「誇示的消費」としての観光
社会学には、「誇示的消費」もしくは「差異的消費」という言葉がある。ものそのものの価値が重要性を失い、如何に高価で、貴重で、華々しい製品やサービスを消費することが出来るかという行為に価値が見いだされるということだ。
「観光」(旅)も、もちろんその例外ではなく、純粋に観光そのものへの希求に基づくものよりかは
どこへ行ったか
誰と行ったか
何を観たのか
何を経験したのか
どこに泊まったのか
何を食べたのか
どんな写真を撮ったか
というような行動を通して、「自分」がどのような観光をしたのかということにより意味が見いだされているのである。近代に特有の「自己語り」「自己物語」の一環としての観光という見方も出来るだろう。
同質であることを強いられる社会では、いやそのような社会だからこそ、他人との差を強調しようとするのだろうか。他人よりも優れていようとするのだろうか。平等というものが現れてから、他人との「格差」が明白になっているのだろうか。
だとしたら、人間は社会的動物として”進化”していく中で、格差というものを発達させていったのだろう。大規模な集団の中では、比較的落ち着いて人間は暮らすことができるかもしれない。間違ってはいない。だが同時に「格差」が現れ始めたのも、大規模な集団で生活し始めてからのことだ。
特に、民主主義という法の下の平等を強いる社会では、自分と同じような人間が雨後の筍のように蠢いている。人類の繁栄という観点から見れば、今暮らしている社会は、在り得た進化の蓋然性の一つだろう。しかし同時に、個々の人間の精神的な充足、存在意義、意味、というものを自動的に満たしてくれるわけではなかった。足りないものを人間は補おうとする、承認欲求充足への渇望の現れこそ、近代が内包している現象なのではと惟う。
しかしながら、都合のいいことに、承認欲求を(一時的に)充足させることができる機会、装置、消費対象はゴロゴロと転がっているじゃんね。観光という代物は、その一つに過ぎないってだけ。
観光そのものではなく、観光をしている自分、
大勢で観光を楽しんでいる「という」自分
一人で旅をしている「という」自分
家族で旅をしている「という」自分
予定調和ではなく、フラッと旅しちゃている「という」自分
交通機関を使わずに旅をする「という」自分
名勝や遺跡でお洒落な写真を取り、充実している「という」自分
観光地で、普段は見かけることが無い絶景を見ちゃいました「という」自分
知らない人とも触れ合って、非日常を感じることができた「という」自分
何か国も自分で旅行したことがある「という」自分
旅が好きだ「という」自分
いろいろある。
自分という存在の価値表出を行い、自己を高揚させたり、有名な観光地の象徴を行ったり。現実からの逃避と何かへの希求をというアンビバレンスなことしちゃっているという自分。
本当に様々だ。
すぐ情勢が悪化するだけで、ダメになってしまうものの
「観光産業」は、外貨の獲得だけではなく、人々の存在意義を保つことにも一役買っているのかもしれない・・・
と
今日も大学生は惟っている。
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