もはや「母語」が育まれない国
赤ん坊が言葉を学ぶ上で重要なことは何か?
それは親のような、子供を育てる者の存在だ。
ここで興味深い文章を引用する。
つまり、赤ちゃんが言語を習得するときというのは、自分の周囲の人たちの言葉を真似することで覚えていくわけですが、この過程で重要なのが、自分が発した時の相手の反応だということです。反応がないと、ミラニューロンがうまく機能せず、言葉を習得できなくなってしまうのです。斎藤孝、2014、「学習効果はライブで高まる」、『学校では教えてくれない日本語の授業』、株式会社PHP研究所、313
そして
ことばと概念は裏腹の関係にあるので、多くのことばに接することによって、多くの概念が形成され、それに応じて思考回路が高度化する。幼児期から常にきちんとした日本語を聞かせることが、頭をよくするためには最良なのである。難波菊次郎、2008、「幼年期における脳細胞の発育」、『きちんとした日本語がいい人生をつくる』、PHP研究所、50
この二つの文章からわかること、それは
母語は集中的に沢山聞いて、沢山話すべし!
ということ。
最近よくCMを見ていると、幼少期から英語学習を促す内容のものを目にします。
もし、よく考えもせずに
「英語学習」=「子どもの為!」
という、よう分からん固定観念に囚われ、興味があるなら未だしも、興味のない子供に無理やりやらせるのは、百害あって一利なし以外の何物でもありません。
核家族化
この傾向はとっくのとうの昔から始まっていますね・・・。
核家族とは、父、母、子のように、二世代のみで形成されている家族のこと。
私はこの「核家族」という形態が、子供たちの母語学習を育むことを阻んでいると思うのです。
ひと昔前は、
共同体のような家族が(共同体と家族は異なるものですが)が存在していました。
母、父、子という二世代だけでなく、祖父母が共に暮らしていたのです。
少なくとも、子供以外の二世代の人々の言葉を子供たちは聞くことができたのです。
もはや「母語」が育まれない国
何を隠そう、日本のことである。
ただでさえ少子化が進行し、最早人口がこれ以上増える見込みのないこの国は、
現時点で、「日本語」すらも失いはじめているのかもしれない。
それは少し寂しい・・・。
しかし言葉とは、万物が流転するように、変化していくものである。
アナクシマンドロス風に言えば、
「すべては無限・無規定のものである」だろうか・・・
それでも「日本語」で感じることのできた感動が残らないとなると、残念でならない。
ナルトだって、ルフィだって、一護だって、出久だって、悟空だって、
彼らが発した言葉は、「日本語」であり、生まれた名言も確かに「日本語」を介している。
しかし、日本語はたしかに消えていく。
そして同時に、「日本人」もその姿を着々と排していくのだろうな・・・
と
今日も大学生は煩悶する。