欲しいなあと、「家」という「物」に閉じ込められながら、こんな文章を書いても、あんまり説得力とかないかな。どうすればいいんだろう。具体的な行動に落とし込めていない。家、高そー。
と
今日も大学生は惟っている
引用文献
佐藤健二.2012.ケータイ化する日本語.大修館書店