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味のしない天麩羅、水で薄めたカルピスの原液或いはカルピスの原液で薄めた水⓫

模倣であることを避けられない様だ(死ぬしか無いように見える)

観光とは。音楽を聴くとは。一体それらはどういうことなのだろう。また疑問に思う今日この頃。そこに本物を求めようとすることは、おこがましいことなのだろうか。それら自身が本物であり、また本物であるという認識が間違いでないことを、どうしても求めている。

その笑顔だけが本物なのかもしれない。魔法にかけられたままで、認識論誤謬に気づかないままでいた方が、幸せだったのかもしれない。

オリジナル(であるはずのもの)と、フェイク或いは、レプリカント(複製)の盗作した関係。これが不思議な事に、そう言われるまではなかなか気づかない。一番身近なもの、或いは長く学んできたもの、欠かさずおこなうことにこそ、「可笑しさ」を見いだすものは難しいものなのだな。

これは、まさにシュミラークルに近いものだ。どちらがホンモノで、ニセモノか決めることのできないモノや状態なのだ。

レコードの罠にはまったものにとっては、公演は、レコードの模倣となる。聴衆ー彼らは普通、その音楽家のレコードを聞いているーは、レコードの行ける複製を聞きに行くにすぎない。かつては、レコードによって演奏を録音したのが、今日では逆に、演奏はそれがレコードの模倣であるかぎりでしか成功しないとは、皮肉である。(ジャック・アタリ、2012、147)

観光である。これはまさしく、観光の本質である。

ヴァルター・ベンヤミンの云う「アウラの喪失」は、あながち間違いではないどころか、どんどん真実味を増していくように見えた。「複製技術時代の芸術」を始めて読んだ時よりも、他にも様々な本を読んでいく中で、間違いではないのだと否が応でも気づいてしまう。

ライブというものがある。それはつまり「生(なま)の」ということであるかもしれないけれど、「アウラ」や「真正性」を真に有しているかと言われれば、そうであると断定することは出来ない。

引用文にもあるように、ライブ(演奏)というものは、それがライブ限定で、新曲などを発表したりしない限り、聞いたことのある音楽の再確認に過ぎないからだ。最初に奏でられる音の模倣であるレコード。そして、本来は、一回限りの価値などを有していたはずの演奏が、模倣であるレコードの模倣となる。

いわば、「複製」の「複製(生)」が、ライブであるとさえいえる。

もうすっかり、そこでしか聞くことの出来ないという「価値」は、複製や、録音や、模倣という暴力によって消えてしまっている。どこまでも広がっていく、「模倣」。「真似事」、「似せもの」。

ヨルシカのライブがあるのかどうかわからない。それがオンラインであるにせよ、オフラインであるにせよ、おそらくは、レコードの模倣なのだ。そしてその再確認をするという意識ではなく、その場にいるという意識が優先されて、その「演奏」が模倣でしかないということを忘れてしまう。

ヨルシカの「レプリカント」という曲を聞く。わざわざ購入しなくても、誰かが彼らの楽器による演奏のために、原曲(模倣)を流してくれる。しかし違法にはならないのだから、不思議である。

その「レプリカント」は、それ自体が、複製である。何度も聞くことができるという時点で、録音された複製である。それをライブで聞くにしても、所詮はレコードの模倣である。どこまで行っても、それ自身が「アウラ」を持ち合わせるシーンは現れない。心から、言葉から溢れる主観性だけが、その「アウラ」を持っている。それ以外は、否であろうか。

これと同じように、「観光」もまた、模倣の模倣であると考える。

観光に行く前に、情報を検索することは、もう当たり前すぎて、疑いようのないことであると思うだろう? しかしそれらは、演奏を殺した「模倣」「反復」(ジャック・アタリ、2012)に他ならない。観光(地)はその性質に、既に「模倣の模倣」であることを避けることができないものを内包している。

宿泊サービスの検索。写真が綺麗に撮れる場所。皆が訪れるような場所。土産。特産品。ご当地アイドル。ご当地ヒーロー。ご当地キャラ。アクセス。

これらは、完全にある観光地そのものを表しているわけではないことに加え、観光地そのものではないのだけれど、しかしある観光地へのイメージとして、人々のなかに構築されがちなことは間違いないとは惟う。検索して得た情報、誰かから聞いた情報そのものが、ある観光地そのもののイメージと化してしまう(そのイメージがもちろん全てではない)。ある意味では、色眼鏡。

この意味で、観光は「模倣の模倣」、手に入れたイメージの再確認という特徴が、非ッッ常に強い。演奏を、反復の一部とみなすこと、いや演奏を反復の暴力に曝しながらも、それに抵抗することが不可能であることこそ、(ワタシなりに学んでいく中で見出した)観光の在り方なのだと惟う。

音楽と、観光。というか、もうちょっと、「観光」というものを、それは流石に関係ないだろ!という分野から、見つめてみたい・・・!あともうちょっと、音楽と観光の関係も掘り下げてみんとする。




今日も大学生は惟っている。


参考・引用文献

ヴァルター・ベンヤミン.2000.複製技術時代の芸術作品.(多木浩二訳).岩波書店

ジャック・アタリ.2012.ノイズ 音楽/貨幣/雑音.(金塚貞文訳).みすず書房


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