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「リマジネール」·「純粋言語」·「第三現実」·「理性の暴走」、或いは、空中楼閣を持つ人は
前に書いた、「【哲学】「リマジネール」或いは「純粋言語」或いは「第三現実」或いは「理性の暴走」と呼ぼう」の続き・・・的な。
誰かさんは、夢想が好きだ。夢想というか、夢というにはあまりにも曖昧なもの。それは、夢よりも雲散霧消としていて、誰にも見つかることのない。
「オンライン・バカ」という本には、アンソニー・トロロープの空想について、このような文章が書いてある。
他の子は私とは遊ぼうとしなかった‥‥‥それで私はいつも何かの空中楼閣をもってうろついているということになった。‥‥‥私想像では、それ以上に危険な精神の習慣はありえないと私は思う。しかし私はしばしば、私のこの習慣が無かったら、私は小説を書いたりしなかったんじゃないかと思う。私はそうして虚構の物語に対する関心を維持し、私の想像力の産物に住まい、私の物質的な生の世界の外にある世界で暮らすことを学んだのだ。(マイケル・ハリス、2015、61)
ワタシは、空中楼閣という一言半句にとても惹かれた。誰にも見えないこの壮大な脳内外世界を、これ以上に表現してくれるものがあるのかさえ思った。
空中楼閣。
そうだ。以前書いた、「リマジネール」も、「純粋言語」も、「第三現実」も、「理性の暴走」も、壮大且つ、虚構に溢れ、しかし常に想像を私に可能にしてくれた、どこにもない。
どこにもない、は悪口かもしれない。確かに、空中楼閣は、空理空論と同義だ。確信できるところなどどこにもない。しかし、それを確信できないという事は、この地に足のついた世界が、確信できるものだ、という妄執に憑りつかれているということではないか。
この世界ですら、ある意味で、空理空論、空中楼閣の一種かもしれないのにね。有という絶対根拠を持つのには、あまり納得がいかないの。
だから変なのかもしれね。
どこにもないもの。無。砂上楼閣。空想。虚無。虚構。つねにこれらばかり。あるもの、とはいえそうにない。でも、それでいいのかもしれない。アンソニー・トロロープという、どこぞのシラナイおっさん(かもしれない)考えは、なんとなく、納得がいく。
虚構を考えるには、その分、虚構と戯れていなければならない。ル・レエルから離れて、社交なんてろくにせず、上の空で、危険で素敵な遊戯を。
ま、今しかこんなこと出来んよな。
と
今日も大学生は惟っている。
引用文献
マイケル・ハリス.(2015).オンライン・バカ 常時接続の世界がわたしたちにしていること.青土社
p.s.
ヘッダー画像は、noteじゃなくて、「noet」になってるね。もうなに意味しているか解らんね・・・。
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