「雑談だけで」という表現に勝手に違和感を覚えた。
「vtuber」の人気は、目を見張るものらしく、世界を席巻せんかの勢いであるらしい。とあるvtuberが、外貨というか、投げ銭(superchat)で、一億円手に入れたという記事があった。有料記事だってので、詳しい内容を見ることは無かったが、「雑談だけで一億」という文言が、やけに耳に残る。
「雑談だけで」・・・か。どうにも、その表現に違和感を覚える。一億(日本円で)集めるというのは、並大抵のことではないし、いつの時代の人気を集める者がいるもので、そうでないものがいるのだなぁと感じるとことである。さて、先ほどの「違和感」であるが、それはどのような違和感であるのだろう。
それは、「雑談」という言葉の独立性というか、独自性というか、それがやけに誇張されていることだろう。「雑談だけで」という情報は、ある意味では嘘であり、本当である。言い換えれば、半分はホントみたいなところだろう。人間がよくやることであり、機会主義的行動であるとも言えるかもね。
「雑談」に一億集まるのは、その雑談の主体が、「vtuber」だからであるのではないかと感じる。つまりは、「雑談」という要素を、反ゲシュタルト的に取り出したところで、そこにはおそらく何も残らない。
「雑談」に、「vtuber」というイメージ、或いはブランド、換言すれば「記号」という非実体的なものが付属し、人間がそれを「あるもの」だと認識し、機能する。
「雑談だけ」という文言には、それ自体が、「vtuber」という「記号」の強さ、有名であること、自明のことであること、人が注目するものであることを暗に言及しているのだろうな~と。もしかすれば、「vtuber」という記号が、より大きな支配力を手に入れるのかもしれない。それさえあれば、商品が売れ、金があつまり、人々を魅了し、人々が集まり、熱中し、広告塔となり、「記号消費」を文字通り、予想された通り、体現していく。
「記号」という実体のないもの、非物理的なものというものを、認識し、あるかのように振る舞うことができる人間の特異性を象徴する。人間に、フィクションは必要だ。もしかしたら、「ソードアートオンライン」というある意味では、究極の「フィクション(現実)」が、時を長く待たずして、登場してしまうのかもしれない。
「雑談だけで」という言葉が表す、「雑談」それ自体の弱さ、小ささ、影響力の無さ、脆弱さ、要素への解体不可能性。(矛盾しているように見えていることこそ、本質に近いのかもしれない。)それが、「記号」のサイキョーっぷりさえも見せてくれる。
ちなみに、「記号消費」というのは、T.B.ヴェブレンが提唱したもので、大学で学んだなかで、トップクラスの重要概念だと思ってる!
いやはや、人間の消費という活動は、もはや「モノ」そのものを無いものとして扱ってしまう沼から抜け出せないのかな・・・
これじゃあ地球そのものが、消費財だね
と
今日も大学生は惟っている。