小さじ一杯と少し分の「殺意」と大さじ一杯程の「善意」で
「善く生きる」とよくいうけれど、それつまり何を意味するかを問うたことがある。大学で哲学の授業を受けている時からだったが、なかなかに難しい質問だったと思う。
だが最近は、こうも思うのだ。
仮に「善く生き」たとて、それが自分の生きやすさにつながるのかという疑問だ。私は残念ながら、少なくとも小学校、中学校、高校の中で、「善く生きましょう」のような性善説的な考えばかり、教えられていたのだなと感じる。
「友達100人出来るかな」「臥薪嘗胆」「文武両道」「協力」「人助け」「規律」「自主性」「積極性」「礼儀正しさ」(気色悪さすら感じられる)
12年間近く、私はこのような言葉と共に、それをほとんど疑うことなく生きていた。世の中が、一義的にこのような本質や性質を持ち合わせているという何とも甘ったるい思案を、のうのうと私は抱いていたのだ。
ゼミの教授は、こういう。「大人を信じるなよ・・・!」と。これまで私が受けてきた言葉のどれとも違う意味を含んだ文言。だが妙に納得のいく言葉。そもそも大人ってなんだろうという疑問にすぐに移りそうなのをどうにか抑えつけ、ひとまず思考を停止し、信じてはいけないものが、「大人」なのだと考えることにした。
そんでもって、優しい奴が、結局痛い目にあう。そのことを一番強く感じたのは、実際の出来事からではなく、三島由紀夫の「不道徳教育講座」という著書に出会ったことからだ。
その本にこんなことが書いてある。
好色で、意地悪で、乱暴者という役人がいたとしましょう。彼はなかなか汚職事件を起しません。乱暴で事こわしになるのを恐れて、業者のほうで警戒するからです。人を悪徳に誘惑しようと思う者は、たいていその人の善いほう性質を百パーセント利用しようとします。善い性質をなるたけ少なくすることが、誘惑に陥らぬ秘訣であります。(三島由紀夫、1967、140)
「優しさ」が全てであるという人に限って、結局は人を殺しかねないほどの感情を募らせているように見えるのは気のせいだろうか。これはきっと、その人が、「不道徳」的ではなく、「道徳」的な人物であることに由来するからこそだと私は思う。
なぜ、「道徳」的であることのみが、もてはやされるのか? 私はその理由が分からなくなってしまった。
どうして私は、自分よりも年上の人間達が、「道徳」的であることのみを教えて来たのか、その理由が分からない。
「不道徳」「不誠実」「嘘つき」「裏切り」「非理性的」「卑劣」、年上の人間は、何故かこれが「悪い」ことであることだと、ずっと口にして来たように見える。
今私がこの記憶を保持したまま、幼いころに戻るなら、「悪いってなに?」と訊くことに間違いない。そんで多分、大体の人は答えられない。
学校に全てを押し付けたいわけではない。しかし、子どもが「学ぶ」あらゆる場で、「道徳」的であることの危険性と、「不道徳」的であることの意味や意義を教えてくれたり、一緒に考えたりする場ってあるのだろうかと、疑問に思う。
この世は、そんなに優しくない。人も、社会も、難易度も。
綺麗ごとを教えるのは、もっとたちが悪い。そのことを教えられた子どもを、最も不道徳な事柄へ導くのではないか。
ただ人が「道徳」的であることを信じ込ませるほど、「不道徳」的なことは無いと思っている。
人を信じるなというわけではない。すぐ極論に走るのが、人間の悪い癖だ。弁証法的に考えることが大事。
「道徳」的でありながら、「不道徳」的でもある。しかし極端にそのどちらかに毒されることはない。しかしてその先に何があるのか?
小さじ一杯と少し分の「殺意」
それと、大さじ一杯程の「善意」で
人間が健康的に生きるには、これくらいの心構えで居た方がいいと、私は思う。人を殺す人間という奴は、普段から無口で、「殺す」なんて言わず、またその性格や容貌からも「殺人」を予想することが出来ない人間のように思える。
メディアを信じる訳では無いが!、「まさかあの子が…」という殺人犯に対しての感想が聞こえるのは、やはりこういうことかと思う(´・_・`)
不意に不道徳心が、道徳心100パーセントの人の心の中に現れ、ひょいっと人を殺す。このようなものなのかもしれない。
完全な善意ほど、人を悪意に染めるものはないのではないか・・・。
それは正義が、彼にとって、完全な正義であるがゆえに、のように。
と
今日も大学生は惟っている。
引用文献
三島由紀夫.(1967).不道徳教育講座.角川文庫
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